nostalgic narrative 29
/「これから先はむしろ、インターネットやAIで完結する世界ではなく、リアルでないと経験できないものの価値が上がっていく。そこで魅力を発信できるか。強くなることももちろん大事だが、個性を出すことがより求められる」と羽生会長。人と人が紡ぐからこそ生まれる盤上の物語は、これからも多くの人を引きつけ続けるはずだ/レジェンド羽生善治九段のかなり勇気づけられる文言だ。
そのまんま、舞台(演劇)の領域だからだ。/リアルでないと経験できないもの/は実演における/人対人対応/でけして一対一対応でナイ。どうしても一対一対応にはならない。対応するものがうんとこ多いのだ。これを拡張すると、「同調圧力」や「自己承認」などのディスクール(その時代に罷り通る、敷衍する主要な言辞)に支配されるエピステーメ(その時代の知の領域)の荒野へと歩を進めねばならなくなる。
だから、言わずもがな〈いま〉将棋、囲碁、さらにはプロ野球がブレイクしているのは、ひとりの天才、あるいは超人たちともおもえる集団の姿そのものではなく、彼らが人工知能(AI)を活用しながらも、その数理的確率的アルゴリズムとは異なる作用素によってみずからの固有値を変革していく様(さま)が熱烈にオモシロイからだ。
たとえば、面倒な確率論やAIを用いなくとも「神様どうしが将棋を指した場合」の勝負の確率を決めるのはごく簡単なことで、この場合は駒二枚(王と玉)と枡目の数で決まる。駒が二枚しかなく、枡目が偶数(二枡)の場合は必ず先手が勝つ。たとえ相手が「神」であろうと、ヒトは先手で勝つ。枡目が奇数(三枡)の場合は必ず後手が勝つ。これが最も単純化された確率論だ。 なにしろ確率100%ナンダカラナ。
確率論はつづめていけばそれだけのものに過ぎない。
逆に論ずれば、確率論的にこの地球という天体に(いまの科学において)知的生命体が発生する確率は、確率は、確率は、AIならこう答える「確率論の範疇には入りません」これが最もリアルな回答になる。
そうすると、私たちは存在していないということになる。或いは存在不可能なものが存在していることになる。これは量子力学が導いたひとつの答えだ。もし、私たちがリアルでないならば、そういう「解」もゆるされよう。案外、意外、私たちはリアルではナイのかもしれない。では幻か。幻が生殖繁殖するか?
リアルではナイがリアルである。A=非Aでナイと経験できないものの価値。ほんとうは「演劇」とは極めて愉快、奇怪、そうして常識破壊なものなのかも知れない。私たちは実生活において、それを〈夢〉や〈無意識〉の顕現として「表現」しようとしているらしい。だから、「同調圧力」や「自己承認」などのディスクールに支配される エピステーメの荒野へと歩を進めねばならなくなるのも当然なのさといわねばならない。
/暑ければ 黙って寝て待て 次の氷河期 やがて凍るぞ 身も心も/