無料ブログはココログ
フォト

« last job revision 8 | トップページ | last job revision 10 »

2022年9月21日 (水)

last job revision 9

93~102

93・この表出が具体的には、身体的、精神的な苦痛、苦難をともなう状況のことであり、もとより人体という自然が、身体性としても精神性としても、そういう「疎外」(作用素、あるいは固有状態)に対応出来るmechanismを「本質」として持ち得ていないからだとおもわれる。
94・この命題(仮説)(「93」)において、/言語が言語として表現され得ない/とは、当人にとってどういうことの(何の)因果で生ずることなのだろうか。
95・「無意識を意識化して表現」するその表現は何のための営為なのか。ここにきて、私たちは「communication(伝達)」という鬱病、鬱疾患に対するまったくチガッタ視点、視向、観点、試行に辿り着いてもよさそうだ。つまり鬱病、鬱疾患の「了解」だ。
96・交互の「communication(伝達)」を情報の交換として限っていえば、そこに含まれて取り沙汰されるのは各自の「記憶」と、相互の「認識の同一性」だとおもわれる。
97・「無意識」という領域(スキーム)には「記憶」が存在して当然のことだが、「意識」にとってそれは「忘却」ということになる。「記憶から一旦消されたのだが、〈無意識〉はそれを「記憶」している」というワケだ。(もちろん心身の何処にそんな場所があるのか、いわゆる外的、内的、心的、環界、どこに在ったって、あるいは、在るとおもっているだけのものであっても、特に差異、支障はナイ。ここでは仏教の「毒矢の譬え」と同じように、何故、無意識が存在しているのかは一義的なことではナイ。存在しているという事実だけが重要なのだ)。
98・「認識の同一性」になると、対他的な双方に、同じように存在するのかどうかはまったく不明瞭だ。それでも言語(や、それに類似したもの)が通じれば、おおむね普遍的にcommunicationを保つことは出来る。弁証法では「対立物の相互浸透」と称されるが、まったくの「同一」でなくとも双方の〈了解〉に至ればイイのだから。(もちろん誤解のままと、いうものもあるだろう。しかし、それはそれで〈伝達〉にはチガイナイ)。この部分については哲学において多数の意見、異議、解釈があるのだが、ここでは「97」を拡張活用して論じないでおく。
99・鬱病、鬱疾患に「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットが「視点・視向・観点・試行・情報」として、介入、滑り込んでいく。それは直観としか云いようがナイのだが、この直観(直感)は手放さないほうがイイとおもわれる。
100・この論考のハナ(初頭)に示した定義めいたものをおもいだしつつ、三点セットを置換してみる。「鬱病とは、ほんらい表出されるべき〈モノ〉が内外に疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう。この〈モノ〉を鬱病における鬱疾患と名付けておく」と、だいたいこのようなものだったが、そこで、この〈モノ〉を「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットで置換してみる。すると「鬱病とは、ほんらい表出されるべき「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」というふうになる。
101・さらに「92」における、「鬱病、鬱疾患とは、言語が言語として表現されずに表出されたときの疎外である」の、ここにも同じことをヤッてみると「鬱病、鬱疾患とは、「communication(伝達)」「記憶・記録」「認識の同一性」が表現されずに内外に疎外されて表出された〈モノ〉である」になる。
102・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットをこの場合、鬱病、鬱疾患の〈了解〉と呼んで差し支えナイ。

« last job revision 8 | トップページ | last job revision 10 »

鬱病(鬱疾患)」カテゴリの記事