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2022年8月18日 (木)

Sophism sonnet return 05

さらに、云うなら

/マルクスの理論は普遍的な真理ではなく、単なる時代的産物に過ぎなくなって、時代の変遷とともにいつかは廃棄されねばならぬ運命を背負っていたのである。その結果、マルクス思想は、その当時においてはだいたい適合するものであったが、今日に至っては、暫時歴史的遺物と化しつつある。/
と、これはまるでフーコーが語りそうなコトバであるが、前回と同じ『新しい共産主義批判』の著者による同書の「マルクスの人間性」の結びにあたる。著者は、マルクスのどこにも無慈悲や残忍性は見出せないとして、マルクスの共産主義の動機は人道主義的なものであったと見解している。ただ、革命の〈方法〉、即ち「暴力革命」からの演繹的な(あるルールに従っての論理展開)方法論が誤謬であったために、マルクス共産主義はサタンのものとなった、と、まあ、そうしなければ「原理」を用いてのマルクスへの批判にはならないのだが、この著者は『資本論』はもちろんのこと、マルクスのものでは『経済学批判』その他の著作にも精通しているに及ばず、当時、あるいはマルクス以前の経済学者(リカードやアダム・スミス)などの経済学なども学習した痕跡があることから、誰だかはワカラナイが、かなり頭脳明晰な経済学研究者だったことが、ワカル。特に商品の二つの価値「使用価値」「交換価値」に対する批評にいく手前では、「生産手段」「労働力」「労働対象」「必要労働」「剰余労働」et cetera(その他)に対しての説明を怠ってはいない。ついでにいえば、数理経済学てなものをヤっている帝京大教授(よく私のブログに出てくるintelligentsiya)は、「使用価値」「交換価値」のチガイを識らない。「使用価値」の高いもののほうが「価値」が高いと平然と応える。それが数理経済学なのかと揶揄すると、マルクスは読んだことが無いが、マルクスなど識らなくてもどうでもイイ存在だという返答だったが、/商品の価格は「市場」で決まるんです/と彼の新書(論文)で、スーパー・マーケットで悩む買い物客女性に説いてきかせるくだり(これは、誤謬なのだ)を読んだときは、哀しくなった。価格と価値の区別すらどうでもイイらしい。
神さんとか、サタンとか、「原理」とかを消去してしまえば、この『新しい共産主義批判』は立派な共産主義批判だといえる(正しいかどうかは別ですが)。この後、ヘーゲルの弁証法批判からレーニンの『国家と革命』批判へと筆は進むのだが、それらへの感想は、また「さらに、さらに、云うなら」で書いてみたい。ともかく齢七十にして、まだヤルことがあるので、若いときのように横道にsoleilして「太陽がまぶしい」などといっている暇がナイからな。銭もねえし、こっちは稼がないといけない。
『新しい共産主義批判』について一つ二つ書いておくと、マルクスの「価値説」は「価値形態」として商品を捉えたもので、この「形態」というところは重要なのだ。「唯物論弁証法」だから、あくまで「価値形態」なのだ。(私は、演劇論を組み立てているとき、これを「価値表現」といいなおした)。さらにマルクスは/経済学をヤルことが目的ではなく、ニンゲンを捉える場合に、まず経済学からと、出発しただけであって/、それは「存在」というものを捉えるのにハイデガーがまず人間の存在から始めたのと同じ。どちらも途上、未完成のシロモノだということは、前提として識っておくべきだ。
ともかくも、与党(といても一方は学会だからしゃあないけど)の若手議員などは、Q統一教会と耳にしてビビっていないで、あるいは中堅は居直ってんだけど、このテキストは古書店巡りしてでも捜して読んでおくべきだ。(どうせなんのこっちゃで読めないだろうとはおもうが、ムツカシイナと思うだけでもイイ)
しかし、これだけのシロモノ(テキスト)がありながら、何で壷売りなんかになったんやろなあ。この謎は未だ解けない。

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