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2024年2月

2024年2月27日 (火)

nostalgic narrative 11

/国の調査は、全国の中学1000校の2年生(約10万人)と全日制高校350校の2年生(約6・8万人)にネットで回答を求めた。中2は約17人に1人、高2は約24人に1人が「世話をする家族がいる」と答えた。21年度に調査した公立の小学6年生は6・5%(約15人に1人)だった。きょうだいや両親らをケアする児童や生徒が1学級に1~2人いるとみられる。一方、ソニー生命保険がダブルケアを経験した1000人にアンケートした23年調査では、4割超が「子どもの頃から家族の世話をすることが多かった」と回答。ヤングケアラーが大人になって自身の家族を持つ中で、ダブルケアに移行している可能性が高いとみられる。/
/ロシアのウクライナ侵攻から2年という節目で新規加盟国を迎え、NATOは結束をアピールする機会を得た。ただ世界最大の軍事同盟であるNATO内にはガバナンス(統治)のほころびの兆しもみえる。最大の懸念はトランプ前米大統領が11月の大統領選で再選することだ。前大統領はNATO加盟国への防衛義務を順守しない可能性に言及した。前大統領はかねて、国防費を国内総生産(GDP)比で2%以上に増やすNATO目標を達成していない国への不満を表明してきた。ストルテンベルグ氏は14日、24年に現加盟31カ国のうち18カ国が国防費目標を達成する見込みだと発表した。仮にトランプ氏が再選すれば、欧州の加盟国は米国の説得という新たな課題に直面する。/
電子板から二つ抜き出してきた。なんの関係もナイようにみえるが、この地理的、政治的に離れたところには、現状世界の若者の立ち位置の苦境がある。ウクライナでは60歳以下の男子は越境を禁じられている。兵力だからだ。これが25歳からだったのが20歳からに変更されようとしている。つまり兵力が不足しているからだ。不足しているのは兵力だけではナイ。実弾も足らない。さらに肝腎のガバメントや軍では汚職問題が鬱積している。そうしてそれに連なる兵役遺棄も増加している。ただ、降伏は依然として拒否している。
本年(2024)の米大統領選挙において「もしトラ」といコトバがメディアに流布さているが、私は「ほぼトラ」だとかんがえている。理由は至極単純で、トランプ氏は大統領の資格を得るまで、暴動だろうが、反逆だろうが、大統領選を即時継続したままヤメナイだろうからだ。従って極端にいうと、合衆国は内戦状態となる。この戦闘は米国憲法が保証しているのだから、単なる混乱、混迷、混沌、ではすまなくなるのは目にみえている。これが民主主義というもののもつ、矛盾なのだ。
これらを総合してみれば、「ほぼトラ」でアメリカはNATOを抜ける。アメリカという中核に抜けられたNATOは、ある意味、アメリカを含む第三次大戦は避けられたと楽天的にかんがえることが出来る(つまり最終戦争はなんとか避けられる)。よって対峙する図式は欧州×ロシア連盟(+北朝鮮・イラン)とに変わる。(中国は括弧に入れておかないと、ワカラナイ)。まず、ウクライナはNATOという軍事同盟に加入させるのではなく、EUという経済同盟に加入することになる。停戦の可能性があるにせよ、アメリカの事変に乗じた三次大戦にはなる確率が高いとかんがえるのが常識だ。(核もまた括弧に入れないとしょうがない。通常兵器による戦争で充分だ)NATO加盟国は、揃ってか個別に、経済的損失を防ぐために闘わねば仕方がない。ともかく米ロの核戦争にだけはしたくはナイ。ウクライナのように資源と穀物の豊富な領地を手にすることは、それが、分割されたものであっても死守しなければならない。
世界は、トランプ独裁一国資本主義と反トランプ派合衆国連盟が闘う米内戦と、欧州の東西が闘う戦争という二つの戦争をいちどきに経験することになるだろう。
さて、そこで、日本なのだ。裏金ガバメントのこの国家だ。次回、何か考えがまとまったら、そのことについて書いてみたい。


2024年2月25日 (日)

nostalgic narrative 10

/生き抜くのには覚悟がいります 死ぬという覚悟です その覚悟さえできていれば生き抜くことができます/
単に「ひとは死ぬものだ」ならアタリマエのことで、覚悟とはいわない。この場合、ひとは産まれたときから徐々に死に始めて、完全に死ぬまでを寿命という、といっているのと同じだ。ならば、「死ぬという覚悟」とは何か。これは述語にあたる。もちろん、「生き抜くのには」を主語とする述語だ。
もちろん、ひとは永遠に生き抜ける存在ではナイ。生物学的に必ず死ぬ。ただ、それはさほど悲惨なことではナイと/私は/かんがえている。逆に、「永遠の生命」などといわれると、それはなにか一種の「呪い」のように身が竦む。ここですでにキリスト教とは分岐しているといわざるを得ない。仏教にしても、浄土系の宗派においては、念仏一発で浄土なのだから、それがどの如来の浄土であろうと、キリスト教と同じになる。非浄土系ではどうか。ここに「成仏」が加わる。すなわち仏に成るために修行が待っている。この経過年数は天文学的というにはあまりに天文学的が微々であり過ぎるために、示すことは出来ても、実感するということも、想像することも出来ない年数(時間)になる。しかし、ここに光速を代入すれば、時間は消滅するので、一瞬と同じになる。あっという間もなく成仏ということになる。
法華経においては、成仏したアト、仏は何をするかというと、もう一回、一から修行をやり直す。けっきょくのところ、永遠というほかナイ。ここは修行はヤメて「涅槃寂静」といったほうがやすらかでイイ。
年をとるということは、自然に「涅槃寂静」を求めるようになっていくことなのだなあと昨今はおもうようになった。この世はこの世で一回だけでイイ。あの世がどの世か知らないが、この世でナイならどうでもイイ。
「断捨離」とはこの世を捨てることだ。浮世の垢どころか泥や反吐を捨てることだ。不要なものを捨てることだという不埒な阿呆もいるようだが、そらチガウ。
ただ、出来ればその棄て方は自分の意志(意思)においてがイイ。殺されるのは嫌だね。闘って死ぬのは別だが。「核」がキライなのは闘う手段がこちらに全く無いという理由による。私の夢、今しも核のボタンを押そうとしているものを狙撃すること。

2024年2月17日 (土)

nostalgic narrative 9

/みずほリサーチ&テクノロジーズの調査では「インターネット上で自身が受け取る情報のうち、何が正しいのか、何が間違っているのかを判断するのは難しい」と考える人が日本で70%に達した。「あふれる情報にどう接すればよいかわからない姿の表れではないか」と中志津馬上席主任コンサルタントは分析する。
国際大学の山口真一准教授は「誰もがだまされるという前提で情報に接する必要がある」と指摘する。ネット上などで話題になっている情報もうのみにせず、信頼性の高いソースに当たって判断することの重要性が増している。/
オープンAIでのフェイク映像、文章mission(入力)すれば1分間の映像がつくれる、の映像が公開された、日経電子版で「雨の後の新宿の街を歩く女性」だ。一度や二度ではフェイク映像だということはまったくワカラナイ。こと、観察にかけては慎重なほうなのだが、(ロールシャッハ試験で1枚だけ左右がほんの少し異なっていることを発見したことがある)、三度目の一分間で、フェイクだということがヤっと見抜けた。見抜いてしまえば簡単な理屈なのだが、とかくこういうものは、その精緻たるところに最初は驚愕して見入ってしまうため、単純なマチガイを見落とす。そいつを発見したのだけど、しかし、こりゃあ、『禁断の惑星』並に怖いものと今後私たちは付き合わねばならないことになる、ということを物語っている。これで、「女性」を固有にすれば、映画やドラマは時間的にまだ無理でも、現状、CM程度ならすぐにつくれる。生成AIは脚本も書くらしいから、のっけから、脚本、演出、映像、出演すべてAIという作品が出来るのも、こっちも時間の問題だろう。
こちとら舞台(演劇)で良かった。と、対岸の火事のように安心している場合ではナイ。

2024年2月 3日 (土)

nostalgic narrative 8

意味なく太い巻き寿司をそのまま食べる節分の行事「恵方巻き」は私の地方で私の幼少のころはなかった。おそらく全国何処にもなかった。いや、あったのだが、なかった。これは旦那衆のお座敷の芸者遊びだったからだ。それに目をつけたコンビニチェーンがまるで古事の因習でもあるかのように尤もらしいキャッチフレーズを並べ立て、売り出したらアタッタ。それだけのことだ。あの太い海苔巻きがナニを意味しているのか、デフォルメしているか、なんのメタファーかは、推して知るより芸者衆が頬張るところをイメージすれば、その通りなのだ。
松本人志事変もおそらく同様のことだ。だから、芸人松本自身はかの行為をまさか性加害だなどと捉えてはいない。集めた芸者ならぬ素人もしくは新人女性芸人に花代が幾ら支払われたか、それは「裏金」というもので、派閥とやらの政治家連中も、陳情陳述者相手に似たような接待はしてきたろう。多寡はチガウだろうけど。そんなものを会計士が帳簿につけられるワケがナイ。ところが、12年経って、頃合いを見計らったかのようにタチの悪いのが、「あのな、銭になるハナシがあるねん」と、おなご衆に耳打ちする。節分だって年に一回、芸人松本の旦那遊びは年に一回ではおさまらない。本人はただの遊び。口説き、崩し。それがご時世では「性加害」となる。エピステーメはフラットに積まれてきたのではなく面積も不明のままずれて重ねられてきただけ、というワケだ。政治も銭なら、遊びも銭。素人の倫理や論理は入る余地はナイ。
いま、紙で契約を交わしている芸能は文学だけらしい。私は私の物書き生活のことしかいえないが、此度の戯曲、小説の出版は初刷り何部、印税~%、判子、印鑑。たいていの出版社と交わした。交わさず勝手、無断で出版して、もちろん印税も稿料も支払いナシという無礼というより犯罪ヤってる出版社もあって、私なんざひとがいいもんだから、そこの出版社をわざわざ訪ねて、これも紙にせずに厳重注意だけはした。なのに、まだ、そこはアマゾンで販売を続けている。小学館から映画化に合わせて再文庫化され、そのさいに編集者が犯罪出版のホンを読んだところ、半ばまでに八十数ヶ所の誤字脱字をみつけて驚いたというハナシは聞いた。そういう編集者がいるかとおもえば、テレビ・ドラマ化しますということで、「へい、へい」と許諾するヤカラもいるのだ。テレビ・ドラマ屋(日テレのたぶん下請け)にしてみれば、「これはうまいことヤったら企画書通るぞ。制作費もかなり安く出来るぞ」だけの判断で、原作者の許諾など、ハナっからかんがえに入れてはいない。ここもまた、エピステーメは平板に斜に重ねられただけで、お花畑育ちの原作者は、それでも自身の表現者の良心に突き上げられて「文句」はいう。せめて9話と10話は私に書かせてくださいませんか。いった、書いた、とそれをSNSに挙げたら、炎上とやらになった。そんなつもりじゃなかったのに。テレビ・ドラマ屋にしてみれば、そんな脚本などどうでもイイ。コミック原作のテレビ・ドラマや映画など、いくらでも脚色、潤色、演出でメタクタ出来るからナ。哀れお花畑原作者、瞬時にココロを病んだ。だけ、ならまだよかったが、命を絶った。
私の場合、そんなことで命を絶つなどということはナイ。こんなものは恵方巻きだとハナから勘定しているからだ。だったら美味く食える恵方巻きを創るまで。プロデューサーの意向、というのもあるが、それは銭を出すものの判断だ。本場アカデミー賞の「作品賞」というのはプロデューサー賞のことだ。ホンの書き直しのかなりの多くはエピステーメの重なり方のハメチガイによる。ヒロインがゴネる。ヤメル、交替、当然脚本は書き直し。他の役者(俳優)でも一緒。「はいワカリマシタ」以外、私はプロデューサーのmissionに逆らったことはナイ。役の入れ換えがある。脚本の書き直し。役者(俳優)の上下関係、経験序列によってのせりふの多寡を整える、初中(しょっちゅう)、常識的なこととして行われる。120分見当で書いたものが、20分cutになる。ただし、こういったことは当方も承知の上、戯曲が台本になっていく過程として捉えているに過ぎない。ともかくもプロデューサー、嘘つかない。脚本料は舞台初日に支払われる。こういうところにスジは通っている。
かつてテレビ・ドラマは表現媒体ではなく宣伝媒体だった。ドラマだけではナイ。歌謡番組もそうだ。大きなところではエネーチケーの紅白などは、歌手にとってはそのアトの営業料金の算盤となる。あんなもの名誉だとおもって出る歌手がいるのか(それが、いるらしい。阿呆だな)。
ジャニーズが潰れて、自民党がトウ壊して、次は吉本だなと笑っていたら、とんだところで悲報が横入りした。結婚して梅毒うつされて、自殺した女性詩人のことが、ふと脳裏をかすめた。「お魚さんがかわいそう」などといっている世界じゃナイのだ、芸能界は。事もあろうに米国の選挙で、アメリカ民主主義というものが〈共同幻想〉だったということが、老人二人によって暴露されんとしている。ジェンダーがどうこうだといっている間隙を縫うかのように、ひとりの戦士(レンジャー)が時世の読み違いでアッケに亡くなった。「恵方巻きなんか私は食べられないんですっ」じゃナイんだ。いまの外務大臣の100分の1、お花畑から蝶ではなく芋虫の葉を食うごとく「美しさ、ほほほほ、私、ヤクザもんは相手にはしないことにしておりますので、ほほほ」と、出さぬ声を聞かせる力があったなら。そのヤクザものは今頃「いいか、あいつだけは絶対に総理にさせるナ」と残した派閥で口角泡を飛ばしているにチガイナイ。桃太郎は、「きび団子なんてどんどんつくればイイんですよ」と松葉杖ふりまわしているのだろう。「善人なお、以て悪人といわんや」だな。

2024年2月 1日 (木)

nostalgic narrative 7

まず、毎日電子版のニュースそのまま。
/雑誌に連載中の漫画「セクシー田中さん」(小学館)の作者で漫画家の芦原妃名子(本名・松本律子)さん(50)が栃木県内で死亡して見つかっていたことが、捜査関係者への取材で判明した。捜査関係者によると、芦原さんの知人らが28日、「連絡が取れなくなった」と警視庁に行方不明者届を提出していた。その後の捜索で、29日に栃木県内で遺体で見つかったという。現場の状況から、自殺を図ったとみられる。
「セクシー田中さん」は2023年、日本テレビがドラマ化した。同作の映像化を巡っては、芦原さんと制作サイドの間で意見が対立し、脚本の一部を芦原さんが直接執筆する事態になっていたという。芦原さんはSNS(ネット交流サービス)上で、「私が9話、10話の脚本を書かざるを得ないと判断した」などとする書き込みをしていた。さらに連絡が取れなくなった28日午後、自身のX(ツイッター)に「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」と投稿していた。訃報を受け、日本テレビは哀悼と感謝の意を示し、「原作代理人である小学館を通じて、芦原さんの意見をいただきながら、脚本の制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本で放送しております」とコメントした。/

「私が9話、10話の脚本を書かざるを得ないと判断した」などの原作者のSNSへの書き込みは、一部か全部か、おそらくほぼそのまま直前(生前)の毎日電子版に掲載されている。この事変については、ここからしか私は知らない。この事変の詳細、いわゆるSNS関連の「叩き」「援護」については何にも知らナイ。そんなことはいまさら騒ぐことでもナイと判断している。そのアト、いつものように関係者、同業者、読者、視聴者et ceteraのコメントが出て、拾えるものは読んだが、ワカランことが幾つかある。まず、日テレと原作者とのあいだの契約(書)についての情報はナニも出ていナイ。原作者が「不満まんまん」で自ら脚本執筆を書かざるを得ない」日テレを見切って、覚悟を示しているくらいだから、「制作作業の話し合いを重ね、最終的に許諾をいただけた脚本」などはウソだ。だいたい、そういうことをするテレビ・ドラマ制作会社なんぞ、耳にしたことはナイ。原作者は小学館漫画賞を二度受賞してらっしゃるから、相当の描き手だったのだろう(私は、読んでいないので、そこからの判断は出来ないのだが)。原作料が支払われていたのか、支払われていたのならナンボなのかもワカラナイ。これを推し量るに、拙作の『怪人 二十面相伝』が映画化されたとき、原作料は「ほんとかよ~円」で、運良く私の作品あたりから、原作料は日本文芸家協会(現在、私は脱会)の映画会社への懇願(だろうな)で、値上げになって、それまでは10万円だったと資料にある。誤植でなく10万円なのだ。漫画原作の場合はアニメと実写があるから、そのあたりのことは知らないが、まさかハリウッドのように「〇億円」なんてことはナイだろう。
いちばんワカラナイのは、原作者の現状社会(いまの世間)への認識(受け止め方)だ。興行と芸能との了解が、いまどうなっているのか。表現者と興行主はどういう関係でアルのか、まったく識らずにお花畑にいたワケではナイとおもうのだが、これは小学館にも捉え方の責任がある。情況はおそらく旧時代と現代が入り交じった混乱と錯綜の様相だとかんがえてマチガイナイ。これは、松本人志の事変にもいえることだ。週刊文春の位置を述べれば、知っているのに知らんふりのバナーを正義の味方の如くはためかせて銭儲けしているだけのことだ。
書いていて胸が重苦しくなるけれど、次回もこのつづきを書く。主筆も物書きだからナ。

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