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2024年2月25日 (日)

nostalgic narrative 10

/生き抜くのには覚悟がいります 死ぬという覚悟です その覚悟さえできていれば生き抜くことができます/
単に「ひとは死ぬものだ」ならアタリマエのことで、覚悟とはいわない。この場合、ひとは産まれたときから徐々に死に始めて、完全に死ぬまでを寿命という、といっているのと同じだ。ならば、「死ぬという覚悟」とは何か。これは述語にあたる。もちろん、「生き抜くのには」を主語とする述語だ。
もちろん、ひとは永遠に生き抜ける存在ではナイ。生物学的に必ず死ぬ。ただ、それはさほど悲惨なことではナイと/私は/かんがえている。逆に、「永遠の生命」などといわれると、それはなにか一種の「呪い」のように身が竦む。ここですでにキリスト教とは分岐しているといわざるを得ない。仏教にしても、浄土系の宗派においては、念仏一発で浄土なのだから、それがどの如来の浄土であろうと、キリスト教と同じになる。非浄土系ではどうか。ここに「成仏」が加わる。すなわち仏に成るために修行が待っている。この経過年数は天文学的というにはあまりに天文学的が微々であり過ぎるために、示すことは出来ても、実感するということも、想像することも出来ない年数(時間)になる。しかし、ここに光速を代入すれば、時間は消滅するので、一瞬と同じになる。あっという間もなく成仏ということになる。
法華経においては、成仏したアト、仏は何をするかというと、もう一回、一から修行をやり直す。けっきょくのところ、永遠というほかナイ。ここは修行はヤメて「涅槃寂静」といったほうがやすらかでイイ。
年をとるということは、自然に「涅槃寂静」を求めるようになっていくことなのだなあと昨今はおもうようになった。この世はこの世で一回だけでイイ。あの世がどの世か知らないが、この世でナイならどうでもイイ。
「断捨離」とはこの世を捨てることだ。浮世の垢どころか泥や反吐を捨てることだ。不要なものを捨てることだという不埒な阿呆もいるようだが、そらチガウ。
ただ、出来ればその棄て方は自分の意志(意思)においてがイイ。殺されるのは嫌だね。闘って死ぬのは別だが。「核」がキライなのは闘う手段がこちらに全く無いという理由による。私の夢、今しも核のボタンを押そうとしているものを狙撃すること。

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