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2022年11月 1日 (火)

アト千と一夜の晩飯

第十一夜

/あなたは、作家というものは「間抜け」の中で生きているものだということを、もっとはっきり意識してかからなければならない/
これは、太宰治が川端康成の芥川賞選評(文芸春秋九月号)のかの有名な「作家の生活に厭な雲ありて――――」に対して書き送ったいわば「反論」の手紙の末尾である。書き出しはこの文章に応じるように/おたがいに下手な嘘はつかないことにしよう/となっている。ともかくは感情的になりがちな「反論」「異議」「批判」の類の手紙おおいても、太宰は幾度も書き直しを試みていることがこれでよくワカル。
手紙の中身の芥川賞オチの作品に対する苦労話は、どうでもよい。誰だってどんな作品を書くにも命を削っているのだから。しかし、このあまり語られない手紙の「ピン」と「キリ」は充分に読むに値する。かたやノーベル賞作家だが、老醜、若い娘のおめこに悩んで自殺した。かたやしごきで結んでの身投げ心中だ。おめこと心中なら、新聞記事になる場合、「心中」のほうがまだromanがある。「ノーベル賞作家、おめこに悩んでガス自殺」なんて見出しが新聞に載せられるワケがナイ。
川端のおめこの亡霊(あるいは創作の根多・あるいは無意識といってもよい)は伊藤初代であることはいうまでもナイ。
:伊藤 初代(いとう はつよ、1906年(明治39年)9月16日 - 1951年(昭和26年)2月27日)は、川端康成の元婚約者。15歳の時に22歳の川端と婚約し、その1か月後に突然婚約破棄を告げた女性である。その事件による失意が川端の生涯の転機となり、様々な作品に深い影響を与えたことで知られる。川端の永遠に満たされることのなかった青春の幼い愛は、清潔な少女への夢や、聖処女の面影への憧憬を残し、孤児の生い立ちの克服という命題と融合しながら独自の基盤をなして、川端文学の形成に寄与した。(ウイキより)/主筆からの注意として、ここでも「命題」というコトバはマチガッテ用いられている/
三島由紀夫は、川端を「温かい義侠的な立派な人」であり、清水次郎長のような人であるが、その行為はちっとも偽善的でなく、そういう人にありがちな過剰な善意で、私生活に押し入って忠告してくるようなことや、「附合(二個以上の物が結合すること)」を強要することもない。と、評しているが、これは三島特有の冗談(joke)だとおもわれる。「作家の生活に厭な雲ありて――――」は、あきらかに私生活への押し入りでしかナイ。だいたい、何が清水次郎長だ。どう転がしても川端と次郎長親分が重なることはナイ。三島由紀夫の生き方に私は憧憬すら持っているのだが、川端康成と同じくして太宰の『魚服記』からの進化はみられない。つまり三島も川端もあの作品に圧倒されて、ついにかなわなかったと、拙者などはおもうのだ。『魚服記』のヒロインであるスワも十五歳である。スワは自分が大蛇になったとおもったのだが、変身したら鮒だった。たしかに三島も川端も太宰も大蛇になったつもりが「間抜けの中で生きている鮒」であった。それに自覚的だったのは太宰治だけだったというコトかな。「間抜け」といえばもうひとりいる。宮澤賢治だ。このひとはもうトコトン間抜け。自分で「デクノボーになりたい」などと云っているほどだから間抜けのレベルがチガウ。ふつうこういう文章(文脈)は最後に「そういう私も間抜けなのだ」とか書くのだけど、ご期待に添わず、そうは書かない。そこが作家と劇作家のチガイだ。漫画家などはさらにけして間抜けではナイ。とでもいっておけばワカルよね。

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