アト千と一夜の晩飯 第五十夜 告知
書くまでもなく、心身不調のため、開店休業しております。
二月いっぱい、までくらいですかね。
70歳がこれほどキツイとはおもいませんでした。
確定申告を記し終え、今年も低額所得者です。(三年連続)
ハイパーインフレで、貨幣が紙屑とカナモノにならぬよう、願っている次第。
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書くまでもなく、心身不調のため、開店休業しております。
二月いっぱい、までくらいですかね。
70歳がこれほどキツイとはおもいませんでした。
確定申告を記し終え、今年も低額所得者です。(三年連続)
ハイパーインフレで、貨幣が紙屑とカナモノにならぬよう、願っている次第。
そうでしたそうでげした。avecビーズlast evolutionが終了。これ書いておかないと、とはおもいつつ、思い浮かぶのはどうしても「花の命は短くて」と「枯れ木も花のにぎわい」というコトバで、そりゃあ、歳とるのは男女を問わず、富裕層、貧困層、聖人、悪人を問わずなのですが、いまはさらにマスク世界で、観客を送り出すときに名前をいわれてもまずワカラナイ。思い出すことは出来ても、一致しない。ラプラスの悪魔のせいだとしても、「生病老死」はニュートン力学世界においては〈線型決定論的微分方程式〉ですから、みなさん、毛髪は白く薄く還暦を過ぎた或いは間近の方ばかりで、なるほど、「生まれてきたこと・病むこと・老いること・死ぬこと」を「四諦(したい)」とした釈迦仏陀の慧眼や畏るべし。しかし、釈迦の修行はその四つの避けられぬ人生の悲劇をどう克服していくかという自問から始まったワケですから、凡人ながらもそれぞれがそれぞれなりの答をみつけるしかアリマセン。答が出なきゃそれはそれで答でしょう。
しばらく前までは、私も経団連御用達漫画家の『黄昏流星群』を読んではいましたが、あのお伽話にも昨今は飽いて(なるほど、あのマンガが女性に不人気なのもワカル気がしますが)、しかし『人間交差点』は原作(矢島正雄)の優れたるに最近また涙するようになってきているというのは、そうか、やはり私も七十歳の「老い」はそういうところにも出てくるのだなと、そっちの老いは「おいおい」くらいのものですが、なんと近頃は坂道を観るとため息をつくようになってきたり、登りきると(途中でも)息がきれるほうが酷ですネ。かなり壊れましたので、朝、目が覚めると、順番に壊れたところの記憶の蘇りから始まり、そうか、まだ生きているのか、今日も生きるのかと、布団から出ます。
最近「Quora」というサイトなのかなんなのか、「ダイジェスト」や「おすすめ」やらメールが入るようになって(というか、偶然そうセッティングしちゃったんですが)どうも海外に本部があるらしいようで、海外の方々や日本の若い方々、一般でも秀でた方々、なかなか侮れない方々のquestion-answerなんですが、これを読むのが愉しみのひとつ。解散公演とは関係ナイのですが、やんわりとリンクして/元女優だった女性が齢たぶん八十をこえて、腰が曲がりよろけそうになりながら居酒屋でお運びさんをしている。その方は肌身離さず女優だった頃の麗しい写真をポケットに入れてらして、しんどいときはこの写真を観るんだよと公言されて、お客さんの扱いや店の頑固オヤジのフォローもやさしくて評判/というのがありました。私はこのエピソードを良しとかアカンとかというふうには分割しないで、なるほど、そういう生き方もあるのだなと、感心はしました。
どういう生き方でもイイじゃないですか。私は「演劇」というものには遠に決着はつけていますが、今回の公演終了で、仕事としてもかなり気楽になった気分です。もちろん、いろんな人々を巻き込んでしまったので恨みつらみの矢面ではありましょうが、それならそれでヨロシイ。/自分の墓穴を掘るのはいつも自分であるという矛盾に気付いた人間はスコップを棄てる/、もういっちょ云っておけば「演劇よ汝を愛さず憎みもせず」おつかれさまでございました。
〇「悟り」というものには〈ルール〉があります。
① それ(悟り)は釈迦と「同じものでなければならない」
② それ(悟り)は釈迦と「同じものであってはならない」
これを「悟りのparadox」といいます。「悟り」は主に禅宗が重視した修行の目的です。(浄土系の宗派には「悟り」そのものがありません。従って菩薩という存在もありません。もちろん『般若心経』も読経しません)
では、このparadoxは文字通り〈矛盾〉なのでしょうか。
そうではナイのです。仏教用語でいう「不説」ではアリマセン。このparadoxからが悟りを拓く修行の始まりです。修行といえど、密教修験道のように危険で厳しいものだけをいうのではありません。火渡りなどのperformanceもまったく無縁です。山奥の日常からかけ離れた場所で悟ったところで、山から降りてくればたいていが役にたたないものばかりです。病傷が回復したり、超能力が身についたりするワケでもありません。
ここで、ひとつ、hintになるepisodeを挙げておきます。釈迦は阿南と説法をひろめる旅をしていました。あるとき、阿南がついつい口にしてしまいました。
「お師匠さま。私はこうして何年もご一緒に旅をつづけておりますが、悟ることなど何もありません。仲間たちはサンガ(宿坊・修行場)で毎日修練しているのでしょうが、私はいつまでお師匠さまと旅をつづけねばならないのでしょう」
釈迦は阿南に応えました。
「私が入滅の後、そこいら中の弟子たち高僧と称される者たちは、誰がイチバン私のコトバを理解しているか、誰が悟った者に近いかと、寄り集まって談合会議をするだろう。そのような集まりこそが危ない山間の夜の闇なのだ。阿南よ、私はおまえに私たちの行く手を照らす灯籠を預けた。灯籠は山間の夜の闇を照らすだろう。その灯のなかで観てごらん。魔物、妖怪がうようよしていることがワカルだろう。けれども、その灯で邪悪なものたちは私たちに近づくことすら出来ない」
釈迦の予想どおり、入滅後、何度も結集(けつじゅう)という会合が開かれました。阿南は位が低く羅漢でもなかったのですが、一回目の結集のとき、釈迦と最後までともにあったということで、結集に招かれました。さまざまな「如是我聞」が披瀝されるなか、阿南に発言の機会が与えられました。阿南は「私は師匠の歩く夜道を照らすため,灯籠(日本でいう提灯のこと)を持たされていただけです。師匠が最期に申されたコトバは、/阿南よ、自燈明 法燈明だよ/です。この結集の場に在るのは法燈明ばかりです。
その後、阿南が結集に召喚されることはありませんでした。
〇塩対応 というコトバがある。/そっけない、愛想のない、冷淡な接し方/を指す云い方のことで、 いわゆる「しょっぱい」対応という 意味。 「しょっぱい」は主に味の塩辛さを表現する語であるが、この他に、表情などに不快さが表 れている様子を指すことがある。「(相手を)舐めている」という表現が連想されている場合もある。
と、辞書にはあったが、さて、岸田首相は育児休業中のリスキリング(学び直し)を後押しするとした自身の国会答弁が批判されていることを巡り「本人が希望した場合にのみ取り組める環境整備をすることが大事だ、という趣旨だ」と、訂正した。これは、当人の岸田首相がリスキリングしたほうがイイ。こんな答弁は詭弁にしか過ぎない。長男が外遊で購入したお土産を公費だというくらいだから、なかなかの「育児」をヤってらしたのだとおもう。ほんとにリスキリングが必要だ。
「防衛費」ならびに、そのものに対する「増税」に反対している国民は/心情的には/さほど多くはナイ。このご時世だ。「ちょっと実験でもやんべえ」とかいって、日本近海にでも戦術核弾頭ミサイルを撃ち込む確率のある近隣国家があるのだから〈アタリマエ〉といえばそうなのだ。
しかし、アメリカから購入する反撃能力のトマホークは、何処を防衛するのかというと台湾有事における沖縄諸島だというくらいは、これもよほどのうすのろ莫迦でナイかぎり国民はすでに識っている。ところが、そんなこときは国会でも与野党含めひとこともコトバにったことはナイ。沖縄方面軍の旅団が師団に格上げされてもだ。
もう、国会自体が間違った意味で〈異次元〉になっちまっているナ。
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