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2022年12月 8日 (木)

アト千と一夜の晩飯 第三十夜 孤独死とはなんだ

/警察庁によると2019年、全国で行方不明者は約8万7千人。行旅死亡人は年間600~700件ほどが官報に公告される。高齢者の孤独死に関する公的な全国統計はないが、ニッセイ基礎研究所が2011年に発表した推計では年間約2万7千人に上っている/(毎日・電子版、ここで「行旅死亡人」という耳慣れないコトバが登場するが、これは「死んだのが誰なのかワカラナイ」死に方をしている遺体のことをいう)
「孤独死」だってそれ以上に定義がワカラナイ。文字通り読めば独りで死ぬことなのだが、ふつう心中でもナイ限り、いや厳密に云えば心中すらも、死ぬのは当人独りなんだから、「死ぬ」というのはすべて「孤独」なのだ。ところで、この「死ぬ」というのはどういうことなのだろうか。生物学的には、「脳死」だろうし身体的に内臓活動の停止だろう。もうちょっとチガウ角度から観れば/この世界との関係を断たれること/といえなくもナイ。では「あの世」はあるのか。釈迦牟尼曰く「霊魂不説」。そういうことはいくら論じてもかんがえても答の出ないことなので説くことは不可能だということだ。新興宗教のけっこう多くは、熱エネルギーの第一、第二法則から「霊魂不滅」を声高に云う。たしかに、孤独死だろうが集団死(まあ、戦死とかかな)だろうが、生物学的にではなく、物理学的に「死ぬ」ということはエネルギーの消滅を意味しない。とはいえ、霊魂として残るということはまず有り得ない。何故なら「霊魂」とやらがナンダかワカラナイのだから。
ともかくも「死ぬ」ということがどういうことなのか自体がワカッテいるようでワカッテいない。たしかにこのニュートン力学的世界からニュートン力学的、生物学的に不在になることはマチガイナイ。じゃあ、どうなる。hereafter(死後、ここからアト)は、どうなる。それは諸説あるし今夜の話題ではナイので、本論にもどる。
わたくしが述べたいのは「孤独死」というのはアカンのか、という疑義だ。もう少し絞り込んでいうと、誰にも理解されず死ぬというのも孤独死だが、それはアカンのか。これはわたくし自身の立場でもある。だいたい鬱病なんてものは終に誰にも理解されない。鬱病それ自体が死因になることはナイが、鬱病による〇〇で死ぬことは年間で3~10万人だろうと推定されている。推定というのは、勘定の方法がナイから、推定なのだ。多いのが自殺だが、双極性障害の場合、うつタイプは自殺が多いけれど、幸いにもクスリの効果が大きく、入院さへすれば自殺は防げる。ごく大雑把にいわれる鬱病の場合、自殺も多いことは確かだが、自殺念慮は鬱病自体の特徴によってたとえ生じても「自殺出来ない」状況にさへあれば防げる。これは防ぐというよりも当人にとってはより残酷な刑罰のようなもので、たとえば、/おまえが、自殺するならこの子の命は無いぞ/と人質なんかをとられたら、死ぬワケにはいかない。みたいなものだ。鬱病者は苦しみながら「生きなければ」ならない。それなら「孤独」だろうがなんだろうが、死んだほうが楽なのだ。いや、ほんとに楽かどうかは、それで死んだ者に訊ねたことがナイのでワカラナイが。
:て、ことで、つづけます。

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