last job 6
81~
81・交互の「communication(伝達)」を情報の交換と限っていえば、そこに含まれて取り沙汰されるのは各自の「記憶」と、相互の「認識の同一性」だとおもわれる。
82・「無意識」という領域(スキーム・囲いの中)に「記憶」は存在するにチガイナイ。ただ、意識にとってそれは「忘却」と云い換えられる。「記憶から一旦消されたのだが、〈無意識〉はそれを「記憶」している」というワケだ。(もちろん心身の何処にそんな場所があるのか、いわゆる外的、内的、心的、環界的、どこに在ったって、あるいは、在るとおもっているだけのものであっても、特に差異はナイ)。
83・「認識の同一性」になると、対他的な双方に、同じく存在するのかどうかはまったく不明瞭だ。それでも言語が通じれば、おおむね普遍的に保つことは出来る。まったくの「同一」でなくとも双方の〈了解〉に至ればイイのだから。(もちろん誤解のままと、いうものもあるだろう。しかし、それはそれで、〈伝達〉にはチガイナイ)
84・鬱病、鬱疾患に「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットが「ある視点・視向・試行」としてどんなふうに滑り込んでいくのか。それは直観としか云いようがナイのだが、この直観(直感)は手放さないほうがイイと判断している。
85・「2」の定義めいたものをおもいだしつつ、三点セットを置換してみる。「2」は「鬱病とは、ほんらい表出されるべき〈モノ〉が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう。この〈モノ〉を鬱病における鬱疾患と名付けておく」だった。そこで、この〈モノ〉を「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットで置換してみる。すると「鬱病とは、ほんらい表出されるべき「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」(先の表出は「現出」同じ。アトの表出は鬱疾患のことを云っている。たとえば「結核という疾病の症状として咳、微熱がある」の症状と同様に捉えて鬱疾患という場合と、単に「現出」ともちいている場合があるので、こちらも注意はしているのだが、困惑させて申し訳ない。
86・さらに「76」だが、とりあえずまとめれば、「鬱病、鬱疾患とは、言語が言語として表現されずに表出するときの疎外である」。ここにも同じことをヤッてみる。(この場合の表出は鬱疾患の意味ではナイ)。そうすると「鬱病、鬱疾患とは、「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が表現されずに表出するときの疎外である」になる。
88・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットは〈了解〉として認識することが出来る。
89・すると、「ほんらい表現、表出されるべく「言語」による「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて(表出=鬱疾患)された情況」は、ほんらいの無意識のエネルギーの「超自我」によるcontrolが意味を持つというごく普通の流れは、「言語」の三点セットの「疎外」によって、〈了解〉させられる。
90・このうち「communication(伝達)」の齟齬については、鬱病に対してかなり多大な影響を有するようにおもわれる。何故なら、これは「言語」との関わりが強いからだ。ラカンが揶揄気味に述べた「言存在」は、けっこうオモシロイのだ。「言語」の〈了解〉が〈存在〉の状態に関わってくるからだ。これはフロイトの「云いマチガイ」と同等の迫力があるとおもってイイ。
つづく
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