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2022年9月18日 (日)

last job revision 6

64~68

64・フロイトが「無意識のエネルギー=リビドー」を感知、察知、体験的に発見したのは女性のヒステリー発作の原因を治療(research)している途上においてだ。ここで私が興味を引かれるのは彼の発見(research)そのものより、Hysterieというものが、「~が起きる」「~を起こす」という述語を伴うということだ。
65・この場合の「起きる・起こす」を用いた文節で有名なものを一つ挙げる。「Que Sera Sera」。訳すと「起きるべきことは起こるべくして起きる」。ヒッチコックの名作映画『知りすぎた男』でドリス・ディが歌った「ケ・セラ・セラ」の「なるようになる」という訳は意訳である。というよりこの言語「Que Sera Sera」は映画用に創られた造語で、どこの国のどの地方のコトバとしても存在しない。(1954年の映画『The Barefoot Contessa(裸足の伯爵夫人)』こっちも佳作だが、物語のコンテンツとしては家訓として用いられている)。
66・さて、「疎外」だが、とりあえず「疎外」の意味を哲学(マルクスの自然哲学・経済学)でresearchすると「人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が、逆に人間を支配するような力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう」となる。この状態は云いなおせば「自分が自分でありながら、その自分のせいで自分のおもいどおりにいかぬこと」となる。(付記しておけば、シッダルータ=釈迦の出家の因となる疑問、疑義はそこにあった。ただし、何故おもいどおりにいかないのだろうではなく、おもいどおりにいかないと、何故、ヒトはこれほどまでに苦しむのだろう、というシッダルータの自問の普遍性である)。「起きるべきことは起こるべくして起きる」という多少、因果論めいた意味づけは「おもいどおりにいかない」とは逆のようにも読める。前者「おもいどおりにいかない」は主体が鮮明(当人・自身)だが、後者は主格が無い。いわば前者は自己災厄だが、後者は自然災害のようにも読める。
67・主語と述語を「分けることが出来ない」ものとしての了解は一休禅師のいう、ヒトの存在はほんらい「無漏(:むろ 仏教用語 漏泄する不浄なものが尽きていること。けがれがない,煩悩がないこと」であるということも示している。おそらく一休禅師の場合は、この場合の作用素を「純粋状態(量子力学において、状態ベクトル(重ね合わせ)の生じる状態であり、これに反して「混合状態」では状態ベクトルは起こらない。波動関数(シュレーディンガー方程式)も通用するのは「混合状態」までで、ここでシュレーディンガーは有名な「シュレーディンガーの猫」という矛盾命題を残して、量子力学からは遠ざかった。しかしながら彼の講義「生命とは何か」は人間が扱えるのは分子までだとしながらも、それは「分子生物学」の門を開くことになる)」において論じているので、「人間があるべき自己の本質を失う状態」とは解釈していない。
68・マルクスの「疎外論」での「表現=疎外」における価値形態の等号は、作用素においてoutputされた「情況」ではなく「本質」に位置づけられる。いうなれば何れも「固有状態」である。

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