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2024年6月 2日 (日)

nostalgic narrative 25

幾度、医師という職業とつきあうのにうんざりしてきたものか。幼童の頃から医師の分際に蔑視を投げかけてきたものか。もうすぐ七十二歳になるのだが、やな余生だなとはおもいつつも、太宰老師の『如是我聞』が如く残り少ないアトがもうナイということはかえって生き易いものでもあるのだなと、心底感じ取れるのが、「オマケ」という特権だろう。
市販医薬過剰摂取、いわゆるオーバードーズでQQ搬送される高校生が急激に増加している。特に不良でなく、犯歴、非行歴もナイ。毎日しんどいので、ちょっと楽になりたい、から、たくさん服用してみる。なるほど、楽にはなりますよ。いっときだけだけどね。医者に行ってビタミンB(いわゆるアリナミン)注射でもしてもらえばイイのに。アトは、生薬でも楽になれる。~~~湯と〇〇〇丸を併せのめばよろしい。ちょっと薬理学の勉強してから市販薬を買いにいきなさい。
こういうのは、たいていが医師、医療不信からきている。そういや、WHOに反対する大集会てのが東京であったそうで、小さな集会ならアチコチでやっているらしい。みなさん、光の天使なんだそうだ。COVID-19ウイルスは意図的に人類滅亡のためにばらまかれたもので、ワクチンもそうなのだ。いっそのこと、マイナカード情報収集反対もヤりゃいいのに。今年の12月には保険書がすべて紐付きになる。現在6,5%しか利用者がいないのに。マイナカードは便利なのだそうで、私なんかつくってから、ナンバーが施行されてからすぐにつくったんたけど、確定申告のときにわざわざコピーとって貼り付けて、手間が増えた焦燥はあるけど、便利だなあとおもったことなど無い。だいたい使わないからな。毎日電子版で、ほんの部分を拾ってみる。/徹夜で素振りをして、翌日の試合で凡退ばかりしているバッターに「成果があった」という評価は与えられまい。頑張ることは、手段であって目的ではないのである。結局、人々がマイナを持つことで、どのような社会にしたいのか、明確なビジョンが示されたことはない。「馬を水飲み場につれていくことはできても、水を飲ませることはできない」とよく言われる/
医療については、医学生の怠慢というか、手抜き学習について/本当のアクティブ・ラーニングとは、自らの学習法を試行錯誤しながら自ら開拓していく学び方のことだ。エジソンの「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」は至言なのである/としている。これはこうつづく /日本の感染症診療のレベルは低いので(これでも数十年前よりはだいぶマシになったのだが)、「正確な診断無しでとりあえず薬を出す」という雑なプラクティス(学習・練習・稽古・試行)が横行している。よって、その医者は成功しているのか、失敗しているのかすら理解できていない。大学病院の医者は、発熱患者でも血液培養を取らず、「原因不明確なまま」治療をしていたのである。「感染症を診断せずに、原因微生物を検出せずに」、適当に抗生物質で治療し、当たるも八卦、当たらぬも八卦な医療をしていたのだ/
「原因不明」という医師・医療・医学の伝家の宝刀、水戸黄門の印籠、はウソだ。究明努力もせずにナニいっているんだろ。もう、こんな世の中とはおさらばだ。後期高齢者なんて御免だからナ。もう少しだけ仕事はスル。それで、あばよにしたい。(おかげで死ぬことへの怖さなんてのは若いときに比べて無くなった。生き地獄とはよくぞいうた)

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