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2022年9月

2022年9月30日 (金)

Sophism sonnet return 10

いわゆる安倍「国葬」に関して。

〇安倍は〈殺された〉のだということは忘れないでおく
〇テロでもなんでもないリベンジ(復讐)の一弾でである
〇あの一弾には多くの怨嗟がつまっている
〇そうして個的な恨みもだ
〇あの一弾の意味、威力、価値は大きいはずなのだ

そういえば、イギリス女王のほんとうの「国葬」の前後にEUでは国政選挙が二つあった。
イタリアは極右政党が、スウェーデンも右派政党が勝利して、ナショナリズム、ポピュリズムへと歩みだした。
さて、EUは凋落するとして、はたしてEUは吉本隆明老師のいうように「開かれて」いたのか。私はどうも「閉じていた」ような気がしてならない。ともあれ、一国ではやれんようになったんで、連合したんじゃナイのかな。それが相互扶助ではなく、閂おろしのようなものになってしまっていたんじゃナイのかな。

世界は「あちらもこちらも命懸け」で、てんやわんやだ。
世間も「あちらもこちらも路頭に迷う」で、一寸先は文目も知れぬ。
じゃあ、どうすればイイ。
私に関していえば、
・金持ちは富裕であるということにおいて強いが貧乏には弱い
・貧乏はもう富裕とは縁遠いが貧乏には強い
飯さへろくなものは食えなかった幼少のかつてのあの頃の世界、そんなに窮屈だったか。いんや、私たちは「壊れたもの」が好きで、「壊れたもの」で遊んでいた。なんでもオモチャにしていた。
・なんでもオモチャにしちゃえ
・もう余生、生存(ニュートン力学世界でだが)時間も僅かだ。しかしオレは「くよくよしながら一所懸命、遊ぶぞ」「壊れたもの」とは、私自身なのだから。

2022年9月23日 (金)

last job revision 11

114~119(了)

114・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」「夢」「独り言」、これらの量子ビットは、意識、無意識、超自我、の、フロイト関連量子ビットに加えられて、鬱病、鬱疾患の本態へと近づいているはずだ。
115・無意識は、意識の抑圧によって蓄積されたエネルギーの領域(場)だ。そのエネルギーをcontrolするべく超自我が「疎外」によって無意識の作用素からのoutputをマチガッテしまう確率が(たとえば〈云いマチガイ〉など)が在る。
116・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」などの無意識領域contents、の抑圧のoutputは状態ベクトル(波束の収縮)とはならないまま、ほんらいとは異なった現象としてoutputすることが確率としては有り得る。この「固有状態」が〈鬱病〉と称されている状態だ。
117・鬱疾患はその〈病態〉となる。鬱病は、無意識相応のエネルギーを有している。というよりも、「116」における「固有状態」のエネルギーそのものなのだ。その現象形態が鬱疾患として現れる。これを医学・薬学・医療界では「病態」「疾病」として扱ってきた。
118・しかし、ほんとうはそうではナイ。鬱病、鬱疾患は疾病ではナイ。無意識のエネルギーは波動方程式(状態ベクトルに至らない・波束の収縮にはならない波)のまま、「混合状態」において作用素のfunction(変容)を受けることになる。これは逆行した表出(自らに向けてのoutput)だ。これが鬱疾患と称されるものだ。(この量子を、存在は確実なのに観測不能、という観点から、蓋然的に〈重力波〉としておく。これは鬱病の〈本質〉を波動で示せば蓋然的には重力波であると仮定したことになる)。
119・鬱病への対応(方法)は理屈で述べればそれほど難しいことではナイ。
〇〈夢〉や〈独り言〉のような(対自的・即自的)communicationを創出し(⇒同等のエネルギーを持つ重力波を創出し)これに依って、自身の「記憶」に自身の「認識の同一性」を重ねて状態ベクトルを創り出せばイイ。
〇無意識・鬱病のエネルギーに対して同等のエネルギーを以て「混合状態」から「純粋状態」への相転位で、状態ベクトルを創り出すか、逆にエネルギーの対消滅を謀ればイイ。これは(「表現=疎外」という定義・定式から)疎外に相当する「表現」を導けばイイということだ。
〇この〈魔法〉を何といおう。具体的に如何にしよう。そのための〈実験・実践〉の段階として、自らが自らに明確にcommunicate出来る表現(〈夢〉や〈独り言〉のような(対自的・即自的)communication)を探してみる。
〇ひとつには「手話」による「独り言」としてのcommunicationだ。
〇手話は明確にcommunication言語だが、他とチガウところは、その方法、手段にデジタル(像)とアナログ(音)の両義性を備えていることだ。これは独り言として特異だが、発語者(当事者)としては了解しやすいcommunicationだ。

以上、鬱病、鬱疾患への対応の私的な手段、試行の方法論理はここまでとなる。なんやかんや面倒な論理を展開してきた結果が「手話」とは、私自身おもいもしなかった。
「手話」が鬱病や鬱疾患の呪縛を解きほぐしてくれるのだろうか。ともかくはこれを実験の段階へと営為させるのが成り行きだ。

と、同時に、ぼちぼちになるが「乖離=同化」という命題を「演技論」と合わせての論理で検討してみたい。

2022年9月22日 (木)

last job revision 10

103~113

103・面倒くさいいいまわしになるが、「ほんらい表現、表出されるべく「言語」による「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて(表出=鬱疾患)された情況」とは、ほんらいの無意識のエネルギーの「超自我」によるcontrolが意味を持つという普通の流れが、/三点セットに対する「疎外」によって、〈了解〉させられた情況/といえる。
104・「103」でいう「疎外」が、inputであるのか、作用素であるのか、outputであるのかは、問題にしなくてイイ。可換的(どうでも交換が可能)だからだ。ただ、作用素から「固有状態」でoutputされた場合には、固有性には変わりはナイが、その作業においては〈本質〉が現れるということだけは、記憶しておいてイイ。
105・このうち「communication(伝達)」の齟齬については、鬱病に対してかなり多大な影響を有するようにおもわれる。何故なら、これは対他的な「言語」との関わりが強いからだ。ラカンが揶揄気味に述べた「言存在」はけっこうオモシロイのだ。「言語」の〈了解〉が主体-主格の〈存在〉に関わってくるからだ。これはフロイトの「云いマチガイ」と同等の迫力があるとおもわれる。
106・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」という〈了解〉の三点セットと「鬱病」「鬱疾患」についてもう少し探りを入れていくが、ここで、「communication(伝達)」に「独り言」という特異な形態も付け加えておきたい。
107・「独り言」は対自的、もしくは即自的なものだ。道を歩きながらブツブツと呟くものから、「日記」という文言に至るまで、語る相手を自分にしていることから、小説のように読者という他者の存在を対象にしたもの、誰か他者をimageしての独り言もあり、さらにいうなれば、フロイトの『夢判断』における〈夢〉も言語そのものではナイが、「独り言」の範疇に含めることが出来る。
108・フロイトの『夢判断』を読んだかなりむかし、途中で嫌気がさしたことが思い出される。おそらくその理由は、当事者の夢に登場する事物、事柄をフロイトが何かにどうしても〈対応〉させようとしていることについての、精神分析的介入が鬱陶しかったのだとおもわれる。カール・ポパーのフロイトに対する「似非科学」というレッテルもまた、こういった聞きての一方的解釈が「反批判」を許容しない方法論だったからにチガイナイ。
109・「独り言」は「communication(伝達)」に含まれる対自的、即自的なものだが、「夢」などはあきらかに他人のためにみているものではナイ。その点では極めて即自的な営為だ。
110・ついでだから、フロイトの「夢」についての解釈を拾っておく。
/夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。/
111・ここに何気なく「記憶」が顔を出している。「夢」が「記憶」から引き出されるものなのかどうかの判断は留意して、「110」を私なりに加筆・修正してみると次のようになる。
/夢の素材には記憶も当然であるが含まれる。夢が虚構であるのなら、記憶という現実が必要だからだ。どの現実を選択するか、その選択方法は意識的なものではなく無意識的である。無意識的である以上そこには「抑圧」の力が加わっており、一見すると乱雑な夢の内容は無意識に基づいた力の発散、放逐であり、統合性という合理をデコンストラクション(既存の枠組みや体系を解体し、新たに構築し直すこと)によって、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な苦渋を希釈させるものである。それは無意識の消費による心的再生産であると考えることができる/。
112・「夢」が「独り言」のcategoryだとすると、それは多大なエネルギーを持った無意識であり、逆にたどれば、「独り言」は現実世界においては意識的にimageを再生させる力を持っている。
113・この営為、構造で/「独り言」の力を量子力学的に述べれば、それは「自らに自らを重ね合わせる」状態ベクトル/だといえる。

2022年9月21日 (水)

last job revision 9

93~102

93・この表出が具体的には、身体的、精神的な苦痛、苦難をともなう状況のことであり、もとより人体という自然が、身体性としても精神性としても、そういう「疎外」(作用素、あるいは固有状態)に対応出来るmechanismを「本質」として持ち得ていないからだとおもわれる。
94・この命題(仮説)(「93」)において、/言語が言語として表現され得ない/とは、当人にとってどういうことの(何の)因果で生ずることなのだろうか。
95・「無意識を意識化して表現」するその表現は何のための営為なのか。ここにきて、私たちは「communication(伝達)」という鬱病、鬱疾患に対するまったくチガッタ視点、視向、観点、試行に辿り着いてもよさそうだ。つまり鬱病、鬱疾患の「了解」だ。
96・交互の「communication(伝達)」を情報の交換として限っていえば、そこに含まれて取り沙汰されるのは各自の「記憶」と、相互の「認識の同一性」だとおもわれる。
97・「無意識」という領域(スキーム)には「記憶」が存在して当然のことだが、「意識」にとってそれは「忘却」ということになる。「記憶から一旦消されたのだが、〈無意識〉はそれを「記憶」している」というワケだ。(もちろん心身の何処にそんな場所があるのか、いわゆる外的、内的、心的、環界、どこに在ったって、あるいは、在るとおもっているだけのものであっても、特に差異、支障はナイ。ここでは仏教の「毒矢の譬え」と同じように、何故、無意識が存在しているのかは一義的なことではナイ。存在しているという事実だけが重要なのだ)。
98・「認識の同一性」になると、対他的な双方に、同じように存在するのかどうかはまったく不明瞭だ。それでも言語(や、それに類似したもの)が通じれば、おおむね普遍的にcommunicationを保つことは出来る。弁証法では「対立物の相互浸透」と称されるが、まったくの「同一」でなくとも双方の〈了解〉に至ればイイのだから。(もちろん誤解のままと、いうものもあるだろう。しかし、それはそれで〈伝達〉にはチガイナイ)。この部分については哲学において多数の意見、異議、解釈があるのだが、ここでは「97」を拡張活用して論じないでおく。
99・鬱病、鬱疾患に「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットが「視点・視向・観点・試行・情報」として、介入、滑り込んでいく。それは直観としか云いようがナイのだが、この直観(直感)は手放さないほうがイイとおもわれる。
100・この論考のハナ(初頭)に示した定義めいたものをおもいだしつつ、三点セットを置換してみる。「鬱病とは、ほんらい表出されるべき〈モノ〉が内外に疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう。この〈モノ〉を鬱病における鬱疾患と名付けておく」と、だいたいこのようなものだったが、そこで、この〈モノ〉を「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットで置換してみる。すると「鬱病とは、ほんらい表出されるべき「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」というふうになる。
101・さらに「92」における、「鬱病、鬱疾患とは、言語が言語として表現されずに表出されたときの疎外である」の、ここにも同じことをヤッてみると「鬱病、鬱疾患とは、「communication(伝達)」「記憶・記録」「認識の同一性」が表現されずに内外に疎外されて表出された〈モノ〉である」になる。
102・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットをこの場合、鬱病、鬱疾患の〈了解〉と呼んで差し支えナイ。

2022年9月20日 (火)

last job revision 8

78~92

78・抑圧されていたエネルギーが、本来的には言語表出されるべきとき、作用素において作用なきまま(「固有状態」のまま)表出されようと試みられたら、無意識のエネルギーを統べる「超自我」は、別のどんな手段を選ぶのか。その選択肢の中には、本来的な言語変換のためにさらなる「抑圧」を加えるという手段を以て「固有状態」を拒む確率もあるはずだ。
79・そのような無意識へのさらなる抑圧は、表現という意識的な表出を拒んでの「意識へのさらなる抑圧」とは別の「固有状態・表現」とに「無意識的」に変容する確率もある。
80・あるいはそれは「抑圧」された無意識下のエネルギーが、意識的に表現されずに、そのまま作用素に留まることになる場合もある。これは蓄積といいなおしてもイイ。
81・単にimageとして示せば、これは量子の活動状態が作用素において「混合状態」のままに留まるということになる。
82・量子の活動状態の領域が「混合状態」にある場合、波動は収束せず「重なり合わないままの状態」で、いわば無分別に右往左往、成り行き任せに動き回ることになる(ようにみえるのはあくまでニュートン力学の認識から量子の運動を観察しているからなのだが)。
83・「82」のような「状態」になった場合、「outputされた表現」は(「77」のような)状態になる。-固有状態としてinputされたときと同じ固有状態がoutputされる-。
84・定義(定式)上「表現され得ずして疎外されることはナイ」ので、「混合状態」でエネルギーがそのまま「意識による抑圧でより強い状態」となったとき、outputされたものは、無意識→(超自我のcontrolによる)意識→表現=疎外ではなく、無意識は意識された表現になり得ないまま、無意識→無意識=疎外としてoutputされたものになる。
85・outputされたモノの向き(ベクトル)は、作用素の影響が無く、超自我でcontrolされていないので、「外向き(対他的)」にも「内向き(対自的・即時的)」にもなるという確率を残す。
86・このような場合の量子が現実存在として何かに該当するのか、これは知る限りにおいて「重力量子・重力波」に該る、と仮定することが出来る。
87・これは試みに「四つの力」のうちで最も弱い「力」を充ててみたということだけなのだが意外にこれが都合がイイのだ。(「作用素」における影響が「力」の大きさの点から少ないであろうという推測から、つまり都合がイイので充ててみたというのがほんとうのところなのだけど)。
88・状態ベクトルが不完全な(収束しない)ままoutputされることが起きるということ、「起きるべきは起こるべくして起きる」は、量子力学的には確率としてあり得るとする。
89・極論すれば、疎外が表現ではなく疎外のままで作用素(function)からoutputされる。あるいは通過する。あるいは逆行すらすることも確率としてはあり得ることになる。
90・以上が、量子力学的には厳密に正しくはナイとしても(だいたい量子力学のことなど現在時点はほとんどワカラナイままだもんですので、私も私にワカル限りで思考しております)、具体的(現実的)に、言語が言語として表現されずに表出するという現象を私たちは経験している(或いは垣間見ている)。
91・およそ「鬱病」の表出としての「鬱疾患」とは、そのような現象(あるいは形態)にみえる。(また当人にとっては感覚される)。
92・とりあえずまとめてみれば、「鬱病、鬱疾患とは、言語が言語として表現されずに表出してしまった(表現された)ときに受ける疎外」である。(この場合の表現は対自的、対他的、さらには即自的をも含むだろう)。

2022年9月19日 (月)

last job revision 7

69~77

69・マルクスは『資本論-〔第1篇 商品と貨幣〕』において、労働で造られた商品や素材に二つの価値形態を設け、それを左辺、右辺に分け、双方の価値形態(たとえば、リンネルや、一着の上着や、石鹸や、小麦)を「=(等号)」で結んで、そこから「貨幣」という商品が何であるかを炙り出す(導き出す)のだが、この場合、「=」が数学的に何を示しているかについての説明は一切ナイ。また何れの場合の右辺と左辺の関係も単純にこの記号「=」で示している。これは杜撰という他ナイ。(たぶん『資本論』の欠陥はここにある。蛇足ながら、2022年現在世間を騒がせているQ統一教会(勝共連合)のテキストにおける共産主義への批判は、誰の著作かは不明だが、わりと緻密に共産主義は正しいが人間には無理だと説いている。マルクスについては「暴力革命」を是としつつ帰納的に共産主義革命を目指したのが失敗だと、その失敗の要因も示している。Q統一教会関係議員は与野党ともに、いいわけや選挙の票読み以外に、「因果応報」「自縄自縛」について黙考してみることだ。さて、しかしながらこのanti-communismの労作textも「貨幣」においては、単に「価値」の比較を批判しているだけで、「価値形態」の「形態」を無視しているところに欠点がみられる。労働においても「労働」と〈労働力〉の判別はつけていないようだ。この点については、日本の『資本論』批判、間違い論者、の多くがそうだ。それはアインシュタイン「相対性理論」批判をするときに、知らずにか、こっそりとか、ニュートン力学を持ち込んでいることと相似している)。-詳細は拙著『恋愛的演劇論』で「演技」と〈演技力〉はチガウと論じているところを参照-どうも、齢七十をこえてからaggressiveの度合いが強くなってきている。これは国政の阿呆ぶりに比例しているようだ。本筋、本論に戻る。
70・Hysterieを疾病ではない現象(蓋然的には情況でもイイ)として捉え、それを定式である「表現=疎外」に当てはめれば、Hysterieは何らかの表現だと代替することが出来る。つまり「Hysterie=疎外」である。
71・「表現」として表出するものは「疎外」と「=」になる。この場合の「=」は使用価値や交換価値が「同じ」というものではナイ。双方の労働に費やされた時間が同等ということでもナイ。もちろん価格でもナイ。ここでの「=」はほんとうは「形態」に充てられるべきものだ。或いはこの「=」の意味は「表現されたモノは表現した当人に同等の疎外を与える」と読むのが妥当だろう。
72・ここで哲学や医学からも逸れて、Hysterieという現象は(「疎外」なんだから)「表現」だとしてみる。ただし、「無意識のエネルギー」のままでの「固有状態」の放出である、は固守しておく。
73・まずそれ(Hysterie)は言語とはチガッテ、身体的「表出」による表現に近似する。それが言語による放出であっても、言語という「系(system)」からはおそらく逸脱しているとおもえるからだ。
74・言語が「無意識を意識化するための手段である」ならば、言語系から逸脱したHysterieという「形態」は「無意識というエネルギーの意識的な表現」であるのか。
75・そうではなく、Hysterieなどの身体系現出は「言語され得ないものの表現」、つまり「固有状態」である限り「無意識の無意識」的な表出ということになる。それは「言語によって表出(或いは表現に昇華したとして)されるべきものが、言語以外という現象のままで表出された表現」ということになる。
76・これは「固有状態」であるのだから、いいかえれば、言語系で表現されるはずのものが、身体系的に表現されてしまっただけで、「本質」に変容はナイ。というか、Hysterieには「本質」の残存だけが現れる、ということになる。
76・さらにいいかえれば、Hysterieは、その最も弱い表現「云いマチガイ」が身体系的に拡張されて表出された「形態」ということになる。誰がHysterieを正しい形態とおもうか。なんやかんや云うても「マチガイ」には変わりない。こういう悟性的な論理にケチをつけられても当方は対応出来ない。よって無視する。
77・つまり「Hysterieとは身体系な云いマチガイ」といえる。従ってそれは「無意識」に在る「固有状態」であり、ゆえに「本質」を担っている。このシステムはこう書き換えられる。「表現(ここでは例としてHysterieという固有状態)のinput→作用素(ここでは〈疎外〉という固有状態)→output(ここでは本質をともなった固有状態のままの表現)」

2022年9月18日 (日)

last job revision 6

64~68

64・フロイトが「無意識のエネルギー=リビドー」を感知、察知、体験的に発見したのは女性のヒステリー発作の原因を治療(research)している途上においてだ。ここで私が興味を引かれるのは彼の発見(research)そのものより、Hysterieというものが、「~が起きる」「~を起こす」という述語を伴うということだ。
65・この場合の「起きる・起こす」を用いた文節で有名なものを一つ挙げる。「Que Sera Sera」。訳すと「起きるべきことは起こるべくして起きる」。ヒッチコックの名作映画『知りすぎた男』でドリス・ディが歌った「ケ・セラ・セラ」の「なるようになる」という訳は意訳である。というよりこの言語「Que Sera Sera」は映画用に創られた造語で、どこの国のどの地方のコトバとしても存在しない。(1954年の映画『The Barefoot Contessa(裸足の伯爵夫人)』こっちも佳作だが、物語のコンテンツとしては家訓として用いられている)。
66・さて、「疎外」だが、とりあえず「疎外」の意味を哲学(マルクスの自然哲学・経済学)でresearchすると「人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が、逆に人間を支配するような力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう」となる。この状態は云いなおせば「自分が自分でありながら、その自分のせいで自分のおもいどおりにいかぬこと」となる。(付記しておけば、シッダルータ=釈迦の出家の因となる疑問、疑義はそこにあった。ただし、何故おもいどおりにいかないのだろうではなく、おもいどおりにいかないと、何故、ヒトはこれほどまでに苦しむのだろう、というシッダルータの自問の普遍性である)。「起きるべきことは起こるべくして起きる」という多少、因果論めいた意味づけは「おもいどおりにいかない」とは逆のようにも読める。前者「おもいどおりにいかない」は主体が鮮明(当人・自身)だが、後者は主格が無い。いわば前者は自己災厄だが、後者は自然災害のようにも読める。
67・主語と述語を「分けることが出来ない」ものとしての了解は一休禅師のいう、ヒトの存在はほんらい「無漏(:むろ 仏教用語 漏泄する不浄なものが尽きていること。けがれがない,煩悩がないこと」であるということも示している。おそらく一休禅師の場合は、この場合の作用素を「純粋状態(量子力学において、状態ベクトル(重ね合わせ)の生じる状態であり、これに反して「混合状態」では状態ベクトルは起こらない。波動関数(シュレーディンガー方程式)も通用するのは「混合状態」までで、ここでシュレーディンガーは有名な「シュレーディンガーの猫」という矛盾命題を残して、量子力学からは遠ざかった。しかしながら彼の講義「生命とは何か」は人間が扱えるのは分子までだとしながらも、それは「分子生物学」の門を開くことになる)」において論じているので、「人間があるべき自己の本質を失う状態」とは解釈していない。
68・マルクスの「疎外論」での「表現=疎外」における価値形態の等号は、作用素においてoutputされた「情況」ではなく「本質」に位置づけられる。いうなれば何れも「固有状態」である。

2022年9月17日 (土)

last job revision 5

56~63

56・ここで例えば「無意識」や「疎外」を入力(input)しても、同様に作用素に「無意識」「疎外」を設定しても、同じことになる。出力(output)は「固有状態」なのだ。
57・ちなみに「作用素」(またはその代替)として、ナニかを設置すれば、鬱病、鬱疾患が、薬理や医療の作用を受けず、その「状態=本質」のまま変換された「現象」として姿をみせるのか。そのナニかが解れば鬱病、鬱疾患の本質に近づけるかも知れない。
58・ここで「作用素」を外してみる(通過させない)という試みは論理的にも実践営為としても何の意味も持たない。Inputとoutputという営為がなくなれば、「何もしない」のと同意だからだ。
59・フロイト-マルクス路線にもどっての、鬱病、鬱疾患の検証をつづけたいのは山々(やまやま-副詞・ぜひ、そうしたいという思い)だが、少々「現象」と「状況」・「情況」について整理しておく。
60・「現象」も「情況」「状況」も時間的、空間的な要素を度外視すれば「状態」であることにかわりはナイ。対応させてみると「現象」とは主体の「表現」を含み、「状況」は単に「事象」であり、「情況」は普遍的感覚を含む。下記、例で示すと、
「本日の天気は、気持ちよく澄み渡ったさわやかな秋晴れです」⇒これは、〈澄み渡った〉〈さわやかな〉〈秋晴れ〉という主体の表現(心情・主観)が含まれるので「現象」。ただし、このコトバを天気ニュースのアナウンサーが放送したのと、ピクニックにやって来た家族の誰かが云ったのではチガウという「横やり」は正鵠ではナイ。そういうのは単に「ケチ(金品を惜しがって出さない吝嗇-りんしょく-ではなく、細かいことに執着して、みみっちい「怪事(けじ)」が訛ったほうの意)」をつけている程度のクレームとして無視すればイイだけのことだ。「本日の天気は、晴れです」と、これが単なる事象の「状況」でここに普遍的感覚用語としての「秋晴れ」を付すると⇒「本日の天気は秋晴れです」という「情況」になる。⇒「本日は気持ちよく晴れています」も同じ程度のものとおもってイイ。(ただし、クリシェ(フランス語cliché:決まり文句、常套句)になっている文節は区別しにくいので、たとえば-いつもお元気ですね-とか、-今年の風邪は胃腸に来るらしいです-などは、まさにその例で、どの範疇でcommunicationされているのかは判別がつきにくい。(何度もいうように、だからウィトくんの言語論は役に立たないことが多いのだ)。
61・「固有状態」では、主体の表現はどうなるのか。「風が吹いている感じです」などは、蓋然的に「情況」を示している。何故なら、感覚体験と表現との境が曖昧だからだ。この感覚の度合いが常に表現されるものなら、それは〈本質〉に含まれて然るべきだが、それがクリシェなのか〈本質〉なのかは、主体→主格(つまり「格」ですな)に由来しなければならない。よって、ソシュールやウィトくんはこのあたりで、「語り言語」が「文字言語」より優位であることに鼻を高くするのだが、昔の新劇の赤毛に付け鼻の芝居じゃあるまいし、この辺りも無視。
62・「気持ちよく澄み渡ったさわやかな秋晴れです」は「現象」だが、天気の〈本質〉というものではナイ。あくまで主観表現である。すると「現象」は「固有状態」といえるのか。
63・鬱病、鬱疾患が作用素においてはナンの作用も受用しない「固有状態」だとすれば、私たちはここで矛盾に突き当たる。鬱病、鬱疾患の「固有状態」における「現象・情況・情況」つまり主観表現の線引き、振り分けに足踏みするしか術はなくなる。私は「現象」=主観表現は「固有状態」であるといってよいし、逆に「固有状態」ではナイoutputといってもよいとする。つまり「分けない」。

2022年9月16日 (金)

last job revision 4

38~55

38・ジャック・ラカンはハイデガーの〈現存在〉の向こうを張って人間の存在を〈言存在〉と定義している。ヒトによる言語の発明(発生)は進化の過程による〈大脳化〉(今西錦司進化論の中の今西老師による造語)から得られたものだからだ。
39・フロイトは宗教については、幼年時代に端を発する苦悩が疾病の発症となる、と解釈したが、ラカンは1950年代までカトリックの熱烈な信者であった(という伝承がある)。1960年代になるとカトリックに疑問を持ち始め、1975年あたりから再びカトリックへの信仰に戻ったのではないかという(不確定な伝承がある)。これをどう解釈するかは、解釈する側の〈権利〉ではあるが、差し当たって私の好奇心の赴くところではナイ。
40・「全ての」というワケではもちろんナイが、言語にはある程度の曖昧さや、明確な云いマチガイが含まれている。この点について私は不勉強ではあるが、ソシュールやウィトゲンシュタインの「発語」のみにおける言語学の欠陥として、単に「一対一対応」を基にした言語学は演劇には不向きだと拙作(『恋愛的演劇論』)で述べておいた。
41・演劇の発語は「せりふ」であるが、「沈黙」という言語(同様に扱われる表出、表現)も存在する。相対するもののdialogueにおける両者それぞれの「沈黙」は、音声として発せられないだけで、フロイトふうに述べればその「沈黙」は「無意識」に存在する抑圧されたエネルギーと同似性になっている。
42・発せられるから意識的で、発せられないから無意識のままであるという分け方もしない。(こういう場合、演劇にはト書きという便利な方法がある)。
43・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)と無意識には密接な関係がある」「言語は無意識を意識するための手段である」を念頭において「2・鬱病とは、ほんらい表出されるべき〈モノ〉が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」を「詩作」と「鬱病」における鬱疾患でかんがえてみる。
44・「詩作」は意識的な云いマチガイの美的な表現といえる。たとえば東京のことを「灰色の空の下の人々、彼らの吐息だけしかない空気」と表現すれば、この意識的な「創作」は意識的な云いマチガイだ。喩や広域的な副詞的修飾で東京のことがそう云えれば、それは無意識の欲働エネルギーの美的な表現だっといって差し支えナイ。それは作用素によって正常にoutputされた例だろう。
45・こと鬱病、鬱疾患においては、その欲働エネルギーの表現が正統(正常)に行われない。欲働のエネルギーは意識的にではなく、無意識のまま「云いマチガイ」される。そうしてその「云いマチガイ」は発語だけではなく、身体的作動としても行われる。それは〈痛感〉であり、〈呼吸苦悶〉であり、そういった内部に向けての〈だるさ・易労感〉という具体性(病態)として表出する。これが「ほんらい表出されるべきでナイ〈疎外〉された表現」だが、何れにせよ「表現=疎外」という定式にチガイはナイ。
46・では、何故、ナニがそういった「表現=疎外」が、意識的に表現されず(無意識のままの疎外された)カタチで表出するのか。
47・量子力学においては作用素(function)-入力されたものを出力に変換する機関、装置、計算式、法則、et cetera-の出力が必ず変換されて出力するとは限らない。入力したものと作用素が同じになる場合がある。それを「固有状態」(そのもの特有の状態)と称する。たとえば、波動関数(シュレーディンガー方程式)や量子それ自体などの場合がそうだ。
48・作用素が作用して、原因→作用素→結果というカタチになるのはニュートン力学の場合(順序)だけで、量子力学においてはこの順序は当てはまらない。
49・「固有状態」とは、先述したように、固有つまり特殊、他にはナイそれ自体の「状態」である。
50・「状態」とはそれが「モノ・物質」ではナイことを意味する。「状態」にも変容する第四物質、プラズマにあっても作用素においては変換される「物質」である。
51・「固有状態」は、入力と出力が同じであることからその「本質」に関係すると見做される。
52・作用素(function)に入力した〈モノ〉がそのまま「固有状態」として出力された場合、それは、作用は起こらず「本質」だけが「固有状態」として残されるということである。
53・「無意識」を作用素に入力して、それが「無意識」のまま出力されるとする。それは〈無意識の本質〉だけを担っている。つまり「無意識」は/作用素「超自我」/によってコントロールされながら、「固有状態」の〈本質〉だけを残したまま出力されるという理屈になる。
54・と、このような(いきなり量子力学への)飛躍、跳躍は許されるべきだろうか。
55・などと、カッコつけて留意しつつも、いま少しこの〈オイシソウ〉な発想(inspiration)を追っかけることにしてみる。

2022年9月15日 (木)

last job revision 3

25~37

29・「示唆的(しさてき・それが明示されているわけではないが、指し示されているかのような様子を表す)な言い損ない(云いマチガイ)と無意識には密接な関係がある」というフロイトの提唱はヒジョウに興味深いものだ。ことは〈表出〉についてだからだ。
30・ついでながら「表出」と「表現」ついてのチガイ、使い分けを述べておく。
表出:外部に現れる様態ないしスタイルをいう。たとえば、ある講演者が壇上で講演する場合、伝達を意図する内容や主題ではなく、その際彼がどのようなしぐさをするか、話し声は高いか低いか、しゃべる速さが速いか遅いか、体はやせて背丈は高いか、どんな服をどんなふうに着ているか、あるいはボードにどんな筆跡の字を書くか、などこれらのすべてのようすをいう→表出的側面ともいう。日本第百科全書(より抜粋・改)
表現:前記の表出における領域(スキーム)に類するが、そこからの縛りは受けない。たとえば、じっとしていようが、黙っていようが、ひとりでは動けない肢体不自由者が舞台上に寝転がっていようが、当事者に表現の意思-他者に対する提示、演技の欲求-があれば、これを表現といってイイ(私の定義)。
31・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)」は、無意識からの表出だ。と、フロイトは喝破する。
32・「31」あたりのことをウィトゲンシュタイン言語理論では説明出来ない(私の愚考をおそれずに述べるならば)「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)」は、「写像」出来ない。何故ならその「逆写像」は言語化出来ないからだ。要するにウィトゲンシュタイン言語学(前記の『論考』は、世界と言語の写像を基底にして成り立っていると私は誤読している。よって彼の著書『論考』の幕引きが「語り得ぬものには沈黙を」になってもしかたがナイ。だが、「劇」は、その「写像」出来ぬものへの「沈黙」から始まる。「語り得ぬものを如何に語るか」が演劇の言語(或いは表現)である。従って、『論考』の/これらの問題はすべて人々の言語使用の混乱から生じたものにほかならない。つまり、昔から哲学の領域でなされてきた大半の議論は、言語が従っている論理について人々が十分な見通しをもっていないがゆえに延々と続けられてきた、全く無意味な問いと答えの応酬にすぎない/という命題は、演劇においては成立しない。何故ならば/人々が十分な見通しをもっていないがゆえに延々と続けられていく、全く無意味な問いと答えの応酬/それこそが演劇のオモシロさ、醍醐味、観どころ、ゴケミドロだから。要するに私がウィトくんに不満なのは、鬱病、鬱疾患は「写像出来ない」という結論が導き出されそうだからだ。ここで「沈黙」されちゃたまらない。「語り得ぬものには沈黙を」という一種のトートロジーは、ここには持ち込まない。後期の彼の主張『言語ゲーム』に至っては「いわずもがな」としか評価しようがナイ。そうであってもなくてもどっちでもイイとしか感想はナイ。どうも、ウィトくんは言語というものを「発語」の状態から思案していて、言語自体の発生過程(何故、言語というものがヒトに生まれたのか)については無視しているようにしか私にはおもえない。言語はカント哲学で述べられているような、アンチノミー(ここでは先験的、空気や時間)のようなものではナイ。ヒトが創出したものだ。(発生過程についての私のかんがえは『恋愛的演劇論』に書いたあ~る)
33・私の友人で詐欺(の癖)が仇になって逃亡し、消息不明の者がいるのだが、彼の言い損ない(云いマチガイ)は、きわめて明確なものだった。たとえば、事務所で「トイレに行きたいのだけど、靴下貸してもらえるかな」「昼飯の買い物に行くのに自転車が借りたいのだけど、抽斗はどこにあるのかな」といったふうに。(前者はトイレの場所を訊いている。後者は自転車か或いは自転車のkeyについて訊いている)。これをどう「写像」し「逆写像」させるのか。こういうのは「ゲーム」にはならへんやろ。
34・「33」のようなコトバ=表出は、云いマチガイの表現なのだが、フロイト以前の哲学者たちは言語を意識的表出による表現として扱っていた。つまり内在する思考を外に表出させる道具(デカルト)や内在思考の構築(ルソー、ヘーゲル)のように。ソシュールやウィトゲンシュタインになると、それは内在する思考を外的なものと対応させる手段になる。よってどうしても発語と外的事物との対応が必要になる。
35・しかしフロイトは言語を「無意識を意識するための手段である」と定義した。云い方をかえれば内在する思考ではなく、潜在する思考、になる。それは、非言語=無意識を、もがきつつコトバ=意識にしようとする手段である。
36・有名な『夢判断』においては、夢の記憶を当事者に語らせるのだが、それが不正確なものであっても構わないとフロイトはいいきっている。夢などではナイ当事者のその場の思いつきの創作であっても構わないとしている。何れにしても当事者が〈無意識〉を意識化しようとしている営為だからだ。
37・フロイトにとって言語化するということは、無意識へのアクセスなのだ。従って、世界の何がその無意識に対応するか、あるいはその在・非在は問題ではナイ。

2022年9月14日 (水)

last job revision 2

15~28

15・フロイトの最大の功績は、〈意識〉〈無意識〉という概念を理論的に整理したことである。(つまりその発見者というのではナイ)。ジグムント・フロイト(英語読みはフロイド)の業績を、私なりに簡単に述べておく。
16・「抑圧された欲働は生命エネルギーの根源となっている」。これは、人間の行動のエネルギーの源泉を物理学の第一法則の如く探求していく過程においてのinspirationだとおもわれる。(エネルギーを探求のはふつう物理学なのだが、エネルギーという概念、コトバは副詞的、比喩、文学的とやらに使われる。フロイトは精神エネルギーを概念的ではあるが、力学的、物理学的に考察したとおもわれる。(やや私のドクサでもありますが)
17・彼は「欲働のエネルギー」の存在するところを〈無意識領域=エス〉と名付けた。
18・〈無意識領域=エス〉をcontrol(統べるもの)を「超自我」と名付けた。
19・〈無意識領域=エス〉のcontrolの方法として、「超自我」は〈抑圧〉を選んだ。(理由はワカラナイ)
20・「超自我」の〈抑圧〉による〈無意識領域=エス〉によって生ずる心的領域を「自我」と定義した。(この場合の〈心的〉とは吉本老師の『心的現象論』での用語(自己表出と指示表出)であり、心理学とは無縁である)
21・従って「自我」は〈無意識領域=エス〉と、「超自我」のcontrolによるひとつの現象である。よって、それは〈無意識〉や〈意識〉同様に、身体的なものでも精神的なものでもナイ(或いは、ものでもアル)。いわば両者の関係の確率度による〈現象〉だ。
22・「自我」は精神現象であるから、当然マルクスの自然哲学における「疎外」に晒される。このマルクスによる「疎外」が、フロイトにおける「精神分析」に大きく影響しているのは理の当然といえる。
23・フロイトは「17」~「22」(無意識の存在)の査証を「リビドー(性的欲働)」を用いて論理化するのだが、この類例があたかも量子力学の法則が(当初「不確定性原理」と称されて量子力学の原理と誤解された)「不確定性関係」そのもののように誤解された如く、フロイト精神分析理論の神髄と見誤れ、すべての精神、神経障害は「性的欲働」に要因を持つと収斂されるかのような誤解を生じることになる。
24・こうした誤解はカール・ポパーによって、さらに膨張(拡張)する(横やりが入る)。すなわちポパーお得意の、「反批判出来ないものは科学ではナイ」のだから、他人さまのオメコ(→ほんらいは宮中、殿上人用語で、性器、性行為を示した。畿内、京都、関西圏でこの用語が多用されているのはそのため)のように各人各様の趣味趣向などにいちいち反論出来るかということになる。ポパーによると、反論の余地が無い個人の「性欲働」を基底にしているフロイト精神分析理論は科学ではナイということになる。ポパーの信奉者は「科学哲学」派という新興宗教的intelligentsiyaに多いのだが(あくまで憶測、私見の域を出ない)ポパー批判はひと言で足りる。曰く「あらゆるものに反批判出来るほど未だ科学は進歩していない」(これはおそらく雰囲気からして、ウィトゲンシュタインが述べたのだろう。そのため、彼はすぐにカッとなるポパーにストーブの火カキ棒で殴られたという逸話がある(半ば伝聞)。
25・しかし「何でもリビドーかよ」という皮肉は若いころ、たくさん聞いた。私はその「リビドー」というコトバすら知らなかった。(力道山というプロレスラーが当時、人気があったが、これを「リビドー山」という役名にして舞台の登場人物にしたことはある。この役者、本番当日tightsを忘れてきてパッチ姿で演じた。が、これが逆に客受けした。そんな時代でしたナ)
26・ジャック・ラカンは、「じゃあ、こうしよう。性欲働を人間はどういうふうに手に入れていくのかを科学的にかんがえるところから始めようじゃないか」と哲学者を挑発したのではないだろうか。(に、してもこのひと、ラカンさんのホンは難しくて立ち読み出来ない。買う銭もナイ)。ラカンはフロイトに還れ、を提唱するのだが、その理論の難解さと女にもてた(のか口説き上手だったのか)ことでも知られている。ところが、その理論の中で数学を援用したところ、ここぞとばかりに数学者から「ラカンの数学はマチガイである」と叩かれて(たぶん叩いたこの数学者はモテなかったんだろうな)、ラカンの理論ではなく、いまやラカン論のほうが多く書店に並んでいる。そういう書店も殆どいまは無いのだけど。(もったいないハナシや。エラーなら量子コンピュータも多くやらかすことで有名である)私としては、ラカンはなんやスピノザみたいやなあという感触だけは持っている。なんつうか、senseというか、発想のイキナリの鋭さ、白昼のknife(けして暗闇からではナイ。それと、クニフェと読んではイケナイ)の煌きを感じる。
27・「数学」と「数学的思考」はチガウのだと論を開いてもイイが、私自身数学は苦手なので数ⅡBまでしかワカラナイ。自燈明 自燈明。ハナシをもどす。
28・しかし元中日ドラゴンズの落合博満さんなんかは、数Ⅰか数ⅡAなんじゃないかな。「1対0でも、10対9でも、たとえ、100対0でも勝ちは勝ち、負けは負け」とかなんとかの名言がある。そのとおりです。outputだけ観ていれば、野球は簡単で楽しい。とはいえ落合監督がが観ていたのは、inputなのだろう。

2022年9月13日 (火)

last job revision 1

試論 鬱病(鬱疾患)とはなにか=(命題としての提示・論旨、というより、こう考えおもいつつたどりついた現在)

☆現在も45年前も抗鬱剤は数多出現したが、鬱病がなんであるかは未だに医学的にワカッテいない。まず、私なりの希望着地点を定義しておく
1・鬱病とは、精神的な疾病でもなく、身体的な疾病でもない、よって疾病ではない。
2・鬱病とは「ほんらい表出されるべき〈モノ〉」が「表出されないで残存、蓄積されるか疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」。
3・鬱疾患とは鬱病の「表出」として捉えられるあらゆるものを含み、(病態と称されるモノ・痛感、嘔吐感、易疲労など)、「表出以外」としてとらえられるあらゆるもの(病態とはいえないモノ、自殺・自傷・不安・不眠など)を含む。

4・ここでいう「表現」とは、〈意識的〉領域なoutputを持つものであり、「表出」とは〈無意識的〉領域なoutputを持つものである。
5・これらのかんがえかたは量子ビットを用いた思考であり、重なりあったビット=量子ビットとして了解される(量子力学的には「状態ベクトル」のことである)。
6・この「重なり合ったビット」とは、「積み上げられた」としてもかまわないが、無限枚数のセル動画の重なり、音楽的には無限のトラックを持つ音源をimageしている。
7・ここでいう〈意識・無意識〉という用語は、フロイトに倣っている。
8・フロイトと弟子であった(理解者であった)カール・グスタフ・ユングとの決裂は、この〈意識・無意識〉領域の在り方を巡ってのことだ。と、その程度に理解しておいたほうが単純明快でイイ。
9・フロイトは意識と無意識は個別に存在するものではナイと、両者の対称性を述べたのに対してユングは独立して存在するという固別性に確執している。
10・フロイトからすれば、〈意識・無意識〉は物理学でいうエネルギーの第一法則からの転用、応用、援用であるから(よって対称性である)、固別の存在では有り得ない。つまりどちらか一方だけが存在するということは不可能である。
11・似たようなことは仏典でも「不二の法門」として、維摩経で述べられている。簡単にいえば「二つに分けてはいけないかんがえ」のことで、例の最たるものは「仏とヒト」だ。これを一休禅師は『般若心経』解読において、『無濾』とは大心であり小心はなんでも二つに分けてしまうが、ものごとは大心(二つに分けられるものではナイ)でかんがえるべしと説いている。数学では似た概念に〈収束点列〉がある。
12・私は〈意識・無意識〉領域の在り方においては、フロイトの流儀に倣うが、いわゆる唯物論者においてのこの〈意識・無意識〉の領域は脳、身体の何処にも存在が確定されないところから「観念の装置」というやや苦しいスキームとして捉えている。(私の学問の初心は三浦つとむ老師の唯物論的弁証法なので記しておく)
13・ユングの思想も量子ビットの一つとして扱う。つまり、「分けない」
14・量子ビット思考について、こう云っておけばイイとおもわれる。/量子ビットは、普通のビットとはチガッテ、「0であり、かつ1でもある」/。「これは量子は波でもあり粒子でもある」とする量子力学の量子に対する定義と同じことを基本的に用いているということだ。これを「重ねる」とするのは波の収束「状態ベクトル」と同じだということをいっている。

2022年9月11日 (日)

Sophism sonnet return 09

予告のようなもの

金曜日にお風呂を焚いて土曜日はお風呂に入る。たしか、ロシアの古い童謡『一週間』だったかな。ロシアの歌の旋律は歌いやすいので、テキトーに歌っていればイイ。テキトー歌っている。ロシアのピロシキの歌とか。ロシアもたぶん日本よりはマシな国だよ。
さて、九日の金曜日、Kさんが名古屋に来た。先週も来たのだが、scheduleがあわず今週になった。こりゃあ、いよいよ生活の逼迫、切羽も詰まって「銭」の相談かなと腹を括っていたが、そうでもなく、何やら忙しい近況の四方山なのだ。
年来の知己である劇作家から二人、同じ仕事の依頼が来た。「全集」を創ってもらいたいというのだ。Kさんは編集者だが、装丁までは出来ない。仕方なく絶縁していたMをひとまず赦した上で、一緒に仕事をしているという。「前借りがあるからこの全集、終りまで出さなアカンからなあ」、けして「先払い」とはいわない「前借り」という。こういうところが、稼業の表裏を生き抜いてきた者の証左なのよ。劇作家センセはまず「銭はあるんだ。健康だし、やっぱり全集だからハードカバーで、組みは一段、六分冊(六巻)でいきたい」と、銭はともかく健康と出版の関係がどう繋がるのかは私にはワカラナイ。ともかく豪語に近い構えで条件を並べたという。Mとはむかしからの馴染みの仕事仲間の製本屋が極めて良心的に見積もりを出す(ほぼ業界の半額程度になる)。そいつをKさんが劇作家センセにみせる。劇作家は豪語も健康も何処へやら、云う「ホンってこんなに高くつくのぉ」。で、「五巻にして、二段組みでもいいか。ハードカバーもまあ」なんてことになる。ぼんぼん育ちとはそんなもんです。小学生のときに栄養失調と診断された私なんかとはまるでチガウ。さらにこのセンセ、いま、戯曲の全集なんてものが〈売れる〉とおもってらっしゃって、売れないので「なんで売れないんだ」といつものごとくではあるが、憤慨激昂。「日本中の図書館が置いてくれればイイじゃないか」と、もう無理というより、なんというのか、コトバなし。
Mは変人というより、変態人なのだが、装丁の腕はイイ。のだが、二人目の劇作家センセイは社会派で、どういうワケかその手の方は何事にも一家言あって、装丁に対してのクレームが多い。表現を替えれば何事にも自分の意見を持ってらっしゃる。
さて、そこに今度は付き合いの長い評論家女史から「劇評を一冊のホンにしたいの」と注文が来た。Kさん断わるワケにはいかないので「まず、手持ちの資料があれば」と返信する。と、大きなダンボール箱に山盛り未整理の原稿が送られてきた。中には例の透明ファイルに入っているものもあるが、ファイルを取り出すと、ファイルのほうが(あのファイルですぜ)劣化のあまりに粉々になった。急いで仕分けバイトにマスクを買いに走らせた。整理するだけでも月単位じゃすまない仕事になりそうだ。つまり、みなさん遺品製作の御歳なのだ。
そんなこんなで、私は未発表のミステリなんかのペーパーブックス(むかし在った、ハヤカワ・ミステリとかハヤカワS.Fみたいなアレ)を依頼しようとおもっていたのだが、云い出しにくくなった。
ただ、「この全集を最後の仕事にしたくないんや」のひと言を聞いて、じゃあ、こっちは銭がナイので、自費出版ではなく売り上げ勝負にもっていけたらのつもりで、かつて、高校時代、スタイリッシュに持ち歩いたハヤカワのペーパーブックス。「いしい商店」の向こうをはって、依頼した。未完の小説も幾つか書き終えたいが、まともに仕事が出来るのもあと二年くらいだろうから、休み休みではあるがあまりのんびりしていられない七十代の仕事になる。

:さて、予告はここから。このブログで書いた鬱病と鬱疾患の論考(というより思考の痕跡)をかなり改訂(改稿)したので、次回あたりから、再度連載いたしますが、二度読むのは面倒な方はすっ飛ばしてけっこう。だいぶんにワカリヤスクしたつもりですので、今一度の方は、再度再読。よろしく。


2022年9月 1日 (木)

Sophism sonnet return 08

『シャレード』

バソコンの「マイピクチャー」ファイルには、UNICEFの機関誌のニュースの中の一枚、オードリー・ヘプバーンが子供を抱き抱えている白黒写真がコピペしてある。オードリーは子供の頃ユニセフに救われ、映画を引退した後、晩年はユニセフで働くことに費やされた。そのうちの一枚だ。
私のオードリー・ヘプバーン遍歴は変わっていて、最初に観たのが『暗くなるまで待って』という意味深なタイトルのサスペンス。中学生の頃か高校生になってからだったかは忘却した。それにオードリー・ヘップバーンのファンだったから観たというのではなく、そのsituationに引っ張られて観ただけで、これがなかなかの映画だった。(原題『 Wait Until Dark』は、1967年のアメリカ合衆国のサスペンス映画。出演はオードリー・ヘプバーンとアラン・アーキン、エフレム・ジンバリスト・Jr、監督はテレンス・ヤング。フレデリック・ノット(英語版)による同名戯曲を映画化した作品である。なお同戯曲の舞台初演は1966年だが、その初演の前からヘプバーン主演での映画化が決まっていた。盲目のヒロインをまったく盲目でナイように演ずるオードリーの盲目の演技は映画史上、伝説となるだろう)
次は『麗しのサブリナ』(1954年アメリカ公開)で、つまり、リアルタイムで観たものは全くナイ。これももともとは戯曲で、監督がビリー・ワイルダーだから観た。で、これもオードリー(お得意のというのか)オヤジ殺しの映画で、ボギーがコロっといかれるのだ。これをもとに、シス・カンパニーの「日本文学シアター」第一作「太宰治・グッドバイ」を書いて鶴屋南北賞を受賞したが、太宰さんのほうはデコっているだけで、本筋はサブリナである。
で、まあ、アカデミー賞 主演女優賞受賞の『ローマの休日』も観るには観たが、薄っぺらい絵本のような作品で、私はこの作品は買っていない。
さて、タイトルの『シャレード』だが、これはごく最近観て、えれえ衝撃を受け、すぐにアマゾンに入っていろいろ五本ばかり買い求めた。(『Charade』は、1963年のアメリカ映画。ユニバーサル・ピクチャーズ制作のロマンティック・サスペンス映画である。主演はケーリー・グラントとオードリー・ヘプバーン)。
なんで、何が衝撃だったのかよくワカラナカッタが、タイトルの『シャレード』の意味を調べてみて、やっと理解出来た。これは、脚本の手法を意味する用語なのだ。/<映像に映る“何か“を象徴として示すことで、言わんとする意味を伝達すること>。簡単に言えば、言葉でなく映像で語らせるということ。/
なるほど、このホンはそういう映画に撮れるように書かれてある。(しかし、せりふもイイのだ)。そうして、映画もそのように創られている。そうすることによってなのか、オードリーの演技、容姿、が他の作品とはずいぶんとチガウ。ドキドキさせるほど魅力的なのだ。(初めてストライクになって空振りした)と、おもったけど、チガウな。こっちはケーリー・グラント目線でオードリーを観てしまっている。グラントは当時53歳だから(オードリーは33歳)、いまなら70歳前後だ。ああ、オレも大人になったなあ。
しかし、オードリー・ヘプバーン、この世になく(1993年、スイスの自宅で「腹膜偽粘液腫」のために63歳で死去)、上岡龍太郎老師に「私の昭和は小坂一也の死とともに終わった」といわしめた、あの、永遠のboy's voiceにして、『不連続殺人事件』の巨勢博士、「北風」「ワゴン・マスター」「ライフルマン」のcountry-music singer、も、いまは風と一緒に何処へやら。
未練なんかねえな。つまらねえな。なんかオモシロイことやりたいな。

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