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2022年12月25日 (日)

アト千と一夜の晩飯 第三八夜 孤独死とはなんだ 8

大澤真幸老師の『三島由紀夫 二つの謎』を読了。評論というものはけっきょく/どのようにも書ける/ものだなあと、まず、それが感想のひとつ。大澤老師の本書に関しては、ふつうの評論書は後半、普通なら次第にまとまってclimaxとなるのだろうけど、このホンに関しては私の頭が次第に錯綜、混乱してきて、論調はまとまるどころか膨張していくような気配で、そこまで三島の謎(自決と『豊穣の海』最後)に迫ったのは感心するが、著者の知識や苦労をあちらこちらと開陳する必要があったのだろうかと私の錯綜と混乱は次第に疑義になったのでありました。
A=非(ナル)A/大澤老師の場合はnotAと表示されているが、この場合は「ナル」(IT用語では「何もない」「0」哲学用語で非アリストテレス的)としたほうがコンテキストとしては適応のような気がする。ヴァン・ヴォークトに『非Aの世界』というSFがありますが/という方程式が前半に早く出てきていて、その発見と解説は見事なものだったので、後半の知識の閲覧的開陳(『唯識論』あたりは仕方ないのかも知れないがもっと簡便に出来たはずだ)と、あっち行ったりこっちに来たり、ついには、もう少しでオワリのあたりで主人公の「覗き癖(症状)」が『豊穣の海』の主軸であったなんてことになると、『豊穣の海』のラストシーンは「あれで良かったのか」という大澤老師の問題の立て方自体に旧ブレーキをかけられたようで(というのは、私の脳の未熟なせいなのでしょうが)「この評論の終わり方はこれで良かったのか」になっちまう。
おそらく、A=非(ナル)Aという方程式における解説(問題の解き方)は量子力学的にいえば、波動関数までで説く(解く)のを留めると誤謬になりますから、やはり密度行列までいかなければ、波束の収縮(謎の説き明かし)は起こらないのではなかろうか。と、おもうワケです。(私も自著『恋愛的演劇論』では、最終章で密度行列とハイゼンベルクの行列方程式を勘違いして混濁させて、大間違いをやらかしているので云えるワケなんですが)。なんとなくこのホンの評論は波動関数までで終わったような感触があります。A=非(ナル)Aという方程式は今年のノーベル物理学賞受賞者の受賞理由「量子のもつれ」(EPRパラドクスの解決)に匹敵する量子の純粋状態における波束の収縮だとおもうのであります。ですから密度行列までいかなくては。そう行っているのに波動方程式にもどってしまったような気がしました。
これもやや突然の出現ですが『菊と刀』のタイトルの解釈において、大澤老師は「菊」を「美」で「刀」は「力」とされていますが、私の解釈は反対です。「刀」は「力」だけではなく「美」の要素は大きいですよ。「菊」は一昔前は「権力」だったし。天皇の人間宣言にしても「殆どの日本人は天皇が人間であることは知っていた」と注釈項目に入れるのもどうかなあ。大衆はそんなに莫迦じゃナイんだし。
三島由紀夫さんが/肉体が貧弱なときには死は遠くにあったが、肉体を鍛えてから死が近くになった/と云うたというのも奇妙だという大澤老師の疑問は、それは、せっかくのA=非(ナル)Aに反しているのではないでしょうか。このA=非(ナル)A方程式は大澤老師の大発見だとおもいます。それはスゴイです。しかし、私は「金閣寺(建造物)」を美の最たるものなどと三島由紀夫氏が本気でおもっていたなんて、ちょっと首を傾げます。似たような美しさで富士山なんかどうでしょう。三島由紀夫さんは心身鍛練としての登山はヤッテナイんです。ようするに地味な鍛練には手をつけていない。三島さんの超課題のひとつが「海」ならば、ヘミングウェイの場合は「山」なのかな(『老人と海』は特に海にベクトルは向いていない気がします)なんておもいます。自決が猟銃ですから。
A=非(ナル)Aを用いれば、『豊穣の海』の吃驚仰天のラストシーンも三島クーデタ失敗割腹自殺の理由ももっと簡単に解けるはずです(とても私には出来そうにはありませんが)。どうも、大澤老師は頭良すぎて勉強し過ぎて「オッカムの剃刀」を使わなかったような気がします。私なんか「剃刀」どころか「オッカムのギロチン」くらいまで使うんですが。

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