アト千と一夜の晩飯
第十三夜 不思議の国の専門家
どうしたって、スマホでニュース観てしまいますな。手にとればね。私はゲームには興味ないし。んで、まあ、ウクライナとか、プーチンとか、専門家が小論してはってね、ああいうたりこういうたりです。さっき読んだのでは、最近出版した著作本の宣伝らしいんだけど、いうてみたらこうです。/プーチンにはプーチンの善があり、ゼレンスキーにはゼレンスキーの悪がある。イチバンの悪はバイデンや。/で、どうしたらこの戦争を終わらせることが出来るか。どっちかが勝つでは終わらない。停戦外交協議でしか駄目だ。だから、日本はアメリカのケツ持ちばかりしていないで、(云うてみたらいまのトルコですな)プーとゼスキの間に入って、両者に橋を架ける外交努力を、うーん、このひと不思議の国に住んでるとしかおもえない。同時に別の専門家、このひとも最近出した本のアピールを兼ねてやな。ロシア人がアニメ好きだからといって、日本(人)を理解しているとは限らない。とまあ、なんともケッタイな命題、しかも帰納法思考だから、なにをヤっても両者(日本人、ロシア人)が和解することはナイ。つまり前者専門家とはまったく正反対の思考です。
このひとたちの著作は買わなくてイイな。
この二人の専門家に共通しているのは、ロシアのウクライナ侵攻(による殺戮)は赦しがたいが、だけです。この前提は何処の何方もいうてはる。私はまったくそうはおもわないんです。事実だけを観てみましょう。仕掛けるも巻き返すも、ようするに両国は「戦争」しているということだけが事実です。それ以外は、友好国も敵味方もけっきょくは都合のイイコトいっているだけだとかんがえます。戦争という事実には善とか悪とかはありません。たった一つルールはあります。自国の戦争において無関係の他国に被害をもたらすことはダメだということ。これだけです。小麦の輸出を止めることによって他国に飢餓を招く。具体的にいえばそれはアカンです。戦争においては民主主義も専制主義も独裁もファシズムもヘッタクレも何にもナイ。ただ、阿呆ラシイことに命懸けになっているだけ。終わらせるためにはどっちかが勝つか、引き分けるしかありません。負けると悲惨しか残りません。かつての日本はそうだった。そこから学んだことはあったはずや。そやからね、あのな、戦争はな、阿呆ラシイで。百人の子供の首を次々ちょん切っていくことや、数万の大衆を一晩で燃えカスにすることやで。日本の政府に出来ることは、腹かっさばいても、両者にそれを伝えることだけです。外交やら仲裁やらキレイなこというてる場合やナイのや。あのな、神さんいてはっても、笑うてはるだけや。ヒトはやっぱり失敗作やな、いうてナ。こんな世界、神さんが遊び半分で創らはったとおもうたほうがエエ。そんな世界で大真面目に殺し合いなんかせんでもエエやないか。わしら昔、それヤった。やりました。ムチャクチャになりましたわ。股は裂ける、目玉は飛び出る。うんこ垂れ流しながら道端で死んでいく。それが戦争やった。
核ミサイルのボタンなんか、ちょっと前の米国大統領は、なんべんも「押せっ」と命令している。そのたんびに、「大統領、もちょっと我慢を」と取りなしている「ひと」はおったんや。何処の国にも「ひと」はおると信じなアカン。
わしら日本人はな、直截経験したひとはもう仰山死んであんまりおらへんけど、いま七十~八十の者は、間接的に悲惨な貧しさだけは享受してきた。わしらは専門家やナイ。エライときところに生まれ合わせたナアと、嘆いているだけや。
と、せめて日本政府はプーにもゼスキにも云うてまわれや。
戦争は勝たなしょうがナイ。負けたらall nothingや。しかし、勝ってもあんまりエエことあらへんで。どっちにしても屍の上や。どうせ老いてか病んで死んでいくねん。せめて生きているあいだは、美味しいご飯食べよやないか。
敗戦国民、敗戦国家、日本は、そういう意味では戦争の専門家なのだ。お伽話では戦争は終わりません。
:昨日と弁論がぜんぜんチガイマスが、諸行は無常ですわ。我が思考、我自体も諸法に有りません。きょうのところはこんなんですナ。
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