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2024年6月19日 (水)

nostalgic narrative 27

承認欲求 表現主体を他者として自らが読者となることで作品から承認されているという欲求を充足させるひとつの方法論もしくは方法論的実存。演劇現場に置き換えれば、銭を払った(チケット代のことです)観客として舞台を観ることの心理的、心情的優越(ただし批評家的存在としての分析主体が自らでなければならない)
情報の終焉の世界においては承認欲求における承認はすべて無効である 何故ならそれは欲望の成就(充足)であるにしても対象の真贋の基準にはならない コトバを変えれば、正しく自己が承認されているという客観的証左は何処にも無い。表現主体のドクサ(ギリシア語のdoxa. 哲学で、真の知識(エピステーメー)に対し、当人にそう思われているにすぎないこと。 臆見。 思いこみ)つまり表現主体の欲求、欲望だけが表現主体を承認していることになる。
昨今、流行りの語句が「承認欲求」。これは正負両方の意味があるのだが、概ね「負」の意味合いで投じられることが多い。「それは単なるあなたの承認欲求でしょ」とか「あなたは承認欲求してほしいのか」とか「承認欲求しかされないので困っています」とか。
ちょっとマが差してとあるSNSで、さまざまな質問に応えてみたが、そこにも「魔」があり「闇」があった。もちろん、善も好意も光もあったのだ。その「魔」「闇」の質問パターンを「釣り」というのだそうだ。慣れている方々は質問の臭いを嗅ぐかのようにそれを見抜く。見抜いて調べ上げて「釣りだっ」とレッテル。お見事というしかナイ。私はそこまで、ウインドウズ10と親指シフトのキーボードのハイブリッド デバイスを使いこなせない。
「釣り」とは、承認欲求の自己満足における阿漕な仕掛なけのだが、具体的にいうと、回答者が応えそうな質問を質問をして、回答したものに難儀ないいがかりを吹っ掛ける。私の場合は「〇〇の著作の中でどのホンを読めばイイでしょうか」という簡単な質問だったが、私はその〇〇のことは知らないので当然著作も知らない。そこで、そのとおり応答したら、質問者からおもいもかけぬコメントが返ってきた。質問者がいきなりサディストの女王さまに変身された。おぞましいので記さないが、「まるで詐欺のようだ。気をつけないとね」と、別のところでコメントを記すと、質問者の中に出てきた「〇〇」と所属の団体を知っているものがあって、「これでは〇〇と所属団体がかわいそすぎる」とコメントがあった。かわうそ(獺)ではナイ。ベクトルがどちらに向いているかはちょっとワカラナイが、まるで仕込みじゃないかと、疑惑が浮かんだことはプカプカ。とこれで、これでオワリなのかどうか、「釣り」めいた質問には数回出合っているので、そのたびに胸が悪くなったが、かなり慣れたヒトでも「釣り」にかかって、丁寧に答えたところ/いきなり女王/で、回答者にたいして謝罪の要求が幾つもきたことについてネットを調べた結果、その質問者は他でも同様のことをヤっている。ということで、注意喚起が促されていた。そういうヒトに対してはさすがだなあと感心するしかナイ。
翌日、月一通院(定期検診)の「かかりつけ医師」に、これこれでちょっとストレスですよと血圧高めの原因についてを世間話のつもりでしてみたら、「北村さん、そういうところはヤメタほうがいい」と一喝された。「そういうところは、けして〈外〉ではナイんです。〈中〉なんです。中でもがくだけですよ」
なるほど、正しい分析だなとおもった。
が、そこを追ん出るだけでは、私の満身創痍は治まらない。というワケで、流行の「承認欲求」とやらに辿り着いて、私なりにそいつを解釈してみたのが前文だ。
現在、申し訳ナイとはおもうが、半ばそこは離れ、当然回答、応答はしていない。それでも、なんとか応えてもらいたいくらいの質問者を半年ばかり静観するつもりでいる。

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