時世録・16
「好きだから」は、正直な嘘に過ぎない。
昨今の「〇〇ハラスメント」氾濫も、そういや、いたなあそういうヤロウとおもう反面、面倒なことだなともおもうんですがネ、そんなことより、労働の対価についてニュースになってバラエティなんかで取り沙汰されるのは、ごっつう銭を儲けている方々ばかりで、キツイArbeitをやりながら、タダ同然の不遇な表現(舞台活動)を続けている信じられないような、こりゃもうブラックというより常識的に漆黒(jet black)の人生の役者や裏方なんかは、むかしから一般人、庶民大衆、から憧憬蔑視がおり混ざった、いや、やっぱり「よく、そんな莫迦なことしてるわね」目線でいわれたもんです「好きだから出来る法水よね」「好きでないと出来ないわよね」。で、そうなんだろうかと自問しながらも「ええ、そうですね」と伏せ眼で生返事しておくのが常と。
たしかに「嫌いではナイ」。自求自足なんてのがあるにはある。達成感、amateurのうちはあるでしょう。
役者、裏方の方々は「正直」なんですナ。自分はけして嘘でヤっているのではナイ。この仕事、この労働、この表現はウソではナイ。自分は嘘をついてはいない。自分(の営為)は正しいはずだ。いや、正しい。と、
ここで自分を許している。
ここで、サドのジュスチーヌになっている。
自己許容の権化だ。マルキ・ド・サドは「美徳」というものが「自己許容」に過ぎないとその小説群に書いた。つまり「悪徳」となんらカワラナイのだと。
ここまで文学で哲学することはナイ。いうならば演劇とは「美徳の不幸」だ。「自己許容の不幸」だ。然るに「悪徳(ハラスメント)」を持ち込んでしまうのは当然の「流れ」「力学」というものだ。でないと成立すら危うい。「徒党を組んで悪を成す」でないと演劇なんざ成立しない。こういう人間の「表現」を仏教でもキリスト教でも、おそらくイスラムでもヒンズーでも「悪魔の仕事」のスキーム(scheme 枠組み 領分)に分別している。カントの哲学だってそうかも知れない。カントのスタイリッシュ版、インテリが大好きなウィトゲンシュタインの「仕分け」でもそうなっているかも知れない。しかし「語り得ぬものには沈黙」していてはダメだ。「私のギャラっ」を「語り得ぬもの」にしてはダメなのだ。伏せ眼で「好きだから、かな」なんていうててはアカン。
ここんところズッと、さまざまな目標、目的、夢とかやりたいことはヤったつもりなのにどうしても引きずるような「忘れ物」を加齢のせいにしてきたが、そうじゃナイな。「銭」だよな。「食う」だよな。「労働(表現)に対する対価、報酬、交換」だ。これは、半世紀前からのテーマじゃないか。いまなおニヒリズムじゃないか。正直に嘘を語っている場合ではナイのよ。
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