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2023年9月 2日 (土)

時世録・37

アナログやデジタルという単語が使い始められた頃。もちろん当方にはなんのことかぜんぜんワカラナイ。そんな頃。ある対談を読んで(といって、誰と誰の対談だったかも忘却している)、その片割れが「アナログというのは〈耳〉でデジタルというのは〈眼〉だと私は理解しているんだ。それだと簡単なんだ」と片割れに解説し始めた。つまり、対談などを雑誌でおやりになる方でもアナ・デジの区別というか、自体が何なのか知識がなかったという、そんな頃だ。これはなるほど理解が納得するいい解説だった。だからひょっとしたら解説したのは養老老師かもしれない。
「つまり耳、音楽なんかはアナログだ。つづけて聞かないことにはワケがワカラン。しかし、絵画とか写真は眼で、パッと観ればワカル。これがデジタルだ」
まるで、クマとご隠居みたいな問答だが、なるほどそうだな。眼とはいえ、写真と映画とでは前者はデジタルで後者はアナログということになる。マンガ(コミック)なんかになると、アナ・デジの融和だ。文学となると、小説と戯曲とでは前者はアナログではあるが、眼で読むのだから、読み方によってはかなりデジタル寄りになる。戯曲はせりふ一行ではまったく解読不能なので、アナログなのだが、イメージとしては舞台における光景を読み取らねばならないので、ここはデジタルということになる。双方とも合成ベクトルみたいなもんですな。最近の若い人(四十代含む)は小説を読むのが苦手なのだそうで、それはアナログをデジタル変換するアルゴリズムに問題があるのだろう。これは音楽にもいえる。スコアを観て音を脳裏で創って歌うということがかなり苦手なそうだ。簡単にいうとスコアが読めない。変換機能、量子力学でいう作用素の働きがうまくいっていない。
さて、音楽が出てきたので、それでハナシをつづける。まず音符を一つ、音階はなんでもいい四分音符でも二分音符でもイイ。これ一つでは、〈音〉ではあるが、音楽でも音曲でも最近よく耳にする楽曲でも、無い。単なる音。単音だ。しかし、この音符の数が増えていくと音階は同じでも単なる音ではない。ドドドドドドと音がつづいても音曲だ。ドッドドドドドドドドッドドド。音符の長さ、音階が決まって来ると、ドッドドドドドドドドッドドドは『風の又三郎』のテーマに近づく。あの導入の部分だ。
さて、これ、何かに相似しているなとふとおう。待てよ。コンピュータのビットやバイトなんかと似ている。普通のコンピュータ(スーパーコンピュータでもイイのだが)ビット数を増やし、バイト量を増やしていく。1バイトでは駄目だが、キロバイトでは音曲、音楽になる感じがする。しかし、これだとまだデジタルとはいわない。アナログの範疇という感覚だ。並びの〈順序〉があるからだ。ところが、これを一枚の五線譜に一度に描いてみる。たしかに音の順番とシンフォニーなら重なりだけだから、まだアナログの範疇ともいえる。しかし、この一枚の五線譜をいっぺんに眼で観てワカルのが、音楽家のプロだとすると、その方々の脳髄はデジタルになっている。そうして、これを拡張解釈すると、量子コンピュータの仕組みになる。量子コンピュータはスパコンのようにビットの組み合わせとその重ね合わせをデータ化するのではなく、数千、数万、数十万枚の五線譜をいっぺんに読む(それにつかわれるのが量子ビットという状態ベクトル(波)の重ね合わせだ)。もう時間という概念が吹っ飛んでしまう。スパコンで1万年かかる計算を数分だからな。
こういうふうなモノを戯曲で書いてみると(すべてを書くワケではなく部分的にそうしてみるだけだが)、むかしっからご一緒に私の舞台をヤってきた役者さんたちは、何の抵抗もなくそれを演じる。要するに作用素がチガウ。ところが、最近芸能界で飯を食っているので、そこでそういうことをすると、必ず「難しい」「ワカラナイ」という苦言、クレームが俳優から出てくる。飯のタネ、食うための演劇なので、それはそれで黙認、追従するしかナイ。
さて、結論めいたことをいってしまおう。
そうか、私(たち)はアナログとデジタルの融和した、あるいはその先の、量子ビットによるスコアで芝居をヤっていたんだなあ。けれど、未だに芸能界の方々はアナログなんだなあと(それが悪いといっているのではアリマセン。感覚、直感、で片づけられるところを理屈でねじ込もうとされる。まあ、新劇も伝統芸能の尾っぽですからしょうがアリマセン)と、昨今理解が深まってきたのに秋はぜんぜん深まらない夏の暑さかな、なのである。

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