nostalgic narrative 4
言語(ここではひとつのコトバを)を「概念」と「意味」とに分けたのは三浦つとむ老師だが、たしか、これは時枝言語学からの批判的発展だったように記憶する。なんしろ、もうはるか昔の お勉強だからなあ。で、吉本隆明老師はマルクス経済学における等価形態と相対的価値形態をヒントにして、言語を指示表出と自己表出に分けた。分けたといっても二分(にぶん)したのではナイ。維摩経の不二法門と同じで「分けない」のだけど、ここを勘違いしている自称吉本学派がいるから面倒くせえんだ。マルクスが商品を形態として比較して〈貨幣〉をあぶり出すためにために便宜上商品を二分したのと同様、ひとつのコトバを指示表出と自己表出として判断分析したということなんだけど、そいでもって、やつがれは、以下のことを思案した。
/言語を指示表出と自己表出に分けるのではなく 指示表出と表現表出の状態ベクトルとして捉える。もちろん、これは古典量子力学からヒントを得ている。言語を状態ベクトルと考えることとして(つまり波動と粒子であると)これを基本あるいは状況に解釈していく/。私のかんがえではコトバは指示表出と表現表出の重なり合い(状態ベクトル)ということになる。
賢そうなことをいって、肩すかしになるかも知れないが、ともかく山本太郎被災地カレー事変は、山本の抗弁「残り物をすすめられたのでいただいた」で、もう、カレーを残飯扱いしているとこで大いに笑わせてもらった。しかし、私はこの抗弁を含む山本カレー事変に感情的にならず、一所懸命に理性的になろうとして、かつて学問したことなどおもいだして、笑いごとじゃナイんだよなあコレ。と、このカレーを食った、食わないは、けっこう問題になるんじゃないかとそんな気になったのだが、なんで笑い事じゃないのかというと、カレーごときでといわれそうだが、この事報を聞いて、パートナーが「カレーを差し出した現地ボランティアの方がたぶん迷惑しているんじゃないのかな」と応じたので、そりゃそうかも知れんなとおもったのだ。現地ボランティアにしてみれば、何人だか知らないが、議員さんが付き人たちと「視察」とやらに来ているのだから、残り物のカレーくらい(ほんとに残り物なのかどうかは山本がそういっている、判断しただけだからアテにはならないのだが)食べてもらうのが礼儀だったろう。〈残り物〉と山桃太郎はいうのだが、〈残飯〉ではあるまいとおもわれるけど。で、鍋の辺りをうろうろしていたのか、そこまで案内(あない)されたのか、それもワカラナイ。こういうところは、飲み会で終わったのか、密室になったのかがワカラナイのとよく似ている。要するに客観的な事実はワカラナイまま、山桃太郎が「桃が流れてきたので食べた」といっているだけだから。ともかく、カレーの代金は未払いなのは確かだけど。キックバックされたパー券は裏金として、政治のために役立てた。といわれたら、終いなのと同じ。「すすめられたものは食わねばならない」も「据え膳食わぬは視察の恥」かな。このカレーの件は、抗弁、論理のすり替えを得意技にしている山桃太郎にしては、ちょっと拙いナ。ともかく、カレーを出した現地ボランティアが、現地でネグレクトされたりしていないことを願う。
ラサールさんは善人で、正義感の強いひとだから、ついつい二次避難について勇み足したのに、「きみたちは、山本がこれまでどんなことをしてきたのかワカッテ、彼を批難しているのか」と、また怒っているのだが、私がresearchした範囲では、東北地震においても、彼は特に「なんにもしてナイ」。私のresearchなんてネットの拾い読みだから、ごっそり援助金なんかしているのかもだが、そういう裏金が山桃太郎にはケルンパからの支援でけっこうあるのかも知れないからな。
つまり、山桃太郎の指示表出(視察)と表現表出(カレー)の状態ベクトル(重なり合い)がハッキリしないのだ。何処に十二年前の事件の被害者女性と週刊文春の状態ベクトルがあるのかがハッキリしないのと同じで、ここにも裏金が動いていたりするんじゃないだろうな、とは、大衆としてのドクサだけど。被害者女性はカレーを食ったのか。彼女たちにどんな残り物があったのか。密室は残り物なのか、残してあったものなのか。ワカラナイ。
とりあえず、カレーは美味かったろうけど、味の悪い事象だから、これでオシマイにしておく。
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