無料ブログはココログ
フォト

« 2022年7月 | トップページ | 2022年9月 »

2022年8月

2022年8月27日 (土)

Sophism sonnet return 07

聖書と鋏(はさみ)は使いよう

「献金」についてだ。要するに「銭」や。
『新しい共産主義批判』は、どういうワケか「弁証法批判」の章からいきなり知能低下する。大学生(いまどきのではナイにせよ)からいきなり中学生の「理科」になってしまう。もう少し云いかえれば福田さんの原作・脚本による『33分探偵』の「なんやかんや理論」になってしまう。
結論からいえば、
〇この世界は「神」という、あるいはその創造したる「有機体」である。
〇よって、弁証法、ニュートン力学におけるニュートンのコトバを借りていうならば、「太陽系の天体の軌道計算は出来る。しかし、何故、かくのごとくそのよう天体配列になったのかを知ることは不可能としかいいようがナイ」に異論を唱えて「そのような論理は要するに何も云っていないのと同じだ」と、来る。そこまでは、まあ、イイ。そのアト、何故そういう天体配列になったかを述べるに、「この宇宙には創造された目的があって、そのためにそういう配列になっている、と〈原理〉は解いている」と、そういわれると、けっきょくそれは「なんやかんや、あるからそうなったんや」と寸分違わない。
〇で、弁証法は「闘争」をこの世の矛盾の解決に用いるが、それは誤謬、誤報、誤導であって、なぜ、そういうことが起こったのかというと、「ほんらいは、否定の否定は〈闘争〉ではなくそれはサタンのせいであって、授受作用によるものが正しい」とある。この授受作用というのは、ワザとそうなのか(都合よく隠蔽したのか知って知らんふりなのか)弁証法の用語でいえば、「対立物の相互浸透」をいいかえているにすぎない。となると、まあ「闘争」というコトバも、単に殴りあうことをいっているのではナイと、この誤謬、誤報、誤導を戒めねばならないのだが、この知力の急降下は何でなのかワカラナイ。
〇で、サタンの世界からほんらいの有機物(有機体)の世界にもどすために、なんで「献金」「銭」が必要なのかもまったくワカラン(というかそんなこと、どこにも書いてへん)
これでは、聖書を都合いいように解釈して、三流のスペース・オペラに仕立て上げたところに着地させたことになるが、なんでや。
〇この著者はほぼ頭の部分は「マルクスもここまでは正しいのだが」と、苦渋に似た書き出しを用いている。さぞや、ほんとに悔しかったのかも知れない。だいたい、共産主義(基本的にはマルクス-スターリン主義)を経済学的にみごとに批判しておいて、いきなり、宇宙が有機物(と、書いているがたしかに有機物もあるだろうが、ここは〈生命体〉といいたかったのだろう。それはあまりにあまりにあまりなので、古くは五島勉(あの『ノストラダムスの第予言』の著者・1999年(平成11年)、と学会より日本トンデモ本大賞特別功労賞も、そんなことをノストラダムスの予言が外れてから書いていたナ)聖書解釈を拡大拡張ひん曲げたのだろうけど、なんでや。著者はいまでは先代教祖になっているが、盗作(というより、原稿ごと盗んだ)という説は、ほんまかも知れんナ。

:何はともあれ、最近よく貼ってある自民党のポスター、こないだの選挙の当選者と岸田がならんでにやり笑いをしつつ「ゆっくりといっしょに歩いていきましょう」何処へや、地獄にか、と云いたくもなり、ゾゾッと悪寒がしたり。

2022年8月23日 (火)

Sophism sonnet return 06

さ、と、さ、の差

酒井順子さんの『うまれることば、しぬことば』をなんとか読了した。
なんとかというのは、この物書き(同業だから呼び捨て御免)、婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞を2004年に(というから、1966年生まれなんだから、38歳のときだな)受賞していて、かつ「コトバ」についてのエッセー(東京-中日新聞 ではこう書く)を書いている、に、しては、文章がだらだらしているので、simple is best派の私にしてみると、「よう、姐さん、もちっとハナシ早くなんねえの」になるのだが、あんまり関係ねえかも知れねえけど、「婦人」という「女が箒だからダメ」とかいわれている阿呆な攻撃にいまなお踏ん張っている婦人公論に、〇〇もの傾向が強い講談社の賞だから、「まあ、いいか」になるのだが、こういうことを書くと、最近のハラスメントの中では「ハラハラ」になるのではないだろうかどうかは問題にしない。(「ハラハラ」というのはもちろん、私の造語である。ハラハラするでしょ)
さて、subtitleの「さ、と、さ、の差」は民謡の合いの手ではもちろんナイ。なんか酒井さん、どこかで似たようものを読んだ記憶が、おっと、斎藤美奈子女史だ。最近ご無沙汰だけど、五年前くらいまでは次から次へとさかんに読んだ。で、お二人の「差」は何かというと、まず、酒井さんの場合、読んだアト、いわゆる「溜飲が下がる」という心情からはほど遠い。これはもう、経験や学習の「差」だな。つまり「芸がナイ」。(けして年齢の差、世代の差なんていわない。だって、そんなもの私、信じてナイので)。
次は、経験や学習の「差」だな。(おんなじじゃナイかって)あのな、「経験や学習」というのは、百鬼夜行なのだ。ここでは「毒がナイ」になる。「毒をもって毒を制す」。この「もって」を最近「盛って」だとおもっているヒトがいるんだな。それはそれでオモシロイけど。
ともかく帯の「ポリコレ時代の日本語論」というのには引っ繰り返ったナ。ワカルか「ポリコレ時代」。こういうことの正反対に本文中においては「横溢」とか「凌駕」とか「ジリ貧」に「命運」「嚆矢」「禍々しさ」「寿ぐ」「軛」「跋扈」250ペ.―ジ中50ページまでに、こういうの(って、まあ、そういうのや。聞いても読んでもワカランに分類されるようなものや)が出てくる出てくる。そこからもさらに出てくる。これって読者に対する、賊心、犯意、遺恨、害意、物恨、悪念、意地悪、害心、物恨み、毒気、邪気、悪意、憎さげ、なのか。著者は東京生まれとあるが、案外、京女だったりして。
このホン『うまれることば、しぬことば』の「ことば」の特徴は、それがほぼ日常会話(話し言葉・話体)であるということだ。つまり書かれていても、少なくとも「耳ことば」だからアナログになる。書き言葉は「目ことば」だからデジタルだ。この耳ことばというのは、加齢難聴の私のようなものには甚だ聞き違いが多くて困るのだが、目ことばも昨今、わからへんカタカナが多いのなんの(たとえば「ポリコレ」や。何度読んでもワカラン)そいつについて行くのもタイヘンだが、卑近なことを例にあげると、私の場合、私の話しコトバに「困る」ひと(たとえば役者さんに/駄目だし・本来は囲碁用語/するとき)も居て、「なんかね、焦燥を催すんだ」と隔靴掻痒(読めぬワカラヌなら辞書をひけ)な演技の感想を私が述べても、「そんなぁ、漢字で云われても」と役者さんに首を捻られる。(/しょーそーをもよおす/、/カッカソーヨー/、このコトバはまだ、しんでいないはずなんだけど。アナログにでも、デジタルにでも、「嫁葉は刈る」でしょ。「嫁葉は刈る」というのは、日本お伽話に出てくる、んなワケねえだろ)。「ミザンセーヌ」をここんとこ「ミザンスが良くない」なんて使われたりすることが演劇現場でもかなり浸透してきた。(元ネタはスタニスラフスキーなんだけど、スタさん、「後から書く」と云いつつけっきょくthroughしたまま)。最初は私も元ネタから当惑した。とはいえ最近の「ミザンス」の流布で、ああそうですかと了解した。しかしそれならちゃんと「位相と近傍」と云えばイイのだ。

:ともかく、斎藤美奈子女史や、呉智英センセなんかは芸も毒もあったなあ。演劇なんてのは猛毒だからなあ。そういうのには興味がナイ御仁には、酒井さんで充分でしょう。オレの芝居なんか観てもきっとツマンナイよ。 

2022年8月18日 (木)

Sophism sonnet return 05

さらに、云うなら

/マルクスの理論は普遍的な真理ではなく、単なる時代的産物に過ぎなくなって、時代の変遷とともにいつかは廃棄されねばならぬ運命を背負っていたのである。その結果、マルクス思想は、その当時においてはだいたい適合するものであったが、今日に至っては、暫時歴史的遺物と化しつつある。/
と、これはまるでフーコーが語りそうなコトバであるが、前回と同じ『新しい共産主義批判』の著者による同書の「マルクスの人間性」の結びにあたる。著者は、マルクスのどこにも無慈悲や残忍性は見出せないとして、マルクスの共産主義の動機は人道主義的なものであったと見解している。ただ、革命の〈方法〉、即ち「暴力革命」からの演繹的な(あるルールに従っての論理展開)方法論が誤謬であったために、マルクス共産主義はサタンのものとなった、と、まあ、そうしなければ「原理」を用いてのマルクスへの批判にはならないのだが、この著者は『資本論』はもちろんのこと、マルクスのものでは『経済学批判』その他の著作にも精通しているに及ばず、当時、あるいはマルクス以前の経済学者(リカードやアダム・スミス)などの経済学なども学習した痕跡があることから、誰だかはワカラナイが、かなり頭脳明晰な経済学研究者だったことが、ワカル。特に商品の二つの価値「使用価値」「交換価値」に対する批評にいく手前では、「生産手段」「労働力」「労働対象」「必要労働」「剰余労働」et cetera(その他)に対しての説明を怠ってはいない。ついでにいえば、数理経済学てなものをヤっている帝京大教授(よく私のブログに出てくるintelligentsiya)は、「使用価値」「交換価値」のチガイを識らない。「使用価値」の高いもののほうが「価値」が高いと平然と応える。それが数理経済学なのかと揶揄すると、マルクスは読んだことが無いが、マルクスなど識らなくてもどうでもイイ存在だという返答だったが、/商品の価格は「市場」で決まるんです/と彼の新書(論文)で、スーパー・マーケットで悩む買い物客女性に説いてきかせるくだり(これは、誤謬なのだ)を読んだときは、哀しくなった。価格と価値の区別すらどうでもイイらしい。
神さんとか、サタンとか、「原理」とかを消去してしまえば、この『新しい共産主義批判』は立派な共産主義批判だといえる(正しいかどうかは別ですが)。この後、ヘーゲルの弁証法批判からレーニンの『国家と革命』批判へと筆は進むのだが、それらへの感想は、また「さらに、さらに、云うなら」で書いてみたい。ともかく齢七十にして、まだヤルことがあるので、若いときのように横道にsoleilして「太陽がまぶしい」などといっている暇がナイからな。銭もねえし、こっちは稼がないといけない。
『新しい共産主義批判』について一つ二つ書いておくと、マルクスの「価値説」は「価値形態」として商品を捉えたもので、この「形態」というところは重要なのだ。「唯物論弁証法」だから、あくまで「価値形態」なのだ。(私は、演劇論を組み立てているとき、これを「価値表現」といいなおした)。さらにマルクスは/経済学をヤルことが目的ではなく、ニンゲンを捉える場合に、まず経済学からと、出発しただけであって/、それは「存在」というものを捉えるのにハイデガーがまず人間の存在から始めたのと同じ。どちらも途上、未完成のシロモノだということは、前提として識っておくべきだ。
ともかくも、与党(といても一方は学会だからしゃあないけど)の若手議員などは、Q統一教会と耳にしてビビっていないで、あるいは中堅は居直ってんだけど、このテキストは古書店巡りしてでも捜して読んでおくべきだ。(どうせなんのこっちゃで読めないだろうとはおもうが、ムツカシイナと思うだけでもイイ)
しかし、これだけのシロモノ(テキスト)がありながら、何で壷売りなんかになったんやろなあ。この謎は未だ解けない。

2022年8月16日 (火)

Sophism sonnet return 04

ついでにちょっと

古書店(「古本屋」いったほうがなんとなく気安いのだが)で、100(と裏内表紙にエンピツで書いてあったから百円。元値は300円)の『新しい共産主義批判』(著者・不明、記されていない。ただ、世界基督教統一神霊協会とある。発行者も同じ、発行所は光言社、東京渋谷区。以前の持ち主のinitial、名前など記入あり。内部にもside line あり)を購入(B6だからちょうどcomicサイズ。310ページ)したは名古屋にでてきてからだから、お姐さんとの経緯とは、あんまり関係ないのだが、まあ、ついでだから。発行年月日は昭和四十三年(1968)。
ここで、国際勝共連合、世界平和連合、UPFジャパンという3団体の会長を務める、梶栗正義氏の一連の騒動後、初めてメディアのロングインタビューを挿入。「1968年に創設されました。当時は冷戦の真っただ中で、世界では共産主義勢力が拡大していました。そこで文総裁は世界平和を実現するにあたって、神を否定する唯物思想である共産思想が世界にネットワークを広げている現状に強い危機感を抱き、これに対抗をするため、国際的に連携して相対峙あいたいじしなくてはいけないという考えに至りました」
つまりこのtextは、会員が学習用に所有していたホンなのだな。たぶん、よくワカランかったろうとおもう。

『新しい共産主義批判』の序文には、本署の目的は/統一原理を応用して共産主義論を見当批判、克服を試みようとするものである/。なので、本署の第一章は「統一原理」の解説、以下は共産主義(マルクス時代の環境とマルクス主義の成立から始まる)についての「原理」応用における批判に費やされている。
第一章は宗教教典なので、ワカリヤスクいえば、いまの本屋の棚を占領している「魔法合戦comic」のidea資料のように読めばイイ。一応は聖書(Bible)の文鮮明における解釈なのだが、当然のことながらkatholiekや他のChristian教会からも「異端」(いわゆる「外道」)と正式にお墨付きが出ている。しかし、「魔法合戦comic」の原作だと思えばそれなりに聖書よりスジは通している。これは本家の聖書(Bible)のほうが矛盾が多いからなのだが、そこが聖書の読みがいともいえる。「原理」のほうは気張って「科学」を標榜し、スジを通さんとして噛み切れない馬脚の肉。宗教は科学でないところがイイのだから、兎の角でイイ。とにかく。
第二章以下の共産主義(マルクス)批判においては、こっちのほうが原理解説よ丁寧で、マルクスの人間性から入り、まず「価値論」を共産主義の生命線と狙いをつけて批判が始まり、ヘーゲル弁証法から「唯物論弁証法」を批判して終わる。いわゆる、胆(きも)を叩っ斬るという論法で、本署の作者はこっち(たぶん「マルクス・スターリン主義」)のほうをけっこう学習していて、んでもって、「原理」との論戦で論破されたかなんやかんやで、あったのだろう。だいたい、当初読んだとき私なんかなんも勉強しとらんかったんで、いまも学習したというほどはしてないので、本署の論理の流れにはいちいち頷いて、「そのとおりやないケ」と感心してえええええええ、んで、しかしこれと、かの「献金」「霊感商法」がどっから出てきてどうして主流になったのか、なんでまた「家庭」が大事、合同結婚(四ヶ月の禁欲)やら、性的(まあ、たいていの宗教は『古事記』だってオメコのホンなんですが)「血分けの儀式」なところが強調されて(だいたいサタンとの肉交なんてのはもうほんま、comic)、邪教=カルトに変貌、変容していったのか、私にはよくワカラン。
おもうに/聖書は〈スットコドッコイ〉と、〈泣かせるぜ〉が混交しているからイイのではなかろうか/と、信心の無い私なんかは猛暑の夏、世界の33,9%の真理を会得して、コロナ・オミクロンを防戦しつつ、なるほど、「Q統一協会・教会は政治・経済的にはanti communismなのだから、政治家にも寄り添うワナぁとはおもったりしている。 

2022年8月12日 (金)

Sophism sonnet return 03

もう少々、胡椒を

記憶するところ、かのお姐さんが私に対して組織への(つまり統一協会でんな)「勧誘」をおこなったことは無い。当時(いまでもそうなのか知らんが)「原理研究会」というものがあって、そこで獲物の羊たちは若い悩みを打ち明けて相談に乗ってもらい、組織へと勧誘されるのだが、このお姐さんは私の悩みを聴いてくれたということはナイ。というか、私はそのようなことを話したことはナイ。さらに、というか、私にはそもそも次々に襲って来る疾病以外に〈悩み〉というものはなかったので、まず三十歳あたりまで生きられたらそれでイイとおもっていたし、そんなニンゲンに将来の展望などあるはずがなかったから、中学校、高校での進路相談、三者面談でも、その場しのぎのウソで誤魔化し通してきた。教師が期待し、母親が喜びそうな職業を適宜並び立てて、そういう職に着く気持ちなどさらさら無く、窮余の策として、「フランス留学」なんてことを云いだしたのだから。
よってか、ごってか、ろくてか、ななて、このお姐さんとも自身の将来について、あるいは現在社会の不平について話したことはなかった。ではお姐さんは私に何を話したのかといえば、取り立ててナニも話さなかったとしか記憶しかナイ。この組織の支部員とお姐さんとのあいだの徒然なるハナシは、呼び出されて支部(民家なんですが)にのこのこ出向いたときには、耳にした。支部員の「死んだらどうなるんですか。あの世というのは、天国というのはどんなものなんですか」という支部員の真摯な問いにお姐さんはしゃあしゃあと「この世と一緒」と応えていた。「支部長の好きなことって何ですか」という問いには「パチンコ」と云い。嫌いなことという問いには「新聞配達」と返事していた。支部員が壁に飾ってある文鮮明とその妻の写真を観て、「褒め上げている」と、「私、このハゲの顔、キライなの」と平然といって退けていた。私の内心と一致していたことはその三つだ。
「剰余価値説は、まちごうてナイとおもうてんねんけどなあ」と、悪友の秀才はかなり悩んでいたが、お姐さんは「剰余価値説」について「そんなものは単なる分配の問題です」と一蹴したらしい。「勝共連合」というのは「反共」ではなく、「共産主義に勝る主義」と定義されている(と、私もアトからけっこう勉強したのですが)。なんやかんや云っても、「資本主義」とは何かが、岸田総理のいう「新しい資本主義」以上にいまとなっては定義しづらいのだし、さらに「共産主義」やら、その途上の「社会主義」になると、世界情勢を観ているぶんには単純な権力闘争でしかナイし、行き着くところ、Utopiaのような社会になるなど、後々に、さまざまなアルバイトを通して、労働者たるや「酒と女とプロ野球」で連帯していても、とても「革命」などやれそうな連中ではナイということを身に知って了解したし、「私の好きなものはね、朝寝坊。ゆっくり寝られるのが好き」とそんなことも云って支部員の顰蹙をかっていたお姐さんが気にかけていたのは、心配していたのは、私自身に彼女自身と相似するものを多くかんじとっていたからなのかも知れぬ。私は一度だけ、彼女に質問したことがある。「あなた、自殺未遂したことあるでしょ」。お姐さんには何も応えなかったが、これはアタリだったと私はおもっている。当時の統一協会は、霊感商法などとは縁遠い、生真面目なanti communism の集団だったような気がする。つまり、誰だか「これは商売になる」という狡賢い者が(これこそ、政治家の誰かなのだとおもうが)侵入して、結局、自業自得の路を歩んでいるだけなのではないか。案外、真相はその辺りだろう。 

2022年8月11日 (木)

Sophism sonnet return 02

それは銭では買えません

で、Q統一協会は、いったい〈何が〉やりたい(かった)のか。政治家に「寄り添って」だ。政治家のほうの魂胆は簡単だ。「銭になる」しかナイだろ。他に何があるのだ。落ち着く先は、そこしかナイじゃないか。だったらQ統一協会のほうも、唆した阿呆たちに対しては同じだ。銭になる。しかも桁がチガウ。「魂が迷って彷徨っています。銭でなんとかなります」魂が銭で買えるものかどうか、「献金」したほうも阿呆としかいいようがナイ。要するにどっちもどっちなんだ。ちょっとはかんがえてみなさい。安倍銃撃殺人事件、ありゃ、「暗殺」や「殺害」でなく、「復讐」でしょう。阿呆は「貧困」から生まれる。日本は「飢餓」国の仲間入りをした。/FAOのHunger Map(2019-2021)を示して「日本が貧困国に認定」/というツイートがバズっている。たしかに誤解を多く与える記事ではある。「貧困」ではナイといえば貧困ではナイ、「飢餓」のdataの用い方が煩雑だからだ。FAOもそこんところはご存知のようだけど。だが、かつて私が二十代の頃、年寄りは私たち若者に「わしらのビンボは飯が食えんかったもんじゃが、いまのビンボは、車の一台も持てない程度のもんじゃろ」ともんじゃ焼き食いながら、仰ったもんじゃが、いま(2022)のビンボはそうでもナイ。「カタリバ」にせよ、「子供食堂」にせよ「シングルマザーの風俗稼業」にせよ、ようするに飯、まんま、が「食えない」のだ。やつがれは医療控除と寄付金控除、その他の控除でけっきょく、経費を計算しなくとも、またまた低額所得者になり(三度目)、10万円頂戴して(ってようするに税金返してもらっただけだけど)、医療保険も2割負担になり、もちろん、医療保険料はナシ。これまでは、『国境なき医師団』『ユニセフ』『フォスタープラン』と主に海外に対して賛助会員で銭出していたが、今回は富士通のサポート解約して、国内にも寄附援助することにした。低額所得者の「貧者の一灯」だ。あのな、死んだ者の魂なんざ、線香の一本もあげておけば、ええのや。いま生きているものに銭を使え。(聴いとんのか岸田っ)。
私も高校を卒業した頃、統一協会に「勧誘」されたことがある。滋賀県だか、大津市だかの支部長さんで、ちょっと年上のお姐さん。最初は悪友数人での冷やかしだったんだが、マルクス経済学を齧っているモノなど、本気でかんがえこんでましたワ。その後も電話がけっこうあって、「なんで、俺だけひつこう声かけるんですか」と訊いたら「あなたのことだけはナンダか気になって」と、「勧誘」の手口かも知らんが、他の悪友たちは放ったらかしで、支部長さん、ちょっと雰囲気は他の会員とはチガッテいたし、屈託したslender、憂いのある顔立ちで、十八歳の私にはストライクだったので、honey trapなんか仕掛けられたらイチコロやったろうなとおもいますが、たぶん私の予測では、統一協会とは袂を分かち、自分の教派を立てていはるんやないやろか。もう、歳も七十を越えてらっしゃいますが、このお姐さんとはどこかでお逢いしたいです。

« 2022年7月 | トップページ | 2022年9月 »