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2024年1月

2024年1月24日 (水)

nostalgic narrative 6

避難所・考
Asyl (アジール)、網野善彦歴史観によるとアジールは歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する。ギリシア語の「ἄσυλον」を語源とする。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」になるのだけど、そんなたいそうなことを論じようとおもっているワケではナイ。能登震災の避難所において、現在三百数十の避難所のうち、自治体の設置している避難所以外の避難所が百三十~四十未満ばかりあるというニュースを聞いた。(数がハッキリしないのは主筆のせいではナイ。全貌は依然としてワカンナイからだ)この自治体以外の避難所の特筆すべき点は、一つの避難所の避難民の少なさだ。だいたい十数人らしい。倒壊をまぬがれた肥料小屋、といえど狭い場所ではナイ、耕作用具なども置かれていたフラットな広い場所とおもわれる。約十数人が避難とはいうが、もっと少ない人数、たとえば四~五人くらいかも知れない。このアジールのイチバンの利点は、二次災害(大きなものでは感染)が防ぎやすいということだろう。目配り気配りが効き易いので、病人の手当ても(薬品や医療備品さへ持ち出せていたら)大きな避難所より利便性が大きい。食料の問題がどうか心配になるところだが、公設の二次避難場所においても食料難はけっこう大きく、二次避難が二割に満たない理由とされているのだから、ドッコイドッコイじゃないのかな。こういったおよそ全体のアジール(避難所)の半数に近い避難所には、もっと少ない人数の(たとえば一家族、あるいはパートナーどうし)ものがある確率は高いとおもえる。なぜなら、そのほうが「避難」というものがしやすければ、当然そうするだろうからだ。
今後幾つも起きるだろう災害における避難所の在り方はもっと研究、研鑽されてイイのではないかとおもう。ともかくはアジールしか救済してくれるところは無いのだから。被災者を大勢集めるところを「避難所」だなどと考えている無能極まりないガバメントが、想定どおり如何に役立たずかはもう立証されているのだから。まともな成果の出せる営為なら、コンプライアンスから外れていても、残り物のカレーくらい食っても、被災者から邪魔者扱いされるワケはナイだろ。部外者からの苦言より問題なのは、黙して語らぬ被災者なのだ。おそらく被災者は、なんだかワカランよそ者に対してなんだかワカランかったから黙ってるしかナイ。桃太郎ではナイ他の誰が掟破りで入り込んでも同じことだったにチガイナイ。それは、芸人松本が訴訟の相手にしているのは、文春出版社であるのに、被害者の女性の言説を争点にしている数多のコメンティターと同じだ。ビートたけしの一括は、浅草経験がいわせる重いものがあるが、けっきょくは「女の扱い方」「遊びの仕方」についてしかいっていないところで美談となっているのに、あんたいつだたか、似たようなことで自殺しかけたんじゃないの、と、主筆は焦燥をもよおして、ココロ静めるために今日は舞う雪を観ている。ほんと、雪は「ナニ、ヤってんだろね」とただヒラヒラしている。
私は災害からの避難場所が何処かは知っているが、いまの住居が破砕や倒壊するような大きな災害であれば、何処に逃げても時間の問題という気がしているので、備蓄出来ることが可能なものを多くはナイが備蓄(順繰りに消費)している程度だ。
大きなところに避難する余裕はナイとおもっている。まず、メンタルな問題で真っ先にヤラレルのは自分だとワカッテいるからだ。建造物の耐震度合いを識っておくこともタイセツだろうが、まず、第一にかんがえるべきは自分自身の「度合い」だ。どれだけ耐えられるのか。
災害では、全ての人々が被災者だ。病人も、医者も看護師も、福祉役人も、消防団員も、原発職員も、だれもかれも。一発でパァッと消滅させられる「核」なら別ですけどね。
ここにきて、トランプなどの高笑いなど聞かされていたんじゃ、生きていく気がしなくなる。

2024年1月22日 (月)

nostalgic narrative 5

/2024年1月21日 5:00能登半島地震で石川県が募集した個人ボランティアが始動した。1万人超が登録したが、被害が集中する市町での受け入れは手探りが続く。背景には長引く道路の寸断や断水がある。被災地は半島に位置し、アクセスが難しい。感染症の拡大が懸念され、災害廃棄物を仮置きする場所が決まっていない地区が多いことも活動開始が難しい一因とみられる。
災害ボランティアは被災地に負担をかけないために事前の情報収集と十分な準備が求められる。石川県は6日に開いた専用サイトでの事前登録と、活動中にけがをしたり、けがをさせたりした場合に備えた「ボランティア活動保険」への加入を求めている。
活動時は水やトイレ、寝る場所まで「自己完結」が原則となる。
/能登半島地震の発生から22日で3週間となる。避難生活を送る被災者は1万5千人に及ぶ。石川県は設備が整うホテルや旅館への「2次避難」を進めるが、実際に移ったのは2割弱。家や土地を放置し離れざるをえず、不安は大きい。体育館などの避難所では体調悪化が懸念され、生活再建への道筋を示し決断を後押しする必要がある。
どちらも毎日電子版なのだが、やっとココなのだ。「まず被災地のニーズを聞いて」などというてたひとは、いま派閥がどたらこたらで忙しいらしい。それについての会議をヤってるらしい。ほんで「派閥解散」を決めたんやて。ど阿呆っ。
被災地は、どやねん。カレーを食うた、残りもんや、アホみたいなこというてんとき。議員さん。

2024年1月18日 (木)

nostalgic narrative 4

言語(ここではひとつのコトバを)を「概念」と「意味」とに分けたのは三浦つとむ老師だが、たしか、これは時枝言語学からの批判的発展だったように記憶する。なんしろ、もうはるか昔の お勉強だからなあ。で、吉本隆明老師はマルクス経済学における等価形態と相対的価値形態をヒントにして、言語を指示表出と自己表出に分けた。分けたといっても二分(にぶん)したのではナイ。維摩経の不二法門と同じで「分けない」のだけど、ここを勘違いしている自称吉本学派がいるから面倒くせえんだ。マルクスが商品を形態として比較して〈貨幣〉をあぶり出すためにために便宜上商品を二分したのと同様、ひとつのコトバを指示表出と自己表出として判断分析したということなんだけど、そいでもって、やつがれは、以下のことを思案した。
/言語を指示表出と自己表出に分けるのではなく 指示表出と表現表出の状態ベクトルとして捉える。もちろん、これは古典量子力学からヒントを得ている。言語を状態ベクトルと考えることとして(つまり波動と粒子であると)これを基本あるいは状況に解釈していく/。私のかんがえではコトバは指示表出と表現表出の重なり合い(状態ベクトル)ということになる。
賢そうなことをいって、肩すかしになるかも知れないが、ともかく山本太郎被災地カレー事変は、山本の抗弁「残り物をすすめられたのでいただいた」で、もう、カレーを残飯扱いしているとこで大いに笑わせてもらった。しかし、私はこの抗弁を含む山本カレー事変に感情的にならず、一所懸命に理性的になろうとして、かつて学問したことなどおもいだして、笑いごとじゃナイんだよなあコレ。と、このカレーを食った、食わないは、けっこう問題になるんじゃないかとそんな気になったのだが、なんで笑い事じゃないのかというと、カレーごときでといわれそうだが、この事報を聞いて、パートナーが「カレーを差し出した現地ボランティアの方がたぶん迷惑しているんじゃないのかな」と応じたので、そりゃそうかも知れんなとおもったのだ。現地ボランティアにしてみれば、何人だか知らないが、議員さんが付き人たちと「視察」とやらに来ているのだから、残り物のカレーくらい(ほんとに残り物なのかどうかは山本がそういっている、判断しただけだからアテにはならないのだが)食べてもらうのが礼儀だったろう。〈残り物〉と山桃太郎はいうのだが、〈残飯〉ではあるまいとおもわれるけど。で、鍋の辺りをうろうろしていたのか、そこまで案内(あない)されたのか、それもワカラナイ。こういうところは、飲み会で終わったのか、密室になったのかがワカラナイのとよく似ている。要するに客観的な事実はワカラナイまま、山桃太郎が「桃が流れてきたので食べた」といっているだけだから。ともかく、カレーの代金は未払いなのは確かだけど。キックバックされたパー券は裏金として、政治のために役立てた。といわれたら、終いなのと同じ。「すすめられたものは食わねばならない」も「据え膳食わぬは視察の恥」かな。このカレーの件は、抗弁、論理のすり替えを得意技にしている山桃太郎にしては、ちょっと拙いナ。ともかく、カレーを出した現地ボランティアが、現地でネグレクトされたりしていないことを願う。
ラサールさんは善人で、正義感の強いひとだから、ついつい二次避難について勇み足したのに、「きみたちは、山本がこれまでどんなことをしてきたのかワカッテ、彼を批難しているのか」と、また怒っているのだが、私がresearchした範囲では、東北地震においても、彼は特に「なんにもしてナイ」。私のresearchなんてネットの拾い読みだから、ごっそり援助金なんかしているのかもだが、そういう裏金が山桃太郎にはケルンパからの支援でけっこうあるのかも知れないからな。
つまり、山桃太郎の指示表出(視察)と表現表出(カレー)の状態ベクトル(重なり合い)がハッキリしないのだ。何処に十二年前の事件の被害者女性と週刊文春の状態ベクトルがあるのかがハッキリしないのと同じで、ここにも裏金が動いていたりするんじゃないだろうな、とは、大衆としてのドクサだけど。被害者女性はカレーを食ったのか。彼女たちにどんな残り物があったのか。密室は残り物なのか、残してあったものなのか。ワカラナイ。
とりあえず、カレーは美味かったろうけど、味の悪い事象だから、これでオシマイにしておく。

2024年1月17日 (水)

nostalgic narrative 3

/「理性があればあるほど、途方に暮れる時代なんです」「せめて、せめて世界で起きている事実を正確にとらえること。それを自分に引き寄せて考えるのではなくて、できるだけ離れて正しく見ることが必要じゃないでしょうか」「ある物事に対して、感情だけで受け止めてしまうと、そこで終わりなんですよ。だから、なるべく、あえて感情を外す。それが物事を見る方法です」/できるだけ離れて観れば、世界はバラバラにみえるようになっている。それらはすべてメディア(報道)のせいだと仮定していいようにおもう。メディアの伝え方というのがあっち飛びこっち飛びの「バラバラ」だからだ。私たちは感情的にしか世界を捉えられなくなっている。感情と理性が対様であるならば整然とした理性に比してデジタルな感情は「バラバラ」だろう。「だから、なるべく、あえて感情を外す」ことが必要だと高村さんは呻くようにコトバを吐かねばならない。感情を外すということはかなり難しいことなのだ。理性は高村さんのいうように「途方に暮れる」しかナイようにおもえる。それぞれの事象に結び付きが何もナイような感触だからだ。そういう応じ方しか「他者」の私たちには出来そうにナイからだ。
大御所芸人松本人志が十二年前のスキャンダルで、裁判。これを「むかしからある、お大尽遊びなんじゃナイの」といってしまうと叩かれるから、下々の芸人は「見守る」側にまわってしまう。しかし、昨今のSNSは強い。一般の誰だかが、「そうなることがワカッテいるのに、のこのこと女のほうはなんで行ったんでしょうね」「で、そのネタをいまさら文春に売っているワケでしょ。訴えるところが最も銭になるところだからかナ。タチが悪いよ」~私の脳裏に残ったツィート(囁き)がもうひとつ「なんか、文春ロシアが松本ウクライナに突然侵略戦争はじめたって感じネ」~逆にこういうのはどうかとおもうのは「おまえら(芸人、一般人を含んでだろうとおもうが)だって、会食を経費にしたことあるだろ」と、痛いところを突いたとおもわせるスピーカー発言。これは、そのまま「パー券のキックバックをナイナイポッポして裏金にした」政治家という「銭がかかるんだよ」連中のフテと重なる。/「気持ちを重ね合わせることなんて、できるはずありません」「大事なことは、むしろ私たちが当事者ではないことです。どちらの側に立つのでもなく、なぜ起きたのか、今起きている事実は何なのか、どう収束させるべきなのか、を考える。それは私たちが離れた場所にいる『他者』だからできることです」/これは戦争に対しての発言なのだが、「当事者」ではナイ「他者」の私たちには、主観はそうでナイにせよ、客観的なところで、なんだかいろいろと重ね合わせることが出来そうにおもえてくることが不思議なところだ。どんな時代にだって、インプットがあればファンクション(或いはアルゴリズム)という作用素を重ね合わせてアウトプットされる方程式はあるのだ。
「こういうときにイチバン保護しなければならないのは子供じゃナイでしょうか」と山本太郎なら、被災地でみてきたことにしていうに決まっている。「嗚呼っ」「やっぱり、視察したヒトはチガウ」としびれる方々がいらっしゃるのだ。そうでナイと工作者は務まらないからナ。で、何も云わない、出来ない人々は、「こういうときこそ、普通に生きることがタイセツなのだ」という免罪符をペタリ。その「普通」とはナンナノダ。これだけ難儀な世の中で「普通」に生きているというのは、尋常ではナイのじゃないのか。まったく情況、環境でも風景でもイイや、それらは、健康に悪い。こちとら鬱病はひどくなる、頸椎狭窄は痛む。関節炎は疼く。経済的に週一度しか泳げなくなったプールで、200mクロールで泳いだアトの現実の疲労感だけを頼りに生きている。泳ぐのに「理性」や「感情」とやらの幻想はナイ。溺れたら死ぬぞ、という恐怖なども、ナイ。
さて、休憩、昼寝、昼寝。

2024年1月16日 (火)

nostalgic narrative 2

貼り付けるだけではノーがno(「能がない」ということだが、常用的なものではナイ。ちょくちょく戯曲なんかにこのての遊びを用いると罪なことになる。たとえば、これをときどき「脳が無い」とする御仁あれど、ワザとならば、認めてもイイ。「能がない」は英語になるとひと言になる。incapable, incompetent,あるいは英文的にはunequal to,さらに「必要条件を満たさないさま」と訳されて(not meeting requirementsになる)なので(もう何が、なのでか、忘却している読者が多いだろうが)前回の貼り付けに主筆として、おもうところを述べてみる)
/高村薫さんのインタビューから拾ったコトバから。「おそらく大きなターム(期間)で、時代が変わったんですね。人類の歴史は今、これまでとは別の次元で動き出していて、未知のゾーンに入っている」「矛盾とダブルスタンダードの中にこの世界はあるし、私たちはそういう時代を生きています」、、、大きなターム(期間)でというより、私の感触でいえば、カタストロフィな変わり方のようにおもえてならない。朝、いつものように起きてみるといきなり「七十歳ですよ」といわれたよな「えっ」てな感覚ネ。七十歳どころかもう七十一歳なんだけど、ここまで生きられるとはおもっていなかったので、「どうすればイイんだ」と虚(うろ)たえている間に、世界のあちらこちらで戦争は起きる、日本の近隣にミサイルが飛び交う、ドローンなんてのは空撮の道具かと認識していたのが、そんなんじゃナイ。一度に数十発発射されてそれぞれが敵を攻撃する武器、兵器になってる。たしかに「未知のゾーンに入った」のは実感出来る。世の中では「新自由主義」てのが勃興して、さらに「反新自由主義」まで、跋扈しているというから、ポスト構造主義なんていってたむかしが昔になった。マルクス主義は死なずと(ほんとうはスターリニズムなんだけど)日本共産党なんてまだあるというのも、もう世界七不思議になっている。被災地でカレーの味見して帰ってきたアヤツは、何処に入れたらいいんだろう。被災といえば、生きていて「大災害=大地震」を次々と三度も経験させられた。年始にウイーンフィルを聴く余裕もナイ。矛盾とダブスタ、たしかに、今年合衆国の大統領がトランプになったら、民主主義は終わるか、ベツモノに書き換えられるかするだろう。「独裁資本主義」というのかね。とはいえ、一応選挙での選出なんだから「民主独裁資本主義」か。たしかに「矛盾」だなあ。合衆国のそういうことは、不完全性定理の提唱者、数学者のゲーデルが合衆国憲法を査読したときに「解」をだしたことなんだけどなあ。
「大事なことは、むしろ私たちが当事者ではないことです。どちらの側に立つのでもなく、例えばこの戦争はなぜ起きたのか、今起きている事実は何なのか、この戦争はどう収束させるべきなのか、を考える。それは私たちが離れた場所にいる『他者』だからできることです」、、、、と、それは理想なのだけれど、世界の事象はそう簡単にデカップルしてはくれない。ああ、哀れやなウクライナ、悲しむべきやゼレサンスキー大統領。このロシア×ウクライナ有事で私たちが学んだことは、けっきょく、戦争は何が何でも勝てば官軍で、ロシアの戦略というのは、おもうにただ一つしかない「屍をノリコエテ死ね、さらに死ね。その屍のむこうが勝利だ」かな。戦争犯罪もヘッタクレも無い。プーチンのヤったことは、自国の民のピンからキリまでの屍の山を築くかの二百三高地をお手本の楯にして、シンガリに「核」をぶら下げ、けっきょく人命の物量がその差だったということだったという、戦争の本質を貫いたことだけだ。兵站、兵器、の消耗ね。戦争は将棋のように駒にキリなどナイ。兵(ひょこ)を二重三重につぎ込んで、それでまだ足らないのなら、飛車が足らなければ飛車を、角、銀、金が無くなったら余所から資源と交換してくる。この策略が悪人にしか出来ないことなのだ。ロシアがなにゆえ大国と呼ばれているのか、ノッケから欧米はここを読み違え、ゼレンスキーはその読み違えをアテにして、メディアの応援に乗せられて「戦争は戦場で行われている」ということを知らなかったのは、プーチンではなくゼレンスキーのほうだったのではナイかとおもえるほどだ。(つづく)

2024年1月14日 (日)

nostalgic narrative 1

さて、気分を変えて(変わらないんだけど)新しいタイトルでいくか。
で、はじめは、サンプリングの羅列。未だリミックスに至らないのだが、結び尽きそうな「絶望と希望」(これをタイトルにしても良かったんだけど)。
/ナイト・エンジェル、これは終戦直後、ラク町に立った街娼/
次に、高村薫(たかむら・かおる)さん(1953年、大阪市生まれ)のインタビューから拾う。彼女と私は一つ違い。
/「おそらく大きなターム(期間)で、時代が変わったんですね。人類の歴史は今、これまでとは別の次元で動き出していて、未知のゾーンに入っている」「矛盾とダブルスタンダードの中にこの世界はあるし、私たちはそういう時代を生きています」「難しいですね。理性的に振る舞いたくても、振る舞えない。理性があればあるほど、途方に暮れる時代なんです」「せめて、せめて世界で起きている事実を正確にとらえること。それを自分に引き寄せて考えるのではなくて、できるだけ離れて正しく見ることが必要じゃないでしょうか」「ある物事に対して、感情だけで受け止めてしまうと、そこで終わりなんですよ。だから、なるべく、あえて感情を外す。それが物事を見る方法です」「気持ちを重ね合わせることなんて、できるはずありません」「大事なことは、むしろ私たちが当事者ではないことです。どちらの側に立つのでもなく、例えばこの戦争はなぜ起きたのか、今起きている事実は何なのか、この戦争はどう収束させるべきなのか、を考える。それは私たちが離れた場所にいる『他者』だからできることです」「世の中が分からなくなっているという事実を、冷静に理解すること。そして、その理解に基づいて公正で中庸であること。私たちは非当事者だからこそ、極端にならず、フェアでいることを軸にするのが大切ではないでしょうか」「スマホがあっても、情報が入っても、政府も自治体も被害の全体像をつかめていませんよね。結局、情報が有機的につながっていない。森全体を捉える力がないのです」/
そうして、同じく毎日電子版から(2024/01/14)
/アンコール・ワットとは「寺院のある都」を意味する。その名の通り、この地では信仰と生活が隣り合わせだ。敷地には数多くの土産物店が並び、農業を営む傍ら観光業で生計を立てる人も多い。「遺跡群には112の村があり、多くの人々が暮らす。このように大規模な寺院などを建造できたのは市井の人々のおかげだ。フランスの研究者B・P・グロリエは1979年に発表した「水利都市」論で、アンコール地域では水利システムを用いた集約農業が発達し、大規模な人口を支えて繁栄の礎となったと主張した。長らくこの説は論争があったが、近年、上智大や米航空宇宙局(NASA)が地形図やレーダーなどで調査した結果、アンコールの扇状地に大規模な灌漑(かんがい)施設があったと判明。コメの二期作が行われ、推定75万人が暮らす大都市だったことが分かってきた。/2023年12月、岡山県で月への居住方法を議論する国際会議が開かれ、岡山大学の中村栄三特任教授による「月面農場」に向けた発表が注目を集めた。20年に小惑星探査機「はやぶさ2」が地球に届けた小惑星「りゅうぐう」の砂の成分を模した土壌と水を使い、ルッコラ、水菜、ソバなど食料になる野菜の栽培に成功した。1〜1カ月半ほどかけて食べられるほどの大きさに育ったという。土壌を改良する「肥料」になると注目されるのが小惑星だ。22年、りゅうぐうのサンプルの分析結果が次々と明らかになり、その可能性が見えてきた。水素や炭素、有機物が豊富に含まれており、その存在する比率は「地球よりも3〜4ケタ高かった」公転周期がほぼ1年で地球や月の周辺から遠く離れず群れのように動く小惑星群がある。それらの中から適した天体をみつけ、月などに持ち込んで肥料に使うわけだ。小惑星以外を使う土壌改良の仕方も考えられている。22年には大林組などが月の模擬砂に肥料となる有機物を加えるなどして小松菜を育てる実験に成功した。農場を実現するには、土壌の塩分や重金属などの含有量、宇宙放射線の影響も調べなければならない。/

2024年1月 5日 (金)

時世録・52

以前鬱病で通院していた精神科は、入りやすくするために「内科」の看板も挙げていたのだが、挙げている以上はその治療もせねばならず、とはいえ、血圧一つ計るのがうまくいかないというふうだったので(いまはたいていの病院、医院はマシンですけどね)、風邪くらいしか診療対象はなかったのだが、そこで、風邪をひいて、まだ、抗生剤が出る時代だったから(いまは出ませんよ。出す医者がいたらそこはヤメなさい。効かないんですから)、抗生剤も投薬され、医師がいうには「四日は続けて服用してください、でないとキンタイセイになりますから」なのだったが、当時、私はこの「キンタイセイ」というコトバがワカラナカったので、当然ながら質問してみた。と、「菌が耐性を持ってしまうんです」とのことで、ああ、それで「菌耐性」かと、以来、他の医師と話すときも、抗生剤投与になると「菌耐性」というコトバは使うのだが、さて、此度、シス・カンパニー公演の『シラの恋文』を観る、あるいは観たみなさま。東京は7日からだから、この「菌耐性」というコトバは、福岡公演のさい、観劇していた医師から「耐性菌じゃナイですか」という指摘受けて、そのせりふがまだ若いこのせりふだったので、「菌が耐性をもつので」に訂正した。それについては、現在通院中の総合医療医師にも訊ねたが「菌耐性」とはいわないそうで、しかし、「菌が耐性を持つ」のなら「菌耐性」といってもよく、「耐性を持った菌」ならば「耐性菌」なんじゃないですかと、副詞と名詞の用い方じゃないのかと詰め寄ったのだが、やはり「そうはいいません」と一蹴されたから、仕方なく若い俳優に恥かかせてもなあと、せりふを訂正した。
しかしだぞ、医師たち。おめえらは、「花粉症」といい、「盲腸炎」といい、「蓄膿症」といい、「パニック症候群」というてるやないか。すべて、そんな病名の疾病はあらへんやないか。「アレルギー性鼻炎」「虫垂炎」「副鼻腔炎」「心臓神経症」やないのけ。
まあ、ええけんどナ。

で、昨日、アカデミー賞受賞のミシェル・ヨーの『バナ・バナ(略しています)』を観たが、なんのことはナイ、ああいうのを書いてんだよワタシは。そうすると、小劇場演劇の場合はイイ。客も頭イイからな(と、おもうんだけど)。これが、賃仕事になると必ず役者から「難しい」といわれる。プロデューサーは「難しいけど、私は好きなの」と、さすがにまだ、勘がイイ。「重なる世界というのがあって」と字幕がでてきたときは、ざまあみろっ、という気になったなあ。とはいえ、映画解説なんかにゃ「夫の気が変になり~~」とか書いてある。チガウのよ。とはいえ(連発だな)、SNSで、「恋というものがあんなふうに成立するのはロマンです」(というふうなこと)が書かれていたのにはホッとした。


2024年1月 3日 (水)

時世録・51

「限りなく続く敗北」が、まさか元日からいきなり始まるとは。
震(ゆ)れた、と、そのとき、あっそうか、出揃ったとはいったが、たしかに出揃ってはいるのだが、ひとつ忘れていたことがあった。
それが「日常化」し過ぎて、「忘れたころにヤッてくる」ではなくなっているということについて、如何にも鈍感になっていたことだ。
そうか、限りなく続いているゆえにからか「また始まった」という感度でしか捉えられなくなっているのだな。こいつぁ、クマさん、うっかりしていたねえ。落語じゃあるまいが、市中、町中、道路や家の庭に熊が出る。ということがめずらしくなくなったということだよ八つぁん。
で、この先どうなるか。観る眼、嗅ぐ鼻、天を読む。かつて私の若いころは、スターリニズムと称して(称されていた)ものが、いまはポピュリズムと呼ばれている。何でなのかは知らない。私のブログだってタイトルは『ネオ ポピュリズム』なのだが、これは揶揄だ。
変えようかな。たとえば『シン・アンチクリスト』ってのはどうだ。キリスト教と旧統一教会なんざ紙一重なんだが、ん、理由、だってどっちも脅し(カツアゲ)の狙い撃ちじゃないの。キリスト教は知らないが(未だにカトリックとクリスチャンの違いもハッキリと知らない)、イエス・キリストと名乗って磔刑で死んだ彼のことは釈迦シッダルータと同様にsympathizerなのだ。に、しても、ユダは苦労人だったなあ。さらに一休禅師なんかは実に上手く死んでいったなあ。この二人もsympathizerとしてなかまに入れておこう。
そうね、この先ね。興味本位でいうならば、たとえばロ×ウ戦争はこの前書いたからいいとして、よくはナイんだけど、もう時間の問題でウクライナは面従腹背でいいものを、いつまでも領土に拘って、停戦条件良くしようとしている間に、ロシアのなんぼでもいる兵隊さんが屍の山を乗り越えて攻め込んで来るだろうな。イスラエル×パレスチナはどうだ。あそこんところが全部イスラエルになって、パレスチナは追い出されて、やっぱりゲリラ戦かな。なんだ、むかしと立場が逆転しただけだ。そんなに国家や領土ってタイセツ、或いは必要かね。領土なき国家、国家なき国民というのも、AI時代じゃ可能だよ。北朝鮮、ね。一発撃てばどうかな。ICBM。アラスカあたりに落とせばどうだ。マンセー。中華大国は台湾がどうのなんていっているあいだに群雄割拠の三国志時代みたいになるよ。何しろ権力、権威がお好きなのが多すぎるから。マオトンチャンが2000万人政敵眷属処刑殺戮したって、国民はご立派。ついこないだまで、ホテル正月だったけど、朝飯にドリンクコーナーで、こっちはカップにコーヒー注いでいるのに、中華国民インバイダーの方々はその日消費のcoffeeをポットに注いでらっしゃるんだから。
いやあ、「限りなく続く敗北」がみみっちいハナシになりました。
じゃあ、まあとりあえず、明日っからは、「限りなく続く仕事」だな。
南無、自燈明。

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