nostalgic narrative 3
/「理性があればあるほど、途方に暮れる時代なんです」「せめて、せめて世界で起きている事実を正確にとらえること。それを自分に引き寄せて考えるのではなくて、できるだけ離れて正しく見ることが必要じゃないでしょうか」「ある物事に対して、感情だけで受け止めてしまうと、そこで終わりなんですよ。だから、なるべく、あえて感情を外す。それが物事を見る方法です」/できるだけ離れて観れば、世界はバラバラにみえるようになっている。それらはすべてメディア(報道)のせいだと仮定していいようにおもう。メディアの伝え方というのがあっち飛びこっち飛びの「バラバラ」だからだ。私たちは感情的にしか世界を捉えられなくなっている。感情と理性が対様であるならば整然とした理性に比してデジタルな感情は「バラバラ」だろう。「だから、なるべく、あえて感情を外す」ことが必要だと高村さんは呻くようにコトバを吐かねばならない。感情を外すということはかなり難しいことなのだ。理性は高村さんのいうように「途方に暮れる」しかナイようにおもえる。それぞれの事象に結び付きが何もナイような感触だからだ。そういう応じ方しか「他者」の私たちには出来そうにナイからだ。
大御所芸人松本人志が十二年前のスキャンダルで、裁判。これを「むかしからある、お大尽遊びなんじゃナイの」といってしまうと叩かれるから、下々の芸人は「見守る」側にまわってしまう。しかし、昨今のSNSは強い。一般の誰だかが、「そうなることがワカッテいるのに、のこのこと女のほうはなんで行ったんでしょうね」「で、そのネタをいまさら文春に売っているワケでしょ。訴えるところが最も銭になるところだからかナ。タチが悪いよ」~私の脳裏に残ったツィート(囁き)がもうひとつ「なんか、文春ロシアが松本ウクライナに突然侵略戦争はじめたって感じネ」~逆にこういうのはどうかとおもうのは「おまえら(芸人、一般人を含んでだろうとおもうが)だって、会食を経費にしたことあるだろ」と、痛いところを突いたとおもわせるスピーカー発言。これは、そのまま「パー券のキックバックをナイナイポッポして裏金にした」政治家という「銭がかかるんだよ」連中のフテと重なる。/「気持ちを重ね合わせることなんて、できるはずありません」「大事なことは、むしろ私たちが当事者ではないことです。どちらの側に立つのでもなく、なぜ起きたのか、今起きている事実は何なのか、どう収束させるべきなのか、を考える。それは私たちが離れた場所にいる『他者』だからできることです」/これは戦争に対しての発言なのだが、「当事者」ではナイ「他者」の私たちには、主観はそうでナイにせよ、客観的なところで、なんだかいろいろと重ね合わせることが出来そうにおもえてくることが不思議なところだ。どんな時代にだって、インプットがあればファンクション(或いはアルゴリズム)という作用素を重ね合わせてアウトプットされる方程式はあるのだ。
「こういうときにイチバン保護しなければならないのは子供じゃナイでしょうか」と山本太郎なら、被災地でみてきたことにしていうに決まっている。「嗚呼っ」「やっぱり、視察したヒトはチガウ」としびれる方々がいらっしゃるのだ。そうでナイと工作者は務まらないからナ。で、何も云わない、出来ない人々は、「こういうときこそ、普通に生きることがタイセツなのだ」という免罪符をペタリ。その「普通」とはナンナノダ。これだけ難儀な世の中で「普通」に生きているというのは、尋常ではナイのじゃないのか。まったく情況、環境でも風景でもイイや、それらは、健康に悪い。こちとら鬱病はひどくなる、頸椎狭窄は痛む。関節炎は疼く。経済的に週一度しか泳げなくなったプールで、200mクロールで泳いだアトの現実の疲労感だけを頼りに生きている。泳ぐのに「理性」や「感情」とやらの幻想はナイ。溺れたら死ぬぞ、という恐怖なども、ナイ。
さて、休憩、昼寝、昼寝。
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