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2022年12月11日 (日)

アト千と一夜の晩飯 第三三夜 孤独死とはなんだ 4

フロイトの場合、その基本的な理路は意外に簡単に述べることが出来る。ようするに「無意識」があって、それは、本来的に封じこめられたものなのだが(忘却されたかのような)本音にはチガイナイ。それを「意識」化するのが「超自我」だ。ヒトはこの意識によって行動する。まあこんだけ(主筆の知識としては)。しかし、深く沈むれば、無意識というのは/「無」の「意識」/ではナイ。そんなものなら仏教になる。誰が訳したのか、これは英語ではUnconsciousであり、その意味を訪ぬれば「意識を失っている状態」、もっと卑近にいえば「なんとなく」である。無意識というのは「なんとなく」なのだ。そういえばなんとなく生きているもんな。つまりヒトは意識的に生きているのではナイ。意識的に生きねばならない状況ということもあるにはあるが(火事場から逃げるとかネ)、たいてい無意識に生きている。誰が「意識」的に恋をするか(銭で意識的にsexはするだろうが)。そうするてえとフロイトの定めた公式はあやしいのではないかという疑義が起きてくる。「無意識」という領域に「心的ナなんやかんや」が封じ込まれるのではなく、ヒトは本来無意識的な存在なのではナイか。で、ときに「意識」的になる。超自我もへったくれもナイんじゃないのけ。たぶんユングはほんとうはそんなふうにかんがえたのではないか。それがいつのまにか「無意識」という領域が単独、独立して存在するといいかえられたのじゃないか、などと穿ったりする(主筆程度の能力では)。
アドラーの心理学にも疑義はつけられる。ようするにアドラーの云っていることは「倫理性」あるいは「理性的配慮(判断)」があってのことではないか。親に殴られても我慢して強い子になる(主筆のようにドメバに耐える)。つまり逆境(主筆の場合は虐待)を反面教師として「修行・或いは反抗」する。しかし、ここには「関係性」はあるが「環境性」がまったく欠落している。戦争になって徴兵されたら、好き嫌いや理性(戦闘訓練はそういう面もあるやも知れぬが)で敵を殺すワケではナイじゃないか(たぶん、戦場では感情反応だろう)。この(環境という客観)の欠陥をポパーは突いてきた。だからアドラー心理学は似非科学だと切り捨てた。しかしポパーのいう科学哲学のイイカゲンさは/ともかく反証出来ぬものは科学ではナイ/という命題の中にいつも浮遊している。このポパーの命題が真だとすると、科学はいつまでたっても〈真理〉には辿り着けない。ポパーの云う「反証」はソフィストのゼノンの矢、現代数学風にいうなら「収束点列」といいかえることだって出来る。「反証」を重ねていく、繰り返していく。そうしてある「定理」「法則」に辿り着く。ところが、その「定理」「法則」はもはや/反証出来ない/のだから、似非科学に引き戻されることになる。そうなると反証ではなく「証明不能」の範疇だ。ポパーの科学哲学の着地点(或いは原点)はそこにしかなくなるのではないか。反証ではなく「半鐘」だ。落語『火炎太鼓』の「オジャンになる」だ。科学哲学(者)の著書を主筆は幾冊か読んだが、結論は/こいつらは阿呆だ。科学にも哲学にも無識だ。てめえらだけ頭がイイとおもってやがる/。と、主筆は持病の鬱病の悪化期で、aggressive、感情的になっている。だからこんなに前説が長くなるのだが、本論では何を述べればいいのかくらいは記憶している。
鬱病の〈負減-マイナス〉をアドラーの公式に依って〈正加-プラス〉に出来ないものだろうか。以前論じられた「独り言=独り手話」は遅々としてだがつづいている。これはフロイトから導いたものだ。初期量子論(だいたいコペンハーゲン派解釈の破綻まで)ではあるが、このまま十九の乙女子の乳房を舐めもせずが如くに死ねるものか(なんちゅう譬でありましょうか)
んで、つづく

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