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2022年7月 5日 (火)

last job 1

Congratulations birthday 70 years old.と、とりあえず人並みに。
(そうなんだな、中島みゆきさんと同い年なんだなあ。水谷豊さんとも)

さて、超有名人のお二人には、歌とドラマで仕事を続けてもらうことを祈りつつ、私のこの世界(人生)最後の仕事は「鬱病・鬱疾患とケリをつける」ことだ。そいつが何であるのか、この宿痾、業病、半世紀に渡ってよくぞ私を苦しめた。ああだこうだと考え書いてきたが、やっぱりナンカこう、落とし前をつけてから「ヨシッ」という〈覚・悟〉があってからこのニュートン力学世界におさらばしたい。
というのが、七十歳のおもいのココロだ。

では、早速始める。即効稚拙。
randomに、liner notesのように、samplingしてremixしていく。

鬱病(鬱疾患)の定義=あるいは命題としての提示(あるいは単なる仮説-着地希望地点)
1・鬱病とは、精神的な疾病でもなく、身体的な疾病でもない、よって疾病ではない。
☆45年前も現在も、抗鬱剤は数多出回っているが、鬱病が何であるのかは医学的にワカッテいない。
つづける。
2・鬱病とは「ほんらい表出されるべき〈モノ〉」が「疎外されて表出された〈状態・情況〉」をいう。とりあえずこの状態、情況を鬱病における鬱疾患と名付けておく。
3・鬱疾患とは「表現-表出」として捉えられるあらゆるものを含み、「表現-表出以」として捉えられるあらゆるものを含む。
4・ここでいう「表現」とは、〈意識的〉領域な作用素をもつものであり、「表出」とは〈無意識〉領域な作用素をもつものである。
5・これらは量子ビット思考を用いた思考であり、〈意識的〉作用素と〈無意識〉作用素は(重なりあったビット)として了解される。
6・この「重なり合ったビット」とは、「積み上げられた」としてもかまわないが、私にしてみれば無限枚数のセル動画の重なり、無限のトラックを持つ音源として量子ビットをimageしているので、そのようなimageにおいての記述をつづける。
7・ここでいう〈意識・無意識〉は、前述したたとおりフロイトに倣っている。
8・フロイトと弟子であった(理解者であった)カール・グスタフ・ユングとの決裂は、この〈意識・無意識〉領域の在り方を巡ってのことだ。と、その程度に理解しておいたほうが単純明快でよろしい。
9・つまり、フロイトは意識と無意識は個別に存在するものではナイと、両者の対称性を述べたのに対してユングは独立して存在するという固別性に確執している。
10・フロイトからすれば、この〈意識・無意識〉は物理学でいうエネルギーの第一法則からの転用、応用であるから(よって対称性である)固別の存在では有り得ない。つまりどちらか一方だけが存在するということは不可能である。(常に対称だということだ)
11・似たようなことは仏典でも「不二の法門」として、『維摩経』でも述べられている。簡単にいえば、「二つに分けてかんがえてはいけない」という教えで、たとえの最たるものは「仏とひとを分けてはイケナイ」だ。これは、一休禅師も『般若心経』解読において『無濾』と称し、大心とも称する。小心(有濾)はなんでも二つに分けてしまうが、ものごとは大心(二つに分けられるものではナイ)でかんがえるべしと説いている。数学では似た概念に〈収束点列〉がある。
12・私は〈意識・無意識〉領域の在り方においては、フロイトの流儀に倣うが、いわゆる唯物論者においてのこの〈意識・無意識〉の領域は脳、身体の何処にも顕現あるいは認められないところから、「観念の装置」というやや苦しいスキームとして捉えている。
13・しかしながら量子ビット思考は、ユングの方法論もビットの一つとして扱う。つまり、これすら「分けない」のだ。
14・量子ビット思考について、とりあえず、こういっておけばイイとおもわれる。/量子ビットは、普通のビットとはチガッテ、「0であり、かつ1でもある」。これは「粒子でもあり波でもある」とする量子力学の量子に対する考察と同じことを基本的に用いているということだ。
2022/07/09・改

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