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2022年9月15日 (木)

last job revision 3

25~37

29・「示唆的(しさてき・それが明示されているわけではないが、指し示されているかのような様子を表す)な言い損ない(云いマチガイ)と無意識には密接な関係がある」というフロイトの提唱はヒジョウに興味深いものだ。ことは〈表出〉についてだからだ。
30・ついでながら「表出」と「表現」ついてのチガイ、使い分けを述べておく。
表出:外部に現れる様態ないしスタイルをいう。たとえば、ある講演者が壇上で講演する場合、伝達を意図する内容や主題ではなく、その際彼がどのようなしぐさをするか、話し声は高いか低いか、しゃべる速さが速いか遅いか、体はやせて背丈は高いか、どんな服をどんなふうに着ているか、あるいはボードにどんな筆跡の字を書くか、などこれらのすべてのようすをいう→表出的側面ともいう。日本第百科全書(より抜粋・改)
表現:前記の表出における領域(スキーム)に類するが、そこからの縛りは受けない。たとえば、じっとしていようが、黙っていようが、ひとりでは動けない肢体不自由者が舞台上に寝転がっていようが、当事者に表現の意思-他者に対する提示、演技の欲求-があれば、これを表現といってイイ(私の定義)。
31・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)」は、無意識からの表出だ。と、フロイトは喝破する。
32・「31」あたりのことをウィトゲンシュタイン言語理論では説明出来ない(私の愚考をおそれずに述べるならば)「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)」は、「写像」出来ない。何故ならその「逆写像」は言語化出来ないからだ。要するにウィトゲンシュタイン言語学(前記の『論考』は、世界と言語の写像を基底にして成り立っていると私は誤読している。よって彼の著書『論考』の幕引きが「語り得ぬものには沈黙を」になってもしかたがナイ。だが、「劇」は、その「写像」出来ぬものへの「沈黙」から始まる。「語り得ぬものを如何に語るか」が演劇の言語(或いは表現)である。従って、『論考』の/これらの問題はすべて人々の言語使用の混乱から生じたものにほかならない。つまり、昔から哲学の領域でなされてきた大半の議論は、言語が従っている論理について人々が十分な見通しをもっていないがゆえに延々と続けられてきた、全く無意味な問いと答えの応酬にすぎない/という命題は、演劇においては成立しない。何故ならば/人々が十分な見通しをもっていないがゆえに延々と続けられていく、全く無意味な問いと答えの応酬/それこそが演劇のオモシロさ、醍醐味、観どころ、ゴケミドロだから。要するに私がウィトくんに不満なのは、鬱病、鬱疾患は「写像出来ない」という結論が導き出されそうだからだ。ここで「沈黙」されちゃたまらない。「語り得ぬものには沈黙を」という一種のトートロジーは、ここには持ち込まない。後期の彼の主張『言語ゲーム』に至っては「いわずもがな」としか評価しようがナイ。そうであってもなくてもどっちでもイイとしか感想はナイ。どうも、ウィトくんは言語というものを「発語」の状態から思案していて、言語自体の発生過程(何故、言語というものがヒトに生まれたのか)については無視しているようにしか私にはおもえない。言語はカント哲学で述べられているような、アンチノミー(ここでは先験的、空気や時間)のようなものではナイ。ヒトが創出したものだ。(発生過程についての私のかんがえは『恋愛的演劇論』に書いたあ~る)
33・私の友人で詐欺(の癖)が仇になって逃亡し、消息不明の者がいるのだが、彼の言い損ない(云いマチガイ)は、きわめて明確なものだった。たとえば、事務所で「トイレに行きたいのだけど、靴下貸してもらえるかな」「昼飯の買い物に行くのに自転車が借りたいのだけど、抽斗はどこにあるのかな」といったふうに。(前者はトイレの場所を訊いている。後者は自転車か或いは自転車のkeyについて訊いている)。これをどう「写像」し「逆写像」させるのか。こういうのは「ゲーム」にはならへんやろ。
34・「33」のようなコトバ=表出は、云いマチガイの表現なのだが、フロイト以前の哲学者たちは言語を意識的表出による表現として扱っていた。つまり内在する思考を外に表出させる道具(デカルト)や内在思考の構築(ルソー、ヘーゲル)のように。ソシュールやウィトゲンシュタインになると、それは内在する思考を外的なものと対応させる手段になる。よってどうしても発語と外的事物との対応が必要になる。
35・しかしフロイトは言語を「無意識を意識するための手段である」と定義した。云い方をかえれば内在する思考ではなく、潜在する思考、になる。それは、非言語=無意識を、もがきつつコトバ=意識にしようとする手段である。
36・有名な『夢判断』においては、夢の記憶を当事者に語らせるのだが、それが不正確なものであっても構わないとフロイトはいいきっている。夢などではナイ当事者のその場の思いつきの創作であっても構わないとしている。何れにしても当事者が〈無意識〉を意識化しようとしている営為だからだ。
37・フロイトにとって言語化するということは、無意識へのアクセスなのだ。従って、世界の何がその無意識に対応するか、あるいはその在・非在は問題ではナイ。

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