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2022年8月23日 (火)

Sophism sonnet return 06

さ、と、さ、の差

酒井順子さんの『うまれることば、しぬことば』をなんとか読了した。
なんとかというのは、この物書き(同業だから呼び捨て御免)、婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞を2004年に(というから、1966年生まれなんだから、38歳のときだな)受賞していて、かつ「コトバ」についてのエッセー(東京-中日新聞 ではこう書く)を書いている、に、しては、文章がだらだらしているので、simple is best派の私にしてみると、「よう、姐さん、もちっとハナシ早くなんねえの」になるのだが、あんまり関係ねえかも知れねえけど、「婦人」という「女が箒だからダメ」とかいわれている阿呆な攻撃にいまなお踏ん張っている婦人公論に、〇〇もの傾向が強い講談社の賞だから、「まあ、いいか」になるのだが、こういうことを書くと、最近のハラスメントの中では「ハラハラ」になるのではないだろうかどうかは問題にしない。(「ハラハラ」というのはもちろん、私の造語である。ハラハラするでしょ)
さて、subtitleの「さ、と、さ、の差」は民謡の合いの手ではもちろんナイ。なんか酒井さん、どこかで似たようものを読んだ記憶が、おっと、斎藤美奈子女史だ。最近ご無沙汰だけど、五年前くらいまでは次から次へとさかんに読んだ。で、お二人の「差」は何かというと、まず、酒井さんの場合、読んだアト、いわゆる「溜飲が下がる」という心情からはほど遠い。これはもう、経験や学習の「差」だな。つまり「芸がナイ」。(けして年齢の差、世代の差なんていわない。だって、そんなもの私、信じてナイので)。
次は、経験や学習の「差」だな。(おんなじじゃナイかって)あのな、「経験や学習」というのは、百鬼夜行なのだ。ここでは「毒がナイ」になる。「毒をもって毒を制す」。この「もって」を最近「盛って」だとおもっているヒトがいるんだな。それはそれでオモシロイけど。
ともかく帯の「ポリコレ時代の日本語論」というのには引っ繰り返ったナ。ワカルか「ポリコレ時代」。こういうことの正反対に本文中においては「横溢」とか「凌駕」とか「ジリ貧」に「命運」「嚆矢」「禍々しさ」「寿ぐ」「軛」「跋扈」250ペ.―ジ中50ページまでに、こういうの(って、まあ、そういうのや。聞いても読んでもワカランに分類されるようなものや)が出てくる出てくる。そこからもさらに出てくる。これって読者に対する、賊心、犯意、遺恨、害意、物恨、悪念、意地悪、害心、物恨み、毒気、邪気、悪意、憎さげ、なのか。著者は東京生まれとあるが、案外、京女だったりして。
このホン『うまれることば、しぬことば』の「ことば」の特徴は、それがほぼ日常会話(話し言葉・話体)であるということだ。つまり書かれていても、少なくとも「耳ことば」だからアナログになる。書き言葉は「目ことば」だからデジタルだ。この耳ことばというのは、加齢難聴の私のようなものには甚だ聞き違いが多くて困るのだが、目ことばも昨今、わからへんカタカナが多いのなんの(たとえば「ポリコレ」や。何度読んでもワカラン)そいつについて行くのもタイヘンだが、卑近なことを例にあげると、私の場合、私の話しコトバに「困る」ひと(たとえば役者さんに/駄目だし・本来は囲碁用語/するとき)も居て、「なんかね、焦燥を催すんだ」と隔靴掻痒(読めぬワカラヌなら辞書をひけ)な演技の感想を私が述べても、「そんなぁ、漢字で云われても」と役者さんに首を捻られる。(/しょーそーをもよおす/、/カッカソーヨー/、このコトバはまだ、しんでいないはずなんだけど。アナログにでも、デジタルにでも、「嫁葉は刈る」でしょ。「嫁葉は刈る」というのは、日本お伽話に出てくる、んなワケねえだろ)。「ミザンセーヌ」をここんとこ「ミザンスが良くない」なんて使われたりすることが演劇現場でもかなり浸透してきた。(元ネタはスタニスラフスキーなんだけど、スタさん、「後から書く」と云いつつけっきょくthroughしたまま)。最初は私も元ネタから当惑した。とはいえ最近の「ミザンス」の流布で、ああそうですかと了解した。しかしそれならちゃんと「位相と近傍」と云えばイイのだ。

:ともかく、斎藤美奈子女史や、呉智英センセなんかは芸も毒もあったなあ。演劇なんてのは猛毒だからなあ。そういうのには興味がナイ御仁には、酒井さんで充分でしょう。オレの芝居なんか観てもきっとツマンナイよ。 

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