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2022年12月

2022年12月27日 (火)

アト千と一夜の晩飯 第三九夜 A=〈非NaruA〉を解いてみる

ヴァン・ヴォークトの『非Aの世界』には『豊穣の海』との類似点がある。主人公のゴッセンが愛し亡くした妻パトリシアは実は生きていて、かつゴッセンのことなどまったく知らないというところ、輪廻転生の代りに殺されても次のゴッセン「第2の肉体」が準備されている等だ。けれど、昨今はそういうplotの映画や小説はけっこう多いので、三島由紀夫が『非Aの世界』を読んだのか参考にしたのかは、一切問わないことにする。どっちでもいいことだからだ。ここではタイトルどおりに「A=〈非NaruA〉を解いてみる」で論旨を進めていく。「孤独死とはなんだ」のSpin-offとおもってもらってイイです。
まずA=nA(と、今後は記すが)の等式で問題にすべきなのは〈=〉という等号がどういう意味をもって左辺と右辺をつないでいるのかということです。〈=〉等号という記号を定義すると「数学という思想を表現する基本的な記号」(『数式を読みとくコツ』・杉原厚吉・日本評論社)になる。「右と左はおんなじ」だけではアカンのです。〈=〉にはかなり多くのルールや取り扱い説明がある。そこで、此度は「AはAではないことによってAとなる」と読んでおきませう。Aに「三島由紀夫」を導入。「Aではない」に「三島由紀夫ではない」を導入。そうすると、A=nAは「三島由紀夫は三島由紀夫ではないことによって三島由紀夫となる」になる。三島由紀夫は例えば彼の嫌悪していた(ほんとうはライバル視していた)太宰治ではナイ。従って「三島由紀夫ではない」は「太宰治」でもイイワケだ。というより、三島由紀夫は三島由紀夫ではないものになるべく努力して三島由紀夫になった。これで、もう、『豊穣の海』のlast plotの謎も阿佐ヶ谷自決の謎もあっさり解ける。少なくとも私はそうかんがえてそれで納得している。三島由紀夫未だ若き頃、太宰は嫌いだと云いつつも太宰の宴席に出席したことがある。太宰の文学仲間や編集者たちの集いだ。そこで太宰「キライだからって、ここに呑みに来ているんだから、ほんとはそうじゃナイんだろ」と一笑。この頃三島はまだ酒が呑める年齢ではなかったと記憶している。上村一夫の劇画では(作品は忘れたがコマの絵は鮮明に覚えている)三島由紀夫は緊張のあまりただブルブルふるえている貧弱な若者だった。三島はしかしこの頃から太宰にだけは負けたくないとかなり強くライバルなんて程度ではなく闘争心を持つ。なにしろ太宰には『魚服記』や『女生徒』等々、三島が書きたい、あるいは好みそうな、あるいは書いたような作品は山ほど在る。『右大臣実朝』もそうではなかったか。大嫌いで/山出しの田舎者/と貶しているにしては意識し過ぎなのだ。で、太宰はサっちゃんと入水自殺。これが新聞にデカデカ。もう負けられねえ。向こうが心中ならオレは割腹だ、クーデタ(coup d'état)だ。その前にbody buildingだ『太陽と鉄』だ。太宰担当記者の記録によると太宰の肉体は痩せっぽっちではなく、けっこう逞しかったらしい(津軽の百姓の遺伝子だろうな)。おまけにマッチョではないが肉質が良く(いわゆるもち肌)、たぶんたくさんの女性にモテたのはその肉体に因るところが大きい、のではないか。マッチョにはしてみたが、さほど三島はそっちで持てたということはなく、銀座の蝶々のあいだでは「あの先生はご自分の作品のことを云われるとムっとされるけど、腕の筋肉ひとつ褒めればイチコロよ」と情報が飛んだ。さすがに運動神経までは鍛えられなかったらしく、ボクシングや空手は稽古試合を観た石原慎太郎の言では「子供のケンカみたいだった」らしい。戦中疎開の太宰は荷車に夫人をのせて「空の荷車より、何か載せているほうが扱いやすいんだ」とバランス感覚も良かった(これは夫人の『回想の太宰治』津島美知子から)。けっこう貧弱そうにおもわれている太宰だがそれはfictionの中のハナシ。だいたい、何度も(偽装)心中から帰還しているのだから。しかし、太宰もまた天皇には畏敬以上のものを持っていた。冗談じゃネエと三島由紀夫が、金閣寺の最上層部で究極の極楽浄土をあらわした茶室「究竟頂」を主人公にこじ開けようとさせたのは、何も部屋の中を観るためではナイ。扉を開けること自体が目的だったのだ(と、この辺の意味は推測して頂きたい)。開けてしまえば「玉手箱」、つまり『天人五衰』のlast plotとなる。
以上が『豊穣の海』を読みもしないで(ただし、三島の自決は予知しているのです。私、丁度、高校生の頃でした。後々、あらすじとlast plotを識って大笑い。斜読程度はしたかも)評論だけを読んでミステリを推理するこの方法を「ほオッカムりの剃刀」と称する。これが私のA=nAの解である。

2022年12月25日 (日)

アト千と一夜の晩飯 第三八夜 孤独死とはなんだ 8

大澤真幸老師の『三島由紀夫 二つの謎』を読了。評論というものはけっきょく/どのようにも書ける/ものだなあと、まず、それが感想のひとつ。大澤老師の本書に関しては、ふつうの評論書は後半、普通なら次第にまとまってclimaxとなるのだろうけど、このホンに関しては私の頭が次第に錯綜、混乱してきて、論調はまとまるどころか膨張していくような気配で、そこまで三島の謎(自決と『豊穣の海』最後)に迫ったのは感心するが、著者の知識や苦労をあちらこちらと開陳する必要があったのだろうかと私の錯綜と混乱は次第に疑義になったのでありました。
A=非(ナル)A/大澤老師の場合はnotAと表示されているが、この場合は「ナル」(IT用語では「何もない」「0」哲学用語で非アリストテレス的)としたほうがコンテキストとしては適応のような気がする。ヴァン・ヴォークトに『非Aの世界』というSFがありますが/という方程式が前半に早く出てきていて、その発見と解説は見事なものだったので、後半の知識の閲覧的開陳(『唯識論』あたりは仕方ないのかも知れないがもっと簡便に出来たはずだ)と、あっち行ったりこっちに来たり、ついには、もう少しでオワリのあたりで主人公の「覗き癖(症状)」が『豊穣の海』の主軸であったなんてことになると、『豊穣の海』のラストシーンは「あれで良かったのか」という大澤老師の問題の立て方自体に旧ブレーキをかけられたようで(というのは、私の脳の未熟なせいなのでしょうが)「この評論の終わり方はこれで良かったのか」になっちまう。
おそらく、A=非(ナル)Aという方程式における解説(問題の解き方)は量子力学的にいえば、波動関数までで説く(解く)のを留めると誤謬になりますから、やはり密度行列までいかなければ、波束の収縮(謎の説き明かし)は起こらないのではなかろうか。と、おもうワケです。(私も自著『恋愛的演劇論』では、最終章で密度行列とハイゼンベルクの行列方程式を勘違いして混濁させて、大間違いをやらかしているので云えるワケなんですが)。なんとなくこのホンの評論は波動関数までで終わったような感触があります。A=非(ナル)Aという方程式は今年のノーベル物理学賞受賞者の受賞理由「量子のもつれ」(EPRパラドクスの解決)に匹敵する量子の純粋状態における波束の収縮だとおもうのであります。ですから密度行列までいかなくては。そう行っているのに波動方程式にもどってしまったような気がしました。
これもやや突然の出現ですが『菊と刀』のタイトルの解釈において、大澤老師は「菊」を「美」で「刀」は「力」とされていますが、私の解釈は反対です。「刀」は「力」だけではなく「美」の要素は大きいですよ。「菊」は一昔前は「権力」だったし。天皇の人間宣言にしても「殆どの日本人は天皇が人間であることは知っていた」と注釈項目に入れるのもどうかなあ。大衆はそんなに莫迦じゃナイんだし。
三島由紀夫さんが/肉体が貧弱なときには死は遠くにあったが、肉体を鍛えてから死が近くになった/と云うたというのも奇妙だという大澤老師の疑問は、それは、せっかくのA=非(ナル)Aに反しているのではないでしょうか。このA=非(ナル)A方程式は大澤老師の大発見だとおもいます。それはスゴイです。しかし、私は「金閣寺(建造物)」を美の最たるものなどと三島由紀夫氏が本気でおもっていたなんて、ちょっと首を傾げます。似たような美しさで富士山なんかどうでしょう。三島由紀夫さんは心身鍛練としての登山はヤッテナイんです。ようするに地味な鍛練には手をつけていない。三島さんの超課題のひとつが「海」ならば、ヘミングウェイの場合は「山」なのかな(『老人と海』は特に海にベクトルは向いていない気がします)なんておもいます。自決が猟銃ですから。
A=非(ナル)Aを用いれば、『豊穣の海』の吃驚仰天のラストシーンも三島クーデタ失敗割腹自殺の理由ももっと簡単に解けるはずです(とても私には出来そうにはありませんが)。どうも、大澤老師は頭良すぎて勉強し過ぎて「オッカムの剃刀」を使わなかったような気がします。私なんか「剃刀」どころか「オッカムのギロチン」くらいまで使うんですが。

2022年12月24日 (土)

アト千と一夜の晩飯 第三七夜 唯一の贈り物

私には信心が無いので云えることなのだが、キリスト教は教派を問わず(そうでナイ教派もあるのだろうが)人類に唯一の贈り物(present)をした。それがChristmasのイベントだろう。世界各国の信者もそうでナイものも最近ではさまざまに灯った電飾の下でこれを愉しむ。今年はインフラを浸食されてそうでナイ国もあったろうが、それでも蝋燭一本の明かりのつくる希望は他ならぬものにチガイナイ。
クリスマスの語源は、「キリスト(Christ)」と「礼拝(mass)」。これを「Xmas」と表記する場合のXは十字架とは何の関係もナイ。「christ」をギリシア語で表記する場合は「XPIΣTOΣ」と書く。頭文字のXに「mass」を付けたギリシア語+英語の表記が「Xmas」。「Merry」は「陽気な、お祭り気分の」という形容詞。これくらいは教養として覚えておいて損はナイ。
とはいうものの、日本はひでえwhite Christmasになった。大雪である。やがて地球が雪だるまになる日も近い。私たちの子孫は次の氷期をどう乗り越えていくのだろう。ただただそれが核の冬でナイことを祈るのみだ。アーメン。ついでにこの「アーメン」の意味を調べたのは高校生の頃だったか。「然り」「そのとおり」「御心ままに」である。このアトに「ソーメン、冷やソーメン」と付けたのは日本人らしいが誰かは不明。

2022年12月18日 (日)

アト千と一夜の晩飯 第三六夜 孤独死とはなんだ 7

大澤真幸老師の『三島由紀夫 二つの謎』を読書中。文章は武骨だが充分にオモシロイ。武骨な殺陣、たとえば栗塚旭さんのような剣演も好きだからネ。私は竹田青嗣老師の著書数冊からフッサールの現象学を学んだが、竹田老師の文章はもちっとsmartだったか。竹田老師がさる保守本流の有名評論家(有名なのに自殺なさったからなのか、いや単なる記憶欠陥で名前がおもいだせない)との対談で「私はチェスタートンはまったく知りませんでした」と述べられたときには吃驚仰天したけど。知らんものは誰にでもあるのんやと安心もした。
ところで、三島由紀夫さんの太宰治嫌いはよく知られているが、ここに短文をを幾つか引用する。
/天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わたしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳!を叫びたい/
/生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない/
/その不具者のような弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは、強大な世俗的な徳目に対してすぐ受難の表情をうかべてみせたこの男の狡猾さである。この男には、世俗的なものは、芸術家を傷つけるどころか、芸術家などに一顧も与えないものだということがどうしてもわからなかった。自分で自分の肌に傷をつけて、訴えて出る人間のようなところがあった/
/もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしいのは、あるいは愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。従って、多くの文学青年が氏の文学の中に、自分の肖像画を発見して喜ぶ同じ時点で、私はあわてて顔をそむけたのかもしれないのである。しかし今にいたるまで、私には、都会育ちの人間の依怙地な偏見があって、「笈を負って上京した少年の田舎くさい野心」を思わせるものに少しでも出会うと、鼻をつままずにはいられないのである
この中で、太宰老師の文章は最初の「パンドラの匣」だけ。他は三島老師の『小説家の休暇』『太陽と鉄』からだ。これだけで妙な顔をしていてはいけない。この文章すべてが太宰治老師のものであっても三島由紀夫老師のものであっても構わない。というより、三島老師の短文は一人称の自戒のようにも読める。A=非(ナル)Aというところが大澤老師の謎解きのミソなのだと勝手におもっているが。つまり、三島老師にとって、太宰治作品とその生き方は充分に『太宰治劇場』として『三島由紀夫劇場』を脅かすものだったのだろう。それがよくワカルところが大澤老師の理路のオモシロサともいえる。後半が楽しみです。

2022年12月17日 (土)

アト千と一夜の晩飯 第三五夜 孤独死とはなんだ 6

芸人、役者その他被差別者のことを「河原乞食」と称した謂われ、起原、理由、については諸説あり、現状では研究、論争、調査などがおこなわれている最中だが、私の識るところにおいて、芸人(歌舞伎者)、役者など河原者と呼ばれていた諸々の被差別庶民が、住居などを河原に定められていたのは事実らしい。らしいというのは、私の読んだ記事にも所出資料が示されていなかったからだ。推測にしか過ぎないが、生活用水(もしくは職業上の用水)には困らなかったというのもひとつの理由だろうが、そういった被差別庶民を一カ所に封じ込めて、人別帳に記帳せずにおいたことも事実だろう。彼らには戒名も与えられなかった。唯一親鸞の浄土真宗においては、戒名は与えられたが、寺の坊主だけにその出自がワカルような特種な暗号的な戒名だった。私の祖母は、京都出身の被差別部落民であったため、それが戒名で知られるのを隠して高い戒名料金を支払い生前戒名をつくっておいた。戦前出国、マレーに逃避してハリマオとなんらかの関係を持ち、再び日本に入国して等々、出身地を隠蔽するのに幾つもの手立てをかんがえたりもしたのだろう。
芸人、役者を一カ所に集めて住まわせるというのは、あたかも留置のようだが、その人々にはそれなりに世間に対しての〈影響力〉があったものとおもわれる。これはいまの芸能界を思い浮かべればたやすく理解出来ることだ。
さて、かくなる被差別庶民においても集団である以上、統率者、権力者は必要悪として具現する。(いまの政治家だって、その程度のものだとおもいますがネ)何事につけ、ニーチェの弁を待つまでもなく、ヒトには権力(力)への意志というものが存在し、そこにつけて誰にだって〈欲〉というものがあれば、「権力欲」などすぐに成り立つ。「権力」自体には善悪は無い。もし、在れば宗教上の最高権力者である神などはまったくの悪の権化でしかナイということになる。つまりはこの「権力」の使いようなのだ(たしかにあんまり良いようには使われてまへんけど)近頃はハラスメント(harassment人を困らせること。いやがらせ)と結びついて、パワハラやらセクハラなどと称される。共同幻想を持ったひとの集まりあるところ、「権力」あり「権力欲」あり、ハラスメント(harassment人を困らせること。いやがらせ)あり、という事態になっていることは周知の如くだ。政治、宗教団体にこれが多いのが世間の常識だが、昨今は会社や、劇団(こいつはもう古くからあるんだけど)にも蔓延るようになってきた。前者は出世に関係し、後者は役者のランクや役のもらいどころに関係する。いい役が欲しいのなら、監督の指示に逆らってはいけない、演出の云うことはナンデモ「はい」と返事しなければいけない。師匠の罵詈雑言、暴力を修行とおもわねばならない。こいつはもう一度云うが昔っからの悪習なのだが、昨今、かつて小劇場劇団と称されたユニットにまで流落してきたことがSNSなどの書き込み、訴状、告知によって明らかになってきた。「世界的に有名(と、メディアだか、自称だか)な演出家」の演出素振り、灰皿を投げるとか、メディアが稽古見学に来る日は道着を身につけ木刀の素振りをやっているとか、そういう類は、茶話、酒の席での談笑であったが、なんだ、またかよと気持ちの悪い昨今のSNS騒動、「そんなもんは、世間からみたら、河原もんの痴話喧嘩や」と、祖母なら云うかも知れない。祖母は命懸けのsingle-motherだったが、死に水をとった私から観て「孤独死」だったとはいまもおもってはいない。彼女は静かに、朝、逝った。形見のオパールの指輪は私設の画仏壇に並んでいる。

2022年12月16日 (金)

アト千と一夜の晩飯 第三四夜 孤独死とはなんだ 5

鬱病の現象(症状とはもう称しないことにしている)で、毎日の稽古参加は無理なものだから、一日おきということで参加しているのだが、合間の一日をのんびり過ごしているというワケではナイ。そうは上手く出来てはいない。とはいえカラダのほうはやはり楽なので、のんびりとかんがえごとなど独りでしている。のんびりしているのかしていないのか、たいてい稽古のことを〈反省・ここでいう反省は、後悔を含む倫理的定義ではなく、ヘーゲル弁証法における反省、省みることを云う〉しつつだから、逆にひどく落ち込むこともある。稽古というのは鬱病特有の躁状態でしかなく、ヤっていることはみなマチガッテいるのではないかなどとおもったりする日もある。そんなのに付き合ってばかりもいられないので、活字の読書なんてのをヤってみたりする。最近は『おどろきのウクライナ』(大澤真幸×橋爪大三郎/集英社新書)を時節がら読んだり、いま、その末尾宣伝にあった『三島由紀夫 二つの謎』(大澤真幸/集英社新書)を読んだりしているのだが、後者のほうがミステリを読むようにオモシロイ。どうも前者は、日本の最高頭脳の対談にしては、やや通俗的に過ぎるような気がするからなのと、後者は「謎」に挑んでいるところが/名探偵みんな集めてさてといい/を彷彿させるからなのだが。私もまた同じ大澤老師が扱っているように「謎」だとおもっていたので余計にオモシロイのだ。
ところで、それについてここで自説を展開する気はナイ。
やはり、稽古だなあ。今回の演目でavecビーズは解散、最終公演ということになるのだが、そこで、私が企んだのは、ここからネタバレになるのだけれど、そういことは気にしないタチだから述べてしまうが、/小劇場演劇/などとメディアが持て囃す以前の、私たちのコトバで云えば「自主制作演劇」みたいなのを創りたいということで、そこで、ここまでにワカッタのは、よーするに小劇場演劇というのは「明日くるひと」による「明日くる演劇」だったんだなあということだ。つまり「若い」ヒトのものだったんだですよ。オレだって若かったもの。そうか、いまの世界は「若い」ヒトはそれどころじゃナイのだろう。ゲームしてるか、アニメ観てるか、コミック読んでいるか、仕事も銭も、そうして肝腎の「明日」が無いのだ。卑近に云うなら「暇がナイ」。まあ、明日になったら今日だから永遠に明日なんて来ないのだけれど。ともかく空いた時間は働かないと、いや働いても明日食えるかどうかワカラナイのがいまの「明日くるひと」で、こうしたことから私は「小劇場演劇が終わったいま」なんていいふらしているのだが、かつて活躍したロートルは何をしているかというと、ひでえのになると、自分の書いた戯曲の全集を出版するのに財を放出してるってんだから、そんな昨日のコトをほじくって棚に飾ってどうすんのと云いたくもなる。私も残すところ、アト千と一夜なのだが、ひとつだけヤッてみたいことがあって、いまの稽古と鬱病がとりあえずカンカイしたら、とりかかる。まだまだ孤独に死ぬことは出来ない。てなと云うと死亡フラッグになって、明日の朝、突然死んでたりするんだからナア。

2022年12月11日 (日)

アト千と一夜の晩飯 第三三夜 孤独死とはなんだ 4

フロイトの場合、その基本的な理路は意外に簡単に述べることが出来る。ようするに「無意識」があって、それは、本来的に封じこめられたものなのだが(忘却されたかのような)本音にはチガイナイ。それを「意識」化するのが「超自我」だ。ヒトはこの意識によって行動する。まあこんだけ(主筆の知識としては)。しかし、深く沈むれば、無意識というのは/「無」の「意識」/ではナイ。そんなものなら仏教になる。誰が訳したのか、これは英語ではUnconsciousであり、その意味を訪ぬれば「意識を失っている状態」、もっと卑近にいえば「なんとなく」である。無意識というのは「なんとなく」なのだ。そういえばなんとなく生きているもんな。つまりヒトは意識的に生きているのではナイ。意識的に生きねばならない状況ということもあるにはあるが(火事場から逃げるとかネ)、たいてい無意識に生きている。誰が「意識」的に恋をするか(銭で意識的にsexはするだろうが)。そうするてえとフロイトの定めた公式はあやしいのではないかという疑義が起きてくる。「無意識」という領域に「心的ナなんやかんや」が封じ込まれるのではなく、ヒトは本来無意識的な存在なのではナイか。で、ときに「意識」的になる。超自我もへったくれもナイんじゃないのけ。たぶんユングはほんとうはそんなふうにかんがえたのではないか。それがいつのまにか「無意識」という領域が単独、独立して存在するといいかえられたのじゃないか、などと穿ったりする(主筆程度の能力では)。
アドラーの心理学にも疑義はつけられる。ようするにアドラーの云っていることは「倫理性」あるいは「理性的配慮(判断)」があってのことではないか。親に殴られても我慢して強い子になる(主筆のようにドメバに耐える)。つまり逆境(主筆の場合は虐待)を反面教師として「修行・或いは反抗」する。しかし、ここには「関係性」はあるが「環境性」がまったく欠落している。戦争になって徴兵されたら、好き嫌いや理性(戦闘訓練はそういう面もあるやも知れぬが)で敵を殺すワケではナイじゃないか(たぶん、戦場では感情反応だろう)。この(環境という客観)の欠陥をポパーは突いてきた。だからアドラー心理学は似非科学だと切り捨てた。しかしポパーのいう科学哲学のイイカゲンさは/ともかく反証出来ぬものは科学ではナイ/という命題の中にいつも浮遊している。このポパーの命題が真だとすると、科学はいつまでたっても〈真理〉には辿り着けない。ポパーの云う「反証」はソフィストのゼノンの矢、現代数学風にいうなら「収束点列」といいかえることだって出来る。「反証」を重ねていく、繰り返していく。そうしてある「定理」「法則」に辿り着く。ところが、その「定理」「法則」はもはや/反証出来ない/のだから、似非科学に引き戻されることになる。そうなると反証ではなく「証明不能」の範疇だ。ポパーの科学哲学の着地点(或いは原点)はそこにしかなくなるのではないか。反証ではなく「半鐘」だ。落語『火炎太鼓』の「オジャンになる」だ。科学哲学(者)の著書を主筆は幾冊か読んだが、結論は/こいつらは阿呆だ。科学にも哲学にも無識だ。てめえらだけ頭がイイとおもってやがる/。と、主筆は持病の鬱病の悪化期で、aggressive、感情的になっている。だからこんなに前説が長くなるのだが、本論では何を述べればいいのかくらいは記憶している。
鬱病の〈負減-マイナス〉をアドラーの公式に依って〈正加-プラス〉に出来ないものだろうか。以前論じられた「独り言=独り手話」は遅々としてだがつづいている。これはフロイトから導いたものだ。初期量子論(だいたいコペンハーゲン派解釈の破綻まで)ではあるが、このまま十九の乙女子の乳房を舐めもせずが如くに死ねるものか(なんちゅう譬でありましょうか)
んで、つづく

2022年12月10日 (土)

アト千と一夜の晩飯 第三二夜 孤独死とはなんだ 3

前説代わりにアルフレッド・アドラーという心理学者の逸話をひとつ。
/アドラーは心理学の講義を行った後、用意された昼食を学生たちと楽しんでいた。だが、ひとりの女性は、サンドイッチと飲み物だけの昼食が続くことに腹をたてて云った。「毎日アドラー先生にサンドイッチを食べさせるなんてひどい。先生のような偉大な方に」と。アドラーは女性にこう云った。「いいですか。もしも私の中に偉大さというものがあるとすれば、私が食べたもののためではありませんよ」/ここにアドラーの人格はすでに殆ど現されている。
アドラーはフロイトとも交流があった。しかしフロイトのいわゆる「無意識→意識」という図式には賛成していなかった。アドラーは、医学の知識を通じて社会をよりよくしようと考えていた。/私たちは、自分の経験からの衝撃、いわゆる外傷に苦しむのではなく、まさに自分の目的に合致する外傷を作り上げているのです。私たちは、自分の経験に与える意味によって自分を決めています/(人生の意味の心理学)。無意識の中に抑圧された性衝動やトラウマが人間の意識や行動に大きな影響を与えると考えたフロイト。それに対しアドラーは過去の衝撃的な経験そのものよりも、その経験を心の中にどう位置づけるかという「意味」こそが人間の行動を支配していると考えた。貧しい家庭で育った子供が「だから自分は恵まれた人生を送れない」と考えるのか、それとも「逆境をはね返してみせる」と奮起へのバネとするのか。自らが置かれた環境にどんな「意味」を与えるかによって、人生の結果も大きく変わる。これがアドラーの個人心理学だ。このあたりは、黒澤明『隠し砦の三悪人』のあの秋月家の生き残りである雪姫の有名なせりふに応用されている。auditionで選ばれた雪姫役の女優はほぼ素人だったため、聾唖(に化けている)という設定になっていたが、一カ所、衝撃のせりふをもって、自分の命を奪いに来た敵将を叱咤説得するのだが、それは、映画を観たほうがイイ。感動のシーンだ。
もうひとり交流のあった科学哲学者のカール・ポパーはアドラーの個人心理学は疑似科学だと批判している。 ある時、ポパーは小児患者の症例をアドラーに報告した。しかし、アドラーはその患者を診た事さえないのに、自分の劣等感理論によってその事例を事も無げに分析してみせた。こういうことをするとポパーによって、アドラーの個人心理学はどんな事例も都合よく解釈でき、反証可能性の無い理論はニセ科学であるとされてしまう。どっちが阿呆か、「科学哲学」者たちのご本を何冊か読むとよくワカル。読んでみればヨロシイ。主筆も読んだ。あいつらはほんまに阿呆だ。
ある種の寄生体を宿すオオカミはリーダーになりやすいが、リスクを冒す傾向が強い。1995~2020年に採取したオオカミ229匹の血液から、トキソプラズマという小さな寄生虫が感染した痕跡があった。この寄生虫はネコ科動物の腸に生まれ他の動物も渡り歩く。健康であれば症状はほとんど出ないが、脳や筋肉に巣くう。寄生体がオオカミに何をしたのかはよくわからないが、調査チームの一人は「脳を操っている気がする。ホルモンの分泌を変え、リスクの高い行動を促しているのかもしれない」と疑う。
と、本日は前説だけで終わる。日経、毎日、の電子版からサンプリング、リミックスして、自説を加えただけだけど。前説なので、次は本論を述べる。
つまり、つづく。

2022年12月 9日 (金)

アト千と一夜の晩飯 第三一夜 孤独死とはなんだ 2

ゼロコロナにロシア侵攻。あちこちで「専制(独裁)主義」の横暴とそれに対する批判、抵抗が試みられているが、日本だって、専制(独裁)企業の花祭りはこの生活圏(日本)に住むものにとって批判、抵抗の対象にしたいところだ。たとえばエネーチケー、たとえば、電子機器会社、観もしないものに二倍銭を出せと云い、壊れてもいないのに買い換えなければメンテもupgradeもナシだと云い。これらは コンプライアンス(法令遵守)の逸脱ではないのか。独占禁止法か゛企業どうしの法令であれば、企業と消費者との法令はどうなってんだろ、この国は。
以上、前説オワリ。きんののつづき
たとえば、ほんの日常生活の依頼も、鬱病者にとっては苦吟になる。
〇「主筆は昼飯も晩飯も自炊ですやろ。まあ、昼は自分だけやからナンデモええとして、晩飯、連れ合いに/今晩は鍋にしますか/と、連れ合いとしては、主筆の心身状態を考慮して簡単な献立(野菜を切るだけでイイ)を頼んだとします。たまたま、そういうことがあったので、蒸し返しているワケではけしてナイんですが、ワカリヤスイので一例として挙げておきましょう。
●「鍋がどないしたんや。いつも冬になったらつくって食うてるやんけ。
〇「鬱病者は、その症状の重いとき、このいつもなら簡単な鍋の準備がどういうものになるかちゅうこってすな。
●「鍋やろ、野菜と、鶏肉かなんか買うてきて、切って、だし汁つくってそんでほぼオワリやないんか。
〇「普通のときならそれでオワリなんですが、鬱病者は普通ではナイ。ここで、/外に買い物に行かねばならない/という簡単な作業に対して、/どうやったら外に出られるか/をかんがえるところから始めねばならんのですわ。
●「えっ、そんな、捕虜とか拉致で捕まっているワケでもナイのに、ポイと自転車で坂を下ったらスーパーやんけ。
〇「しかし鬱病者はどうしても外に出なければならない事情を必死でかんがえます。しかも特種な事情ではなく、いつものようにthrough出来るナニか。で、いつも外に出るときのことをあれこれ冷や汗一斗でかんがえて、そうか、洗濯物の乾燥にコインランドリーに行こうということに決めます。そのためにあまり溜まってはいないんですが、洗濯をする。
●「ちょっと待て、なんでソコからやねん。
〇「ワカリマセン。洗濯をして乾燥機にかけて、乾くまでの30分を活用すれば、スーパーで買い物が出来る、と、そういことなんでしょう。で、そうします。さて、スーパーでまた思慮に沈みます。/鍋とはなんだったろう。何を買えばいいのだろうか/でんな。
●「いつものことなんやろ。
〇「正常であれば、いつものことです。鬱病は正常ではナイんです。これが鬱病です。健常者からみれば、そんなアホな、でんねんけど。買い物済んで野菜を切るために包丁を持つまでが、また似たような心的状況でんな。
●「なんや知らんけど、鍋一つやろ。そやのに孤独死に引き寄せられる気分になってきたで。
〇「でっしゃろ。こんなこと、理解せえ云うほうが無茶ですわ。そやけんど鬱病者当人にとってはこんな日常的な営為がまるで爆発物の解体作業のようにプレッシャーになるんですな。鬱病者のおもいは一つ/日常から乖離したい/かなあ。ここが死ぬか生きるかの別れ道ということになってくるのですワ。
●「たかが鍋が、なべがあっ。そら、無理やで、理解も了解も配慮も考慮もせえちゅうほうがオカシイわ。
〇「他者だけでなく、鬱病者当人にもそれは出来ませんねん。これやから、鬱病はもう地回りに難癖つけられてるようなもんです。

:というところでもちっとつづけましょう。

2022年12月 8日 (木)

アト千と一夜の晩飯 第三十夜 孤独死とはなんだ

/警察庁によると2019年、全国で行方不明者は約8万7千人。行旅死亡人は年間600~700件ほどが官報に公告される。高齢者の孤独死に関する公的な全国統計はないが、ニッセイ基礎研究所が2011年に発表した推計では年間約2万7千人に上っている/(毎日・電子版、ここで「行旅死亡人」という耳慣れないコトバが登場するが、これは「死んだのが誰なのかワカラナイ」死に方をしている遺体のことをいう)
「孤独死」だってそれ以上に定義がワカラナイ。文字通り読めば独りで死ぬことなのだが、ふつう心中でもナイ限り、いや厳密に云えば心中すらも、死ぬのは当人独りなんだから、「死ぬ」というのはすべて「孤独」なのだ。ところで、この「死ぬ」というのはどういうことなのだろうか。生物学的には、「脳死」だろうし身体的に内臓活動の停止だろう。もうちょっとチガウ角度から観れば/この世界との関係を断たれること/といえなくもナイ。では「あの世」はあるのか。釈迦牟尼曰く「霊魂不説」。そういうことはいくら論じてもかんがえても答の出ないことなので説くことは不可能だということだ。新興宗教のけっこう多くは、熱エネルギーの第一、第二法則から「霊魂不滅」を声高に云う。たしかに、孤独死だろうが集団死(まあ、戦死とかかな)だろうが、生物学的にではなく、物理学的に「死ぬ」ということはエネルギーの消滅を意味しない。とはいえ、霊魂として残るということはまず有り得ない。何故なら「霊魂」とやらがナンダかワカラナイのだから。
ともかくも「死ぬ」ということがどういうことなのか自体がワカッテいるようでワカッテいない。たしかにこのニュートン力学的世界からニュートン力学的、生物学的に不在になることはマチガイナイ。じゃあ、どうなる。hereafter(死後、ここからアト)は、どうなる。それは諸説あるし今夜の話題ではナイので、本論にもどる。
わたくしが述べたいのは「孤独死」というのはアカンのか、という疑義だ。もう少し絞り込んでいうと、誰にも理解されず死ぬというのも孤独死だが、それはアカンのか。これはわたくし自身の立場でもある。だいたい鬱病なんてものは終に誰にも理解されない。鬱病それ自体が死因になることはナイが、鬱病による〇〇で死ぬことは年間で3~10万人だろうと推定されている。推定というのは、勘定の方法がナイから、推定なのだ。多いのが自殺だが、双極性障害の場合、うつタイプは自殺が多いけれど、幸いにもクスリの効果が大きく、入院さへすれば自殺は防げる。ごく大雑把にいわれる鬱病の場合、自殺も多いことは確かだが、自殺念慮は鬱病自体の特徴によってたとえ生じても「自殺出来ない」状況にさへあれば防げる。これは防ぐというよりも当人にとってはより残酷な刑罰のようなもので、たとえば、/おまえが、自殺するならこの子の命は無いぞ/と人質なんかをとられたら、死ぬワケにはいかない。みたいなものだ。鬱病者は苦しみながら「生きなければ」ならない。それなら「孤独」だろうがなんだろうが、死んだほうが楽なのだ。いや、ほんとに楽かどうかは、それで死んだ者に訊ねたことがナイのでワカラナイが。
:て、ことで、つづけます。

2022年12月 7日 (水)

アト千と一夜の晩飯 第二九夜『寿歌』とロ×ウ戦争・6

〇「主筆が云うんですワ。七十歳になると、この先どう生きるかというかんがえかたが極端になってくると。
●「極端というと、
〇「これまた極端な例なんですけど、ロシアで徴兵、つまり動員ですな、それが大きな声で総動員とは云えへんから、まあ、いくぶんか動員というふうにした。しかしこれもかなりエエカゲンな動員になってる。そこで、ワグネルだかワグナーだか、ロシア語でどっちの読み方が正しいのかワカリマセンが、私兵会社(私立軍隊)が、まあプーチンの許可があるからなのか、テキトーなのか、獄舎の犯罪者を徴兵する。つまり最前線に立って働くなら刑は無しにしてやる。とはいえ、これは弾除け、というより具体的な使用目的としてはウクライナ軍の隠れている陣地をみつけるためのよくいえばレーダー、ふつうに云うなら囮の犬でんな。そういう取り扱いで、テキトーに銃を撃たせて前進させる。ウクライナ軍も応戦せなしゃあないので応戦する。当然、受刑者はみな殺されますワ。その代りにウクライナ軍の陣地の場所がだいたいワカル。そいでそこを正規のロシア軍が攻撃目標にする。これはもう役立たずを役立てる、日本の与党の女性国会議員が、非生産的な役立たずは生きててもしゃあないので援助なんか要らんいうて、問題になってるのとよう似てるんですが、/七十歳以降の生き方というのもそういうのに似ているとろがある。七十から何か始めるには、体力も能力も劣化している。当人にとってもやる気(士気)は落ちている。生きていてもしゃあないナアというのが、老人性鬱病や/。
●そらまあ、極端やな。難儀な疾病、いや、主筆は鬱病を疾病とは認めてへんな。
〇「ここで主筆はへそ曲がりやから、また自論を反転させるんです。いや、そんなことはナイのとチガウやろか。なんど、七十やから生きていける生き方があるはずや。
●「そやな、主筆の資質からするとそうかんがえるやろな。
〇「しかし、生きていくというのは何か見返りというか目標というか、それ相応の快楽がナイとやれんもんや。この場合の快楽は、古代ギリシャのエピクロスの説いた〈快楽主義〉で、身体の健康や精神の平静を奨励した倫理的利己主義の一種ですナ。
●「なるほど。
〇「しかし、主筆はいま鬱病で、健康面はキツイ。精神の平静いうても、やっぱり好みの姉ちゃんは眺めてて、そう、もうヤル気はナイねんけど、眺めるぶんには平穏やから/花の命は短くて/とかなんとか云いながらも、マスク美人との妄想に耽ったりする。
●「七十いうたら、まだヤレルやろ。
〇「そらあんた、鬱病には無理ですわ。どうせ無理なら花電車ですナ。観るだけで乗れんでもエエ。
●「なにもそればっかりが生きがいやナイやろ。
〇「そうでんねんけど、主筆がいくら阿呆でも、もう女がどんなもんかよう識ってますしね。それに他の生きがい、やりがいのあることをさがすのが、鬱病にはキツイですわ。というて、ロシアの弾除け、人間レーダーみたいに死ぬのもアホラシイ。そこで、『寿歌』のゲサクみたいに、ただただリアカー曳いて歩くだけで出来ることないか、うさぎみたいに丸焼きでもええわ、みたいになってますねん。「人生100年」みたいな大嘘こいて年金ちびって、他にぎょうさん税金つくってる政府にも腹が立ちますけどナ。このまま死ぬのも「アホラシイ人生の証左」になるだけのことやし、ああそうそう、こないだも、人生についてはこんなこと云うてましたで。
●「なんど、エエことか。
〇「なんやしりませんけど、/人生は記憶の確認みたいなもんや/ですねん。
●「つまり、いま生きているのは、これは記憶の中のことやと、
〇「そうでんな。
●「夢か現か幻か、やな。キ印のかんがえそうなことやな。
〇「いやあ、わてなんか、そう云われてなんや納得するとこもありましたワ。そういうたら、なんやいまの人生いっぺん生きたよう気がするナアと。

2022年12月 5日 (月)

アト千と一夜の晩飯 第二八夜『寿歌』とロ×ウ戦争・5

〇「昨日、打ち上げて、滞りなく名古屋公演終了。その間(かん)に、主筆の持病(鬱病)悪化。やっと数行書ける程度には回復なれど、症状の波激しく、ほんまはもうちょっと書きたいらしいんですけど、アカンみたいですね。
●「そないみたいやな。なんや、眼鏡の具合も悪くなってホンも読めない、
〇「ところへ、パソコンの具合まで変調。それがまた主筆、きょう階段で上の階に引っ越してきはったらしい若夫婦だか、なんやワカリマセンけど、若いの二人、その女性のほうと擦れ違われまして、主筆はいつもの如く洗濯物乾燥にドアを出たところやったそうで、なんや死にそうに階段を上がってきはるそのニョショーに挨拶されて、マスク美人なんですけど、この時間に早退かいな、えらい厚着やなあ、しんどそうやな。しかし、こんなとこで声かけたらエライことになるとタイヘンやから、そそくさと乾燥に。しかし、持病のときは妄想も働くようで、
●「なんや、人妻襲うとかか、
〇「いやいや、そういうのやのうて、主筆の場合は、なんか事件が起こってその容疑者にされるんとチガウやろかびくびくで、マズイことにちょっといまcomicで科学捜査のミステリ読んでる途中で、階段でその若妻が倒れて、しゃあないなと、部屋まで肩をかして運んだら、いきなり、その若妻が包丁で斬りかかってきて、おいちょっと待て、と二つだけ体得している護身術でくい止めたはええけど、若妻、自分自身の手を傷つけて今度はベランダから飛び降りそうになって、それを必死でくい止めてるところに警察が来て(誰どが観てたんでしょうナ)しかし、主筆自分の衣服にも血が付着している。若妻は襲われたと証言する。そうなると、いまのケーサツはもうマル害(被害者)の云うことしかきかへんので、マル疑(容疑者)にされる。
●「ムチャクチャ具体的な妄想やな。そんなcomic読んだらアカンで。
〇「主筆の同化能力と妄想は細部にいたりますから。ほんまは、飛び降りる前に、その若妻は、パンツ脱いで裸になりよるんですわ。
●「あれまっ、物書きの妄想は困ったもんやな。
〇「主筆の持病(鬱病)は被害妄想と加害妄想が混濁するらしいんです。昨日、『寿歌』の打ち上げで、持病の具合が悪いのでと、事前に連絡はしてあったんですけど、挨拶と乾杯だけで帰ってきたんですが、演出のニノキノがなんか話したそうにしとったなあと、えらい後悔してたそうで、その加害妄想が妙にねじれて、
●「そんなもん、また一席もうけたらええがな。
〇「そうする云うてましたけど。
●「しかし、若妻(かどうかは不明なのだが)が、全裸(いつのまにかそうなったらしい)でベランダいうのはな、なんや、メンヘラかなんかか。
〇「単純にdramaticなだけなんやとおもいますけど。猟奇事件ですな。
●「昭和初期のエログロナンセンスやないで。
〇「それ、ウイキで調べますか。
●「いや、もうエエ。ほんで主筆、いまどうしてんねん。
〇「残便感があるいうて、へこんでますわ。
●「なんじゃそりゃ。

アト千と一夜の晩飯 第二七夜 ウソみたいなほんと・2

原発推進、防衛費2%、反撃能力強化台湾守備、北朝鮮へも攻撃準備。
おかしなってるのはプーチンやのうて、岸田やないか。統一教会に入信していっぺんみてもろたらどないや。悪霊がいっぱいかも知れへんで。
反撃能力というのは、どう解釈しても、9条違憲とちがうんか。「国権の発動による・・・」に、まるっと抵触してるのとちゃうか。

アト千と一夜の晩飯 第二六夜 ウソみたいなほんと

ドイツにスペイン、どっちにも勝って、うーんどっちもかつての優勝国だし、ベスト8の常連。
隔世の感なのかなあ。
まさか決勝まで、は、無理だろうなあ。ウソみたいだけど、ほんとのハナシ。

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