時世録・43
観劇記録。『スワン・ケージ』-渡る-(10/23・19:30~、G ピット、作と演出・鹿目由紀)
どんな劇作家にもなんだかどんどん書けるときがあるのだが(書けない劇作家は省く)、昨今、チラシ他に鹿目由紀の露出の多いことったらナイ。で、この作品、女優さん多く出るので、ハンティングのつもりで出かける。私、観劇は趣味ではナイのだが、次の作品の女優ひとり、なかなか決まらないので、重い(痛い)腰をあげる。で、観客となる。この小屋、トイレ綺麗になったなあ。こういう感じの女優いないかなあ。と、多少、不謹慎ではあるが、気構えとしてはそんなふう。
舞台、始まる。上演時間85分とか案内あったけど、うーん、困った。この芝居、どう観ればいいのか。logicalに考える。足首回しの運動なんかしながら、自分なりの理屈を考古学していく。この作者の作者は何なのか。この演劇の構造は日記的なのか物語的なのか。
ワカランのでlogicは棄てる。感覚で観る。それもチガウようだと気づく。無心宜し。なるほど、これは「像=image」なのか。そうそう、それそれ、若いひとのこの世界のスクラップ・ブック。若いひとの「マス・イメージ」。それに気づくとやっとまともに舞台に視線が向かう。
いい芝居じゃないか。このエネルギーは苦にならない。とても素直で、新鮮で純粋なエネルギーで書かれた「詩」だなというおもいがしてくる。現状、大人(というより、バイデン、プーチン、トランプその他の老人)が若者殺しに興じているいま、この芝居のエネルギーはとても「自然」に、まるで量子の運動のように(つまり、波でもあり粒でもあるなんだかワカラナイもの)、世界の理不尽に抗っている。それが心地よくなってくる。ハンティングはどうでもよくなってくる。
こういう青春の1ページを小劇場演劇で、かつてヤッていたなあと、nostalgicになる。
さて、ハンティングのことも含めて作演の鹿目女史には、帰宅後、電話して、留守電に入れて、そうしたら、礼儀正しい劇作家から返しの電話あって、ともかく、いい芝居をありがとう、と、伝えた。連れ合いがチケット代を出してくれたので、今夜の飯は余剰の銭で上等の寿司にしよう。