無料ブログはココログ
フォト

« last job 3 | トップページ | last job 5 »

2022年7月 8日 (金)

last job 4

47~

47・フロイトが「無意識のエネルギー=リビドー」を関知、察知、発見したのは女性のヒステリー発作の原因を治療(research)している途上においてだ。ここで私が興味を引かれるのは彼の情況そのものより、Hysterieというものが、「起きる・起こす」という述語を持つということだ。
48・この場合の「起きる・起こす」を用いた文節で有名なものを一つ挙げる。「Que Sera Sera」。訳すと「起きるべきことは起きるべくして起きる」。ヒッチコックの名作映画『知りすぎた男』でドリス・ディが歌った「ケ・セラ・セラ」の「なるようになる」という訳は意訳である。というよりこの言語「Que Sera Sera」は映画用に創られたもので、どこの国のどのコトバとしても存在しない。(1954年の映画『The Barefoot Contessa(裸足の伯爵夫人)こっちも佳作だ』では家訓として用いられている)。
49・とりあえず「疎外」の意味を哲学、マルクス経済学でresearchすると「人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が、逆に人間を支配するような力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう」となる。この状態は「自分が自分でありながら、その自分のせいで自分のおもいどおりにいかぬこと」となり「起きるべきことは起きるべくして起きる」という多少、因果論めいた意味づけは疎外とは逆のようにみえるの〈本質〉になる。(これについては、もうすこし検討をするつもりだ)。
50・主語と述語を「分けることが出来ない」ものとしての了解は、一休禅師のいう、ヒトの存在はほんらい「無漏」であるということも示しているのだが、おそらく一休禅師の場合は、この作用素を「純粋状態」において思考しているので、「人間があるべき自己の本質を失う状態」とは解釈していない。(これについても後に検討、考察するつもりだ)。
51・マルクスの「疎外論」によると「表現=疎外」という価値形態は、作用素におけるoutput「情況論」ではなく「本質論」に位置づけられる。
52・マルクスは『資本論』において、労働で造られた商品や素材に二つの価値形態を設け、それを左辺、右辺に分け、双方の価値形態(たとえば、リンネルや、一着の上着や、石鹸や、小麦)を「=(等号)」で結んで、そこから「貨幣」という商品が何であるかを炙り出す(導き出す)のだが、この場合、「=」が数学的に何を示しているかについての説明は一切ナイ。また何れの場合の右辺と左辺の関係も単純にこの記号「=」で示している。これは杜撰という他ナイ。(たぶん『資本論』の欠陥はここにある)
53・Hysterieを疾病ではない現象として捉え、それを「表現=疎外」に当てはめれば、Hysterieは何らかの表現だと代替することが出来る。
54・おおよそ「表現」として表出するものは「疎外」と「=」である。この場合の「=」は使用価値や交換価値が「同じ」というものではナイ。双方の労働に費やされた時間が同等ということでもナイ。もちろん価格でもナイ。ここで経済学を蹴飛ばして云ってみれば、この「=」の意味は「表現されたモノは表現した当人に同等の疎外を与える」に相当する、とかんがえるのが妥当だろう。
55・ここで哲学や医学からも逸れて、Hysterieという現象は当人の「表現」だと仮定してみる。ただし、「無意識のエネルギー」の放出であるという定義は固守しておく。
56・まずそれは言語とはチガッテ、身体的「表出」による表現に近似する。それが言語による放出であっても、言語という「系(system)」からはおそらく逸脱しているとおもえるからだ。
57・言語が「無意識を意識するための手段である」ならば、言語系から逸脱したHysterieという形態は「無意識というエネルギーの意識的な表現」であるのか。
58・そうではなく、Hysterieなどの身体系現出は「言語され得ないものの表現」、つまり「無意識の無意識」的な表出ではないだろうか。つまりそれは、「言語によって表出(表現)されるべきものが、言語以外という現象のままで表出された表現」ということになる。
59・いい換えれば、言語系で表現されるはずのものが、身体系的に表現されてしまったということだ。
60・さらにいい換えれば、「云いマチガイ」が身体系的に表出されたということになる。
61・つまり「Hysterieとは身体系的な云いマチガイ」と云える。
2022/07/10/改

« last job 3 | トップページ | last job 5 »

鬱病(鬱疾患)」カテゴリの記事