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2024年7月

2024年7月18日 (木)

nostalgic narrative 29

/「これから先はむしろ、インターネットやAIで完結する世界ではなく、リアルでないと経験できないものの価値が上がっていく。そこで魅力を発信できるか。強くなることももちろん大事だが、個性を出すことがより求められる」と羽生会長。人と人が紡ぐからこそ生まれる盤上の物語は、これからも多くの人を引きつけ続けるはずだ/レジェンド羽生善治九段のかなり勇気づけられる文言だ。
そのまんま、舞台(演劇)の領域だからだ。/リアルでないと経験できないもの/は実演における/人対人対応/でけして一対一対応でナイ。どうしても一対一対応にはならない。対応するものがうんとこ多いのだ。これを拡張すると、「同調圧力」や「自己承認」などのディスクール(その時代に罷り通る、敷衍する主要な言辞)に支配されるエピステーメ(その時代の知の領域)の荒野へと歩を進めねばならなくなる。
だから、言わずもがな〈いま〉将棋、囲碁、さらにはプロ野球がブレイクしているのは、ひとりの天才、あるいは超人たちともおもえる集団の姿そのものではなく、彼らが人工知能(AI)を活用しながらも、その数理的確率的アルゴリズムとは異なる作用素によってみずからの固有値を変革していく様(さま)が熱烈にオモシロイからだ。
たとえば、面倒な確率論やAIを用いなくとも「神様どうしが将棋を指した場合」の勝負の確率を決めるのはごく簡単なことで、この場合は駒二枚(王と玉)と枡目の数で決まる。駒が二枚しかなく、枡目が偶数(二枡)の場合は必ず先手が勝つ。たとえ相手が「神」であろうと、ヒトは先手で勝つ。枡目が奇数(三枡)の場合は必ず後手が勝つ。これが最も単純化された確率論だ。 なにしろ確率100%ナンダカラナ。
確率論はつづめていけばそれだけのものに過ぎない。
逆に論ずれば、確率論的にこの地球という天体に(いまの科学において)知的生命体が発生する確率は、確率は、確率は、AIならこう答える「確率論の範疇には入りません」これが最もリアルな回答になる。
そうすると、私たちは存在していないということになる。或いは存在不可能なものが存在していることになる。これは量子力学が導いたひとつの答えだ。もし、私たちがリアルでないならば、そういう「解」もゆるされよう。案外、意外、私たちはリアルではナイのかもしれない。では幻か。幻が生殖繁殖するか?
リアルではナイがリアルである。A=非Aでナイと経験できないものの価値。ほんとうは「演劇」とは極めて愉快、奇怪、そうして常識破壊なものなのかも知れない。私たちは実生活において、それを〈夢〉や〈無意識〉の顕現として「表現」しようとしているらしい。だから、「同調圧力」や「自己承認」などのディスクールに支配される エピステーメの荒野へと歩を進めねばならなくなるのも当然なのさといわねばならない。
/暑ければ 黙って寝て待て 次の氷河期 やがて凍るぞ 身も心も/

2024年7月 4日 (木)

nostalgic narrative 28

ミステリにはいろいろな「殺し方」が出てくる。大乱歩はそのトリックを一冊の本にまとめた。海外、国内を問わずに。『幻影城』だったか、まったく別のタイトルだったか。ちょっとさだかでナイのだが。
サブリミナル効果という暗示効果があって、これは映画がまだフィルムの頃、何コマ目かごとにたとえばお菓子の名前を入れる。映画を観ているぶんにはまったく気がつかない。ところが観終わって街に出ると、妙にそのお菓子が食べたくなってくる。これは実験で実証された。もし、このサブリミナルに「死ね」「〇〇を殺せ」といれると、その暗示によってひとが殺せるかも知れない。そういうことで、この効果を用いることは禁止になった。(いくつかはすでに宣言、広告に使われたらしい)
この〈暗示効果〉で人を殺めるというものはさまざまなミステリに登場してきたはずだ。実は私も最近それと似た情況に遭遇した。
鬱病の症状の一つに不眠と早朝覚醒がある。なかなか眠くならないのだが、特に苦にもならないので、スマホをいじってみた。といってもふだん電話としてしか(計算機もあるけど)利用しない私の様な人種が、音楽(無料)を聞いてみた。「懐かしの昭和メロディ」とか「洋画70年代」とかけっこういろいろあって、適当に0時まで聞いていたのだが、「懐かし」シリーズでほぼ必ず出てくる歌がある。かなりイイ歌なのだが、懐かしにしては聞いたことがナイ。スマホの細かい文字でタイトルを読むと『水鏡』とある。鈴木一平・詞・曲なのだが、初耳(ではなくて一見かな)。そこで、スマホ・ユーチューブで聞いてみた。当然、画像がある。竹内結子のドラマ、映画のコラボになっている。で、中村獅童もチョイと出てくる。最後に、音楽が終わってから三浦春馬が出てくる。竹内結子に思い入れはないが、春馬が自死して間を置かずにやはり自死したトップ女優だくらいは知っている。(ドラマも映画もまったく観たことはなく中村獅童と結婚、実子あり程度しか知らない)。けれど春馬は、彼の剣道の師匠が私の知己で、春馬と二人でよく朝稽古したハナシは聞かされていたので、一度手合わせしたいななどとおもったりしていた。春馬の死も竹内結子の死も陰謀論めいた事象はつきまとっている。この実写画像を編集した映像作家はかなりの手練だというふうにみていたのだが、ある夜、「引っ張られた」。
私は好みとタンパク質供給のためにほぼ毎日「ささみフライ」を食べる。フライものは(とくに天麩羅などはまったく)口にしないのだが、この年齢になれば、糖質以外は油質もある程度は食べておいたほうがイイので、近所のマーケットで買い求めるのだが、そこのお姉さん(といっても年齢は私とそう変わらない)がいつもわざわざ大きめのを選ってくれる。まだ揚がってナイときなどは、店内を一回りしているあいだに揚げったものをわざわざ持ってきてくれる。それが母性と重なって、その曲を聞き終わったとたんに「あれが母性、母の愛情というものなんだな」と、終に和解なく母性も愛情も知らずにいまに至る私は落涙してしまった。
これは危険信号だ。朝、目覚めると自殺念慮が強い。おそらくあの歌と映像のせいだ。こういうとき、画像を消し去る方法もあるのだろうけど、そういうテクニック、スキルは私にはない。あってもそうはしない。影響の根をリサーチして解決しないことには収まらない。歌は古いものだ。歌手(作曲・作詞)はいまはもう73歳だ。すると、あの歌にフィッティングして製作されたあの巧みな映像のほうに仕掛けがあるはずだ。何回か映像を観る。もちろんデジタル映像なのでサブリミナルな暗示効果は仕込めない(として)、編集は、歌に合わせるかのように失恋、悲しみ、立ち直り、笑顔、新しい恋、悦び、苦しみ、涙、笑顔、笑い、道化、覚悟、と、情感に溢れている。仕掛けはそういうものではなさそうだ。でも何か映像に引っ掛かりを感じる。何だいったい。
で、餅は餅屋、ヤッとみつけた。シーンが変わるカットのツナギの秒数がこちらの心的転換スピードより僅かに速いのだ。つまり余韻を感じるほんの0,3~5秒前にカットが切り替わって次シーンに移る。このフラストレーションが重なる。で、最後に音楽がすべて終わったときに春馬との二人のシーンがある。こは5秒程度なのだが、シーンが切り替わることはナイ。春馬が手をさしのべる。竹内結子がその手を掴む。これは引っ張られる。frustrationがスっと解けるのだから。
このハナシを、鬱病の担当の精神科医師に実際に映像をみせながら、すでに自殺しているものもいるんじゃないかなと話したところ。「気持ちよく逝ったでしょうね」とのひと言に、ああそうか、こういう自殺念慮を利用した殺人方法もあるかも知れないなと、殺人の新手になるなとおもったりした。

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