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2023年1月

2023年1月25日 (水)

アト千と一夜の晩飯 第四十六夜 little think

Little thinkは、〈ふとしたおもい・かんがえ〉だが、心象でも何でもイイ。何故そうおもった、かんがえたがタイセツなんだろうけど、そんなに深読みもしないほうがイイ。なにしろlittleなんだから。
〇働いている女性を観ると気分がよくなる。けしてdesk workではなく、週に一回マンションの清掃に来て頂いているひと、マスクを外してらしたが、なんか時代が室町、鎌倉の顔つきで(ほんものは観たことは無いのだが)、その仕事が似合うのだ。(これを書いたアト偶然遭遇、もうけました)。
〇男性の場合、逆にちょっといやな気分になるのは、大手のスーパーで働くいわゆる籠整理の高齢男性。おそらく定年退職前までは部下を持つような待遇だったのだろう。買い物客を前に一歩下がらず、そこを退けという仕事ぶりはヤだねえ。私は退かないけどね。てめえが邪魔になんねえように働くんだよ、てな顔してじっとしている。いやいや、そういう自分も良くねえな。
〇富裕層と貧困層、浮遊層と貧考層と頭の中でfunctionしている。小劇場演劇なんてのはともかく貧しかった。銭が無いなら汗を出せ汗が出せないなら知恵を出せ、我が半世紀の演劇人生はそうだったと、これは誇っていいことだとおもう。ふわふわ浮いてんじゃねえよ。

2023年1月23日 (月)

アト千と一夜の晩飯 第四十五夜 こまごまとごまめの歯ぎしり

〇岸田首相の所信表明を医院の待合室のテレビで観ていた。銭のハナシばかりだった。かつ、打出の小槌みたいなものを持っているような根拠の無い異次元の覚悟に聞こえた。要するに増税なんだな。カネはテンカのマワリモノと云ってのけたほうがまだマシだった。
「かわらんよ」。チェーホフの『三人姉妹』を下敷きにした川島雄三の『赤坂の姉妹より 夜の肌』(あんまりいいタイトルじゃないんだが)では、軍医のチェブトゥイキンに劇中劇としてのラストシーンにそういうせりふをボソッといわせている。岩波文庫では「同じことさ」だったかな。此の映画ではナレーション(ジョッキー)の語る西東三鬼の句「限りなく 降る雪なにをもたらすや」のほうがカウンターパンチになっている。川島監督は『三人姉妹』をボードヴィルとして書かれたという説に便乗したとインタビューに応えている。岸田首相の所信表明は文化、表現などについてはなあんにもいうてないので、ボードヴィルですらナイ。ナイ。ぜんぜん、ナイ。よって「わからんよ」というておく。
〇アメリカはウクライナに戦車を供与はしないと、私はおもう。NATOは幾つかの国が(おそらくドイツも折れて)それなりの戦車を提供するだろう。ドンバスの闘いは戦車戦の様相を予感させてきた。ここでの勝敗は良くて引き分けでいいと私はかんがえる。ウクライナが勝ったところで、戦闘に勝っただけで戦争に勝ったワケではナイ。ドンバスの地元の人々は、食うために政府系企業で働くか、ドンバス軍に従軍するかのどちらかしかない。親ロシア派の軍閥のために労働するか血を流すかの二択というワケだ。ドンバスの若者には仕事がなく徴兵に応じざるを得ず最前線に投入されることとなる。これはウクライナ人同士で殺し合うということだ。ロシアにとってはロシア人の戦死者数を少なくcountすることが出来る。ドンバス人の戦死者はロシア兵の戦死者として勘定しなくていいからだ。
〇avecビーズの舞台はいよいよ明日が仕込みゲネプロ。明後日から本番。日本は北極並みの大寒波だそうだ。劇場がビルの中だから、寒くないだけ、それだけはlucky。幸いは不幸中にしかナイからな。名古屋市中も雪かな。電車動くかな。観客、たいへんだろうな。胸が痛むと云いたいが、ただナンだか呆っとしているだけ。ここでも/限りなく 降る雪なにをもたらすや/だな。

2023年1月18日 (水)

アト千と一夜の晩飯 第四十四夜 なんとかカントか

昨年暮れ、読書用の眼鏡の度数が合わなくなってきたので(といっても左はガラスで右目だけなんだけど)行きつけ老舗の眼鏡屋で検眼、度数を調整したレンズに変えたのだが、これが紆余曲折、一度目は店舗ではうまく合っていたのが、帰宅して同じホンを開いてみるとこれがバランスが悪い。変だなとおもいつつ、そのうち慣れるだろうと一週間、やっぱりどうも具合が悪い。涙目になってきた。そこで二度目。検眼士が変わって(最初の方がお休みだったので)やり直して、今度こそOK、と帰宅してやっぱりダメ。ほんの僅かななのだが合わない。このほんの僅かが辛いので、ともかく元にもどしてもらった。つまり合わなくなってきた元の眼鏡が見るぶんには楽なのだ。しかし、これでは何もせずにレンズ代金を支払ったことになる。老舗の眼鏡屋は三回までレンズの交換は無料ケアということになっているので、三度目の正直、きわめて慎重に検眼。で、検眼士云うには、レンズ工学としてはこれが限界ですね。度数の合わなくなった最初のものよりはマシなのだが、スッキリみえるというほどではナイ。しかしそこから一つ上げると一度目と同じになる。ということで、妥協。というよりまあ/いい加減/ということにして、やっとなんとか読書が出来るようになった。
で、カントの『純粋理性批判』に再度取り組む。ああそうそうそうだったなあ、カントさんのヤったのは、対象を見るということについて、悟性と感性を二重に組み合わせて認識させるという、対象(物自体)がどうであれ、問題は観ている者の認識(知覚・識別)のほうを問題にすると、コペルニクス的転回をしたのだったなあと、記憶が蘇る(つまり、そんなこと忘れていた。ここがイチバン大事なんだけどネ)。ところで、以前とはチガッテふと疑問が起こる。ちょっと待て、じゃあ,〈眼(脳の外部分)〉というものはどういうシステムで対象に対してどんなアルゴリズムでfunctionして脳に認識させているのか、そこんところがカントさんにはすっぽり抜けているような気がしたのだ。
対象(物自体)の認識(知覚)には、三つの要素がある、と勉強したぞ。1眼の構造、2対象物の構造、3媒介する光線。
たしかにカントさんのコペルニクス的転回は哲学としては/なるほど/なんだけども、いまひとつもやもやするのはなんでなんだろうということなのだが、あっそうか、マスクかと思い当たった。コロナのせいで稽古場はかなり厳重な処置は施しているものの、みなマスクをして稽古しているのだが、衣裳合わせのさい役者さんにマスクを外してもらった。で、驚いた。イメージがチガウのだ。勘狂うのだ。演じる側としては、「知覚・識別」に用いる悟性と感性以前に対象(他の役者さんたち)がベツモノになる(ワケではナイのだが、マスク有る無しでは同じ対象なんだけどチガウんだろなあ)。カントの『純粋理性批判』は「決定論的」なのか「確率論的」なのか。よくワカランようになってきたのだが、ともかく早めにマスク無し稽古にしたほうがよさそうだなとだけはおもいましたワ。

2023年1月11日 (水)

アト千と一夜の晩飯 第四十三夜 寝る前にまた

昨晩はふとおもった、調べた、かんがえた。
〇ヒトは「関係」と「了解」のスキーム(概型、枠組み、位相空間と、簡単におもっておいて下さい)を持つ。関係は二人称(以上)と一人称に分かれる。一人称の場合無意識領域がこれを司る。関係が一人称にせよ意識的になった場合スキームは了解に移る。関係の意識的了解は錯誤や誤謬が起きやすい(妄想などもここに入る)。関係が一人称で無くなった場合(固有で操作出来る範囲を逸脱したばあい)の了解を鬱病と称する。従って鬱病は人称を持たない。固有の別の力に左右される。おそらく量子力学的な(私は重力だとおもっているけど)ものと思われる力学的エネルギーの現象と捉えられる。(メンタルもエネルギーを持っています)
量子力学的エネルギーのその現象というのは、こういえる。あたかもブラックホールと似たような現象あるいは状態。自らの重力によって自らが押しつぶされるそのような現象、状態。これを鬱病という。
〇防衛費が国民総生産(GDP)の2%になって、アメリカからトマホークを購入するそうだが、いったい日本の防衛力(自衛隊の軍事力)は如何ほどのものか、アメリカから新たにミサイルを買わねばならない程度なのか。私たちが知っているのはせいぜいイージス艦とパトリオット(地対空ミサイル)くらいなんだけど。で、リサーチしてみた。ふつうに自衛隊のサイトに入ったって、軍事だから大雑把なことしか書いていない。そこで、こういうのにもいるのである。/自衛隊オタク/だ。いやあ、もう事細かに調べこんでますワ。驚くほどです。で、その軍事力にも驚きました。敢えてここには書きませんが、そういうのを私が書いたり話したりするのはどうもなんでか知らんけど、アカンようなので。ですから、その/オタク氏/の末尾のことばの一部だけをそのまま書いておきます。
/はっきり言ってこれだけの兵力を有する島国と戦争して勝てる国はせいぜいアメリカくらいです/
事細かなその資料をつらつら拝見、拝読して、私もそうおもいましたワ。「核」なんか専守防衛、抑止力として、日本にはまったく必要ナイですわ。
戦争云々という前に「日本国憲法」の「前文」くらい読んだほうがイイ。また、「日米安全保障条約」がどんなものかも、知っておいたほうがイイ。
〇万年、末端血行不良(俗にいうシモヤケ)に、鬱病でお世話になっている精神科医から当帰四逆加呉茱萸生姜湯(とうきしぎゃくかごしゅゆしょうきょうとう)という漢方薬を薦められました。メンタルな冷え性の方に効果があるそうです。明日、院外処方箋薬局に届き次第服用開始します。

2023年1月 9日 (月)

アト千と一夜の晩飯 第四十二夜 ゆんべ寝る前にベッドで

ふと、かんがえたことをスマホメールで、PCに送信したものをまとめると以下になる。
〇ブラックホールを漢字で書くと「虚無空洞」になります(と、かってにそうimageした。寝る前だからナ)。ではブラックホールというのは色即是空の色だろうか空だろうか。
〇私たちが色であり空であるということは量子が波でもあり粒でもあるということと同じような意味合いを持っているとして、ボーアのコペンハーゲン派解釈は否定されているので、私たちはとりあえずは波動であり、この状態ベクトル、波の重なりあったところが粒子として概念化されているのだが、要するに私たちは何であるのかそれがワカラナイまま命尽きるのは非常に悔しいことでありますナ。銀河系だけでなく宇宙のすべての象限において唯一の知的生命体であるヒトとは何なのか知りたいネ。私たちの生きざま、活動、行動、営為がどんな意味や価値を持っていたのかワカランことも悔しい。過去や未来は考える必要は無い。ただただ今現在生きるそのことの意味と価値が知りたい、あるいはかんがえるべきなんだけどねえ。
〇いい換えれば確率論的非線形微分方程式はいかにも数式のように見えますが現状世界の状況を数学的に言い表しているだけです。ここにおいてはマルクスの資本論もアインシュタインの相対性理論も決定論的線型微分方程式にしか過ぎません。宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』にある「永久の未完成これ完成である」は、やっぱお見事だな。フーコーの地層的歴史観も何が積もっていくかワカラナイということであれば非線形でありましょう。何が起こるかワカラナイが、それが時に悲劇であり時に悦ばしきことであり、ワカラナイことが多いということが歴史原理なのかな。
〇とりあえずは殺し合うための準備などは避けたほうがよろしい。/生きていくためには殺さねばならない、食物連鎖だけでケッコー/防衛論は「ともかく敵を攻撃しない、人民に損害を与えない」という命題を解くところから始めるべく論議である。つまり「詰めれば勝ち」がイイんじゃないのかな。

おまけ: なんでこんなことをふとふとおもったのかというとですね、ラジオでね、若いミュージシャン・バンドが自分たちの歌の「僕にはきみが必要だ、しかし、きみには僕が必要だ」/(まとめるとそうなる)という歌詞に感動して泣いたというメールがきてますけど、そうだよね、ここの歌詞がスッゴクいいよね/と語り合ってらしたのにひどく焦燥感をおぼえたもんで、だとおもいます。相対的にいまの若いバンド、ミュージシャンには温故知新というものが欠落している気がしているもんでして。

2023年1月 8日 (日)

アト千と一夜の晩飯 第四十一夜 エンピツと初夢

生きるというのはエンピツのようなものであります。 エンピツは削らなければ書けません。 削っていくとどんどん減ってなくなってしまいます。 生きるのも同じです。
つまり生きるとは身を削るということであります。 人生エンピツの如し。
(年頭、ふとおもいついた戯言)

何のauditionだったのか、100人の女性と一人ずつkissしていく。で、こちらは選ぶ側なのだが、ほかにも審査員はいるようで、すぐ傍でkiss行為はつづいている。何を選んでいるのかはワカラナイ。ナンダか損なのか得なのかも(相手を選ぶことが出来ないので、ちょっとどうかというひとともやらなきゃならない)ワカラナイ。ヤだなというところで目が覚めた。何故かくなる夢をとかんがえて、だいたい理由はワカッタがここでは詳細は書かない。どうもマスク美人という「の」に関係がありそうだ。フロイトとはあんまりつながりはナイ。(今年の初夢)

/ひとりきて祈るもわびし初詣/(如何にもつくりましたという句ですな)
/松の内終わりたる東のほう 西は十五日までとやら 終わるものがあるうちはイイ(自由律と私がかってに称しているものですが、通俗で一見無関係なものが関係しているように感じる、こういうのが好きですな。無意識の露出です) 

2023年1月 5日 (木)

アト千と一夜の晩飯 第四十夜 信仰について

「信仰はすべて狂信である」これは呉智英センセのコトバ(命題)、「反証出来ないものは科学ではない」これは科学哲学の親方(というか私にいわせれば科学哲学を信仰しているintelligentsiyaの拠り所)カール・ポパーのコトバ。もうひとついっとくか。「子供はすべて神の子です」これは、私が24歳のとき名古屋駅前で洗礼を受けることになった、だいたい同年の女性が、後に出会ったとき妊娠していたので、そう応えるだろうとはおもっていたが問うたときの答。彼女はキリスト教系団体で集団生活(commune)にいたので、一応父親を訊いてみた。名古屋駅前、丁度、私は鬱病を発症(現象)、気分を変えようと下駄に眉毛を剃り落としての格好で歩いているときに、その少女に呼び止められ鬱病現象の攻撃性(aggressive)から「そんなに愛を説くのなら、いまから駅裏のホテルに行って愛し合ってみるか」と云う私に「いいです」と即答されたので、こっちの負け。ホテルには行かずその場で洗礼(そこの団体の口伝形式で)を受けることになった。かなりイイカゲンなことだが。駅前の映画館で『神々の深き欲望』(今村昌平監督)なんてのを上映していたから、なんか出来すぎだなあとおもいつつ。その後、あるルートで牧師の認可証を購入。こういうのを持っていると、徴兵を逃れ、故郷の菩提寺(浄土真宗)の、やっかいな付き合いも拒否出来るとのおもいがあったので。
ハナから再考していく。いま問題(話題、なのかも知れないがメディアが頻繁にとりあげている宗教二世のおハナシ)から演繹するに、呉センセの命題は「真(正しい)」とおもえる。私は安倍晋三元首相をヤった無職山上徹也容疑者(奈良地検が殺人罪で起訴)を誰がなんと云おうと「テロ」などとはおもっていない。ありゃあ、個人的宗教二世の怨恨だろう。ココロの奥底で「よくヤッた、エライ」などとはおもっている。
ポパーの定義については、この定義そのものが怪しい。逆に「科学は反証しか出来ない」といっておいたほうがまだマトモだろう。諸説百般、だから科学はオモシロイのだが。科学哲学こそ宗教臭くてやりきれない。学問をして威張っている、或いは庶民大衆を小馬鹿にしている(intelligentsiya)なんかが、ジェンダー・アクションのある神社の官主や寺の坊主、ガッコの教諭と同じにみえる。
三つめは、日本にはまだ徴兵はないので、そっちのほうでは認可証は役立たずだが、面倒な地元の菩提寺や檀家組合などにはある程度は防波堤にはなった。現在、私には故郷は無い。/私が故郷を棄てた/のではなく、/故郷が私を棄てた/ことはエッセーに書いた(収録された単行本があるがタイトルを忘却)。駅前のマリアがどうしているかは不明。子供がちゃんと教育を受けらていればイイがとおもう。駅前の洗礼(らしき)後、しばらく私はクリスチャンだと詐称していたが、これは営業用だな。私が何故キリスト教徒になれないかを描いたのが『寿歌』であるとワカルまで十年以上かかった。。
現状は「信心無し」ということにしている。とはいえ、一休(子供のころの頓智の方ではナイ)は好きだし、『般若心経』は記憶している部分だけを唱えながら、画仏壇に線香はあげている。死んだところで私というエネルギーは重力にでもならない限り、この宇宙から消滅することはナイのは自明の理。現身体性を終わった後、どういう波動でこの宇宙に在るのか、ワカラナイが興味あるところ。天の川銀河はすでにアンドロメダ銀河との衝突を始めているらしいが、そういう「の」が眺められたらなあと希求している。
/雪ふるや どうなることでも ないにせよ/
/哀れやな ウクライナに 在るわたし/
/貼るカイロ 足の裏だけ ふゆのはる/

2023年1月 4日 (水)

とりもあえずの新年ご挨拶

あけまして めでたいことは あけたことだけ

幾つかの銭にならない仕事と持病(鬱病)が重なって、頸椎近辺の痛みとの複合疼痛での日々の暮らし、年賀御礼も遅れに遅れて未だ成らず。
劇団ユニットlast emotionの稽古と、このあいだ再度フロイトをヤっておもいのほか身になったので、それならカントの『純粋理性批判』からまたまた再度の取り組み。視力の衰えや指の神経を気遣いながらの新年でごいます。
開戦前夜の今日この頃、ともかく生き抜き、息ぬくでんな。明(開)けますとまた年末大晦日まで一年の余裕が出来る江戸時代からの風習。
/あけてめでたいことにしておく過ぎしは引きずらずに背負いこむことにして/

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