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2022年7月 6日 (水)

last job 3

31~

31・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)と無意識には密接な関係がある」というフロイトの提唱はヒジョウに重要なものだ。ことは〈表出〉についてだからだ。
32・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)」は、無意識からの表出だ。と、フロイトは喝破する。
33・私の友人で詐欺が仇になって消息不明の者がいるのだが、彼の言い損ない(云いマチガイ)は、きわめて明確なものだった。たとえば、事務所で「トイレに行きたいのだけど、靴下貸してもらえるかな」「昼飯の買い物に自転車が借りたいのだけど、抽斗はどこにあるのかな」といったふうに。
34・「33」のコトバ=表出は、云いマチガイの表現なのだが、フロイト以前の哲学者たちは言語を意識的表出による表現として扱っていた。つまり内在する思考を外に表出させる道具(デカルト)や内在思考の構築(ルソー、ヘーゲル)のように。
35・しかしフロイトは言語を「無意識を意識するための手段である」と仮定した。
36・有名な『夢判断』においては、夢の記憶を当事者に語らせるのだが、それが不正確なものであっても構わない。夢などではナイ当事者の思いつきの創作であっても構わない、としている。何れにしても当事者が〈無意識〉を意識化しているからだ。
37・フロイトにとって言語化するということは、無意識へのアクセスなのだ。
38・ジャック・ラカンはハイデガーの〈現存在〉の向こうを張って人間の存在を〈言存在〉と定義している。ヒトによる言語の発明は進化の過程による〈大脳化〉(今西錦司進化論の中の造語)から得られたものだからだ。
39・フロイトは宗教については、幼年時代に端を発する苦悩が疾病の発症となる、と解釈したが、ラカンは1950年代までカトリックの熱烈な信者であった(という伝承がある)。1960年代になるとカトリックに疑問を持ち始め、1975年あたりから再びカトリックへの信仰に戻ったのではないかという(不確定な伝承がある)。これをどう解釈するかは、解釈する側の〈権利〉である。
40・それは「全て」というワケではナイが、言語にはある程度の曖昧さや、明確な云いマチガイが含まれている。この点について私は不勉強ではあるが、ソシュールやウィトゲンシュタインの「発語」のみにおける言語学の欠陥として、単に「一対一対応」を基にしたの言語学は演劇には不向きだと著作(『恋愛的演劇論』)で述べた。
41・演劇では「せりふ」という発語があるが、「沈黙」という言語も存在する。相対するもの、dialogueにおける両者それぞれの「沈黙」は、発せられないだけで、フロイトふうに述べれば「無意識」に抑圧されてエネルギーとなっている。
42・また発せられるから意識的で、発せられないから無意識のままであるという分け方もしない。
43・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)と無意識には密接な関係がある」「言語は無意識を意識するための手段である」を念頭において「2・鬱病とは、ほんらい表出されるべき〈モノ〉が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」について「詩作」という表現と「鬱病」における鬱疾患をかんがえてみる。
44・「詩作」は意識的な云いマチガイの表現といえる。たとえば東京のことを「灰色の空の下の人々、彼らの吐息だけしかない空気」と表現する「詩作」は意識的な「創作」だ。東京のことがそう云えればヨイ。何故ならそれは無意識の欲働エネルギーの表現なのだから。
45・こと鬱病、鬱疾患においては、その欲働エネルギーの表現が正統(正常)に行われない。欲働のエネルギーは意識的にではなく、無意識のまま「云いマチガイ」される。そうしてその「云いマチガイ」は発語だけではなく、身体的作動としても行われる。それは〈痛感〉であり、〈呼吸苦悶〉であり、そういった外部放出でナイばあいは内部に向けての〈だるさ・易労感〉という具体性(病態)として現出する。
46・では、何故、そういったカタチで現出するのか、この作用素を「疎外」として捉えることにした場合、「では疎外は何故生じるのか」という巨大な難問にぶちあたる羽目になる。

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