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2022年7月

2022年7月31日 (日)

Sophism sonnet return 01

アト、ドレダケ、遊べるカ

七十歳になったので(なのかどうかは知らね)、この世界の三割くらいのことはワカッタような気になっている。
三割解れば充分だとおもっている。
従って、この世界のことにはもう興味もナイのだが、自分のことにも興味はナイ。鬱疾患と共棲しているのが、乖離性障害で、こいつで問題を起こさぬ前にこの世界から消えられればそれでイイ。〈悠憂自敵〉にアト数年つきあってはみるつもりだ。
心身不良で書く力が減衰してはいるが、まだ脳髄のinspirationは健在なので、ideaは枯渇していない。ただ、書き抜くエネルギーがどうしても減少してますなあ。

2022年7月19日 (火)

last job 8

101~

無意識は、意識の抑圧によって蓄積されたエネルギーの領域(場)だ。そのエネルギーをcontrolするべく超自我が「疎外」によって無意識の作用素のoutputをマチガッテしまう確率が(たとえば〈云いマチガイ〉など)が在る。「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」などの無意識領域contentsは、無意識と同等のエネルギーを有しているとしている。その抑圧のoutputは状態ベクトル(波束の収縮)とはならないまま、ほんらいとは異なった方向に向けてoutputすることが確率としては有り得るということだ。この状況(事態)が〈鬱病〉と称される。鬱疾患はその〈病態〉となる。鬱病は、無意識相応のエネルギーを有している。というよりも、そういうエネルギーそのものなのだ。その現象形態が鬱疾患として現れる。これを医学・薬学・医療界では「病態」「疾病」として扱ってきた。
しかし、ほんとうはそうではナイ。鬱病、鬱疾患は疾病ではナイ。この疎外された無意識のエネルギーは波動方程式(状態ベクトル・波束の収縮にはならない)のまま、量子の混合状態の中で作用素を通過させ、逆行表出(output・鬱疾患)されてしまう。(この量子を存在は確実なのに観測不能という観点から、蓋然的に〈重力波〉としておく。然るに鬱病を暫定的には重力波であると仮定するということになる)。
鬱病への対応(方法)はそれほど難しいことではナイ。
〇〈夢〉や〈独り言〉のような対自的communicationを創出し⇒同等の重力波を創出して自身の記憶に自身の認識の同一性をもたせればイイ。
〇つまり、無意識・鬱病のエネルギーに対して同等のエネルギーを以て対峙させて、そこで、正常な状態ベクトルを創り出すか、エネルギーの対消滅を図ればイイ。「表現=疎外」という方程式から、疎外に相当する「表現」を導けばイイ。
そのために、次は〈実験・実践〉の段階として、自らが自らに明確にcommunicate出来る表現を捜してみた。
この方法は来年の3月あたり、雑多な自身の業務活動が終了してから、半年~1年の期間、基礎的に学習し、その後、他の鬱病患者、鬱疾患者に対しても試みていくつもりだが、私自身の既往症に因る身体損傷、倒壊状態がなんとか踏ん張ってくれるのを祈るのみだ。

2022年7月13日 (水)

last job 7

91~

91・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」という〈了解〉の三点セットと「鬱病」「鬱疾患」についてもう少し探りを入れていくが、ここで、「communication(伝達)」に「独り言」という特異な形態も付け加えておきたい。
92・「独り言」は対自的なものだ。道を歩きながらブツブツと呟くものから、「日記」という文言に至るまで、その相手を自分にしていることから、小説のように読者という他者の存在を基本的、原則としては胸中に含まない(誰か他者をimageしての独り言もあるにはあるが)。さらにいうなれば、フロイトの『夢判断』における〈夢〉も言語そのものではナイが、「独り言」の範疇に含めることが出来る。
93・羅列が流れて恐縮だが、フロイトの『夢判断』を読んだかなりむかし、途中で嫌気がさしたことが思い出される。おそらくその理由は、当事者の夢に登場する事物、事柄をフロイトが何かに〈対応〉させようとしていることについての、精神分析的介入が鬱陶しかったのだとおもわれる。カール・ポパーのフロイトに対する「似非科学」というレッテルもまた、こういった一方的解釈が「反批判」を許容しない方法論だったからにチガイナイ。
94・「独り言」は「communication(伝達)」に含まれる対自的なものだが、「夢」においても他人のためにみているものではナイ。その点では即自的な営為だ。
95・ついでだから、フロイトの「夢」についての解釈を拾っておく。
/夢の素材は記憶から引き出されており、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的である。したがって一見すると乱雑な夢の内容においても無意識に基づいた統合性が備わっており、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な願望を充足させるものである。つまり夢は無意識による自己表現であると考えることができる。/
97・ここに何気なく「記憶」が顔を出している。「夢」が「記憶」から引き出されるものなのかどうかの判断は留意して、「95」を私なりに修正してみると次のようになる。
/夢の素材には記憶も当然であるが含まれる。夢が虚構であるのなら、記憶という現実が必要だからだ。その選択方法は意識的なものではなく無意識的である。無意識的である以上そこには「抑圧」の力が加わっており、一見すると乱雑な夢の内容は無意識に基づいた力の発散、放逐であり、統合性という合理をデコンストラクション(既存の枠組みや体系を解体し、新たに構築し直すこと)によって、さまざまな出来事を一つの物語として連結させるものである。それにはさまざまな狙いがあるが、一般的には夢とは潜在的な苦渋を希釈させるものである。それは無意識の消費による心的再生産であると考えることができる/。
98・「夢」が「独り言」のcategoryだとすると、それは多大なエネルギーを持った無意識であり、逆にいえば、「独り言」は、現実世界において意識的にimageを再生させる力を持っている。
99・この営為、構造で「独り言」の力を量子力学的に述べれば、それは「自らに自らを重ね合わせる」状態ベクトルだといえる。
100・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」」「夢」「独り言」、これらの量子ビットは、意識、無意識、超自我、のフロイト関連量子ビットに加えられて、鬱病、鬱疾患の本態へと近づいているはずだ。
つづく

2022年7月11日 (月)

last job 6

81~

81・交互の「communication(伝達)」を情報の交換と限っていえば、そこに含まれて取り沙汰されるのは各自の「記憶」と、相互の「認識の同一性」だとおもわれる。
82・「無意識」という領域(スキーム・囲いの中)に「記憶」は存在するにチガイナイ。ただ、意識にとってそれは「忘却」と云い換えられる。「記憶から一旦消されたのだが、〈無意識〉はそれを「記憶」している」というワケだ。(もちろん心身の何処にそんな場所があるのか、いわゆる外的、内的、心的、環界的、どこに在ったって、あるいは、在るとおもっているだけのものであっても、特に差異はナイ)。
83・「認識の同一性」になると、対他的な双方に、同じく存在するのかどうかはまったく不明瞭だ。それでも言語が通じれば、おおむね普遍的に保つことは出来る。まったくの「同一」でなくとも双方の〈了解〉に至ればイイのだから。(もちろん誤解のままと、いうものもあるだろう。しかし、それはそれで、〈伝達〉にはチガイナイ)
84・鬱病、鬱疾患に「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットが「ある視点・視向・試行」としてどんなふうに滑り込んでいくのか。それは直観としか云いようがナイのだが、この直観(直感)は手放さないほうがイイと判断している。
85・「2」の定義めいたものをおもいだしつつ、三点セットを置換してみる。「2」は「鬱病とは、ほんらい表出されるべき〈モノ〉が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう。この〈モノ〉を鬱病における鬱疾患と名付けておく」だった。そこで、この〈モノ〉を「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットで置換してみる。すると「鬱病とは、ほんらい表出されるべき「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」(先の表出は「現出」同じ。アトの表出は鬱疾患のことを云っている。たとえば「結核という疾病の症状として咳、微熱がある」の症状と同様に捉えて鬱疾患という場合と、単に「現出」ともちいている場合があるので、こちらも注意はしているのだが、困惑させて申し訳ない。
86・さらに「76」だが、とりあえずまとめれば、「鬱病、鬱疾患とは、言語が言語として表現されずに表出するときの疎外である」。ここにも同じことをヤッてみる。(この場合の表出は鬱疾患の意味ではナイ)。そうすると「鬱病、鬱疾患とは、「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が表現されずに表出するときの疎外である」になる。
88・「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」の三点セットは〈了解〉として認識することが出来る。
89・すると、「ほんらい表現、表出されるべく「言語」による「communication(伝達)」「記憶」「認識の同一性」が疎外されて(表出=鬱疾患)された情況」は、ほんらいの無意識のエネルギーの「超自我」によるcontrolが意味を持つというごく普通の流れは、「言語」の三点セットの「疎外」によって、〈了解〉させられる。
90・このうち「communication(伝達)」の齟齬については、鬱病に対してかなり多大な影響を有するようにおもわれる。何故なら、これは「言語」との関わりが強いからだ。ラカンが揶揄気味に述べた「言存在」は、けっこうオモシロイのだ。「言語」の〈了解〉が〈存在〉の状態に関わってくるからだ。これはフロイトの「云いマチガイ」と同等の迫力があるとおもってイイ。
つづく

2022年7月10日 (日)

last job 5

62~

62・抑圧されていたエネルギーが、本来的に言語表出されるべきとき、言語変換を拒まれて別の変容で表出されようと試みられたら、無意識のエネルギーを統べる「超自我」は、どんなsystematicを選ぶのか。その選択肢には、言語変換を望んでさらなる「抑圧」という手段を以て表現を拒む確率もある。
63・そのような無意識へのさらなる抑圧は、表現という意識的な表出を拒んで「意識への抑圧」と「無意識的」に変容する確率もまたある。
64・それは「抑圧」された無意識下のエネルギーが、意識的に表現されずに、そのまま作用素を逆行することになるということだ。
65・単にimage(図式)で述べれば、これは量子の活動領域が「混合状態」に変容することだ。
66・量子の活動領域が「混合状態」にある場合、波動は収束せず「重なり合わないままの状態」で動き回ることになる。
67・「66」のような状態に置かれた場合、「outputされるべき表現」は、あたかもそのままで「疎外」されたかのような状態になる。
68・方程式に従えば「表現され得ずして疎外されることはナイ」ゆえ、混合状態でエネルギーがそのままで「意識の抑圧より上位の状態」となったとき、それでもoutputされたものは、無意識→意識=疎外ではなく、無意識→無意識=疎外として現出されたものになる。つまり無意識は意識された表現になり得ていない。
69・それは、現出されたモノの向き(ベクトル)が、「外向き」にも「内向き」にもなるということだ。
70・この場合の量子は何に属するのかを「重力」と仮定しておこう。
71・何故なら、エネルギーは意識の抑圧の度合いからして最も弱くなっており、そのヒトに働いている「重力波・重力子」は作用素を通過しても、function(作用・変容)の度合いは少なくなるだろうが、変容されていることに変わりはナイので、試みに最も弱い「力」を充てたみたという、それだけのことなのだが。
72・状態ベクトルが不完全な(収束しない)まま現出されることが起きた場合でも「疎外(起きるべきは起きるべくして起きる」)は、量子力学的に確率としてあり得る。
73・極論すれば、疎外が表現ではなく疎外のままで作用素(function)を通過する、あるいは逆行することも確率としてはあり得る。
74・量子力学的には厳密に正しくはナイとしても、具体的(現実的)に、言語が言語として表現されずに表出するという現象を私たちは経験している(或いは垣間見ている)。
75・およそ「鬱病」の表出「鬱疾患」とは、そのような現象(あるいは形態)にみえる。(また当人にとっては感覚される)。
76・とりあえずながらまとめれば、「鬱病、鬱疾患とは、言語が言語として表現されずに表出してしまって表現されたときの疎外」である。
77・この表出が、身体的、精神的に苦痛、苦難をともなうのは、もとより人体という自然が、身体性としても精神性としても、そういう「疎外」のmechanismを持ち得ていないからだ。
78・この命題(仮説)(「77」)が正しいとして、では、言語が言語として表現され得ないとは、当人にとってどういうことの(何の)因果で生ずることなのだろうか。
79・その考察、試行のために、私たちは「言語」と「因果」における〈了解〉に進んでみる。
80・「了解」。「無意識を意識化して表現」するその表現は何のためになされるか。ここにきて、私たちは「communication(伝達)」という鬱病、鬱疾患に対してまったくチガッタ視点、視向、試行に辿り着く。
つづく

2022年7月 8日 (金)

last job 4

47~

47・フロイトが「無意識のエネルギー=リビドー」を関知、察知、発見したのは女性のヒステリー発作の原因を治療(research)している途上においてだ。ここで私が興味を引かれるのは彼の情況そのものより、Hysterieというものが、「起きる・起こす」という述語を持つということだ。
48・この場合の「起きる・起こす」を用いた文節で有名なものを一つ挙げる。「Que Sera Sera」。訳すと「起きるべきことは起きるべくして起きる」。ヒッチコックの名作映画『知りすぎた男』でドリス・ディが歌った「ケ・セラ・セラ」の「なるようになる」という訳は意訳である。というよりこの言語「Que Sera Sera」は映画用に創られたもので、どこの国のどのコトバとしても存在しない。(1954年の映画『The Barefoot Contessa(裸足の伯爵夫人)こっちも佳作だ』では家訓として用いられている)。
49・とりあえず「疎外」の意味を哲学、マルクス経済学でresearchすると「人間が作った物(機械・商品・貨幣・制度など)が、逆に人間を支配するような力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう」となる。この状態は「自分が自分でありながら、その自分のせいで自分のおもいどおりにいかぬこと」となり「起きるべきことは起きるべくして起きる」という多少、因果論めいた意味づけは疎外とは逆のようにみえるの〈本質〉になる。(これについては、もうすこし検討をするつもりだ)。
50・主語と述語を「分けることが出来ない」ものとしての了解は、一休禅師のいう、ヒトの存在はほんらい「無漏」であるということも示しているのだが、おそらく一休禅師の場合は、この作用素を「純粋状態」において思考しているので、「人間があるべき自己の本質を失う状態」とは解釈していない。(これについても後に検討、考察するつもりだ)。
51・マルクスの「疎外論」によると「表現=疎外」という価値形態は、作用素におけるoutput「情況論」ではなく「本質論」に位置づけられる。
52・マルクスは『資本論』において、労働で造られた商品や素材に二つの価値形態を設け、それを左辺、右辺に分け、双方の価値形態(たとえば、リンネルや、一着の上着や、石鹸や、小麦)を「=(等号)」で結んで、そこから「貨幣」という商品が何であるかを炙り出す(導き出す)のだが、この場合、「=」が数学的に何を示しているかについての説明は一切ナイ。また何れの場合の右辺と左辺の関係も単純にこの記号「=」で示している。これは杜撰という他ナイ。(たぶん『資本論』の欠陥はここにある)
53・Hysterieを疾病ではない現象として捉え、それを「表現=疎外」に当てはめれば、Hysterieは何らかの表現だと代替することが出来る。
54・おおよそ「表現」として表出するものは「疎外」と「=」である。この場合の「=」は使用価値や交換価値が「同じ」というものではナイ。双方の労働に費やされた時間が同等ということでもナイ。もちろん価格でもナイ。ここで経済学を蹴飛ばして云ってみれば、この「=」の意味は「表現されたモノは表現した当人に同等の疎外を与える」に相当する、とかんがえるのが妥当だろう。
55・ここで哲学や医学からも逸れて、Hysterieという現象は当人の「表現」だと仮定してみる。ただし、「無意識のエネルギー」の放出であるという定義は固守しておく。
56・まずそれは言語とはチガッテ、身体的「表出」による表現に近似する。それが言語による放出であっても、言語という「系(system)」からはおそらく逸脱しているとおもえるからだ。
57・言語が「無意識を意識するための手段である」ならば、言語系から逸脱したHysterieという形態は「無意識というエネルギーの意識的な表現」であるのか。
58・そうではなく、Hysterieなどの身体系現出は「言語され得ないものの表現」、つまり「無意識の無意識」的な表出ではないだろうか。つまりそれは、「言語によって表出(表現)されるべきものが、言語以外という現象のままで表出された表現」ということになる。
59・いい換えれば、言語系で表現されるはずのものが、身体系的に表現されてしまったということだ。
60・さらにいい換えれば、「云いマチガイ」が身体系的に表出されたということになる。
61・つまり「Hysterieとは身体系的な云いマチガイ」と云える。
2022/07/10/改

2022年7月 6日 (水)

last job 3

31~

31・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)と無意識には密接な関係がある」というフロイトの提唱はヒジョウに重要なものだ。ことは〈表出〉についてだからだ。
32・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)」は、無意識からの表出だ。と、フロイトは喝破する。
33・私の友人で詐欺が仇になって消息不明の者がいるのだが、彼の言い損ない(云いマチガイ)は、きわめて明確なものだった。たとえば、事務所で「トイレに行きたいのだけど、靴下貸してもらえるかな」「昼飯の買い物に自転車が借りたいのだけど、抽斗はどこにあるのかな」といったふうに。
34・「33」のコトバ=表出は、云いマチガイの表現なのだが、フロイト以前の哲学者たちは言語を意識的表出による表現として扱っていた。つまり内在する思考を外に表出させる道具(デカルト)や内在思考の構築(ルソー、ヘーゲル)のように。
35・しかしフロイトは言語を「無意識を意識するための手段である」と仮定した。
36・有名な『夢判断』においては、夢の記憶を当事者に語らせるのだが、それが不正確なものであっても構わない。夢などではナイ当事者の思いつきの創作であっても構わない、としている。何れにしても当事者が〈無意識〉を意識化しているからだ。
37・フロイトにとって言語化するということは、無意識へのアクセスなのだ。
38・ジャック・ラカンはハイデガーの〈現存在〉の向こうを張って人間の存在を〈言存在〉と定義している。ヒトによる言語の発明は進化の過程による〈大脳化〉(今西錦司進化論の中の造語)から得られたものだからだ。
39・フロイトは宗教については、幼年時代に端を発する苦悩が疾病の発症となる、と解釈したが、ラカンは1950年代までカトリックの熱烈な信者であった(という伝承がある)。1960年代になるとカトリックに疑問を持ち始め、1975年あたりから再びカトリックへの信仰に戻ったのではないかという(不確定な伝承がある)。これをどう解釈するかは、解釈する側の〈権利〉である。
40・それは「全て」というワケではナイが、言語にはある程度の曖昧さや、明確な云いマチガイが含まれている。この点について私は不勉強ではあるが、ソシュールやウィトゲンシュタインの「発語」のみにおける言語学の欠陥として、単に「一対一対応」を基にしたの言語学は演劇には不向きだと著作(『恋愛的演劇論』)で述べた。
41・演劇では「せりふ」という発語があるが、「沈黙」という言語も存在する。相対するもの、dialogueにおける両者それぞれの「沈黙」は、発せられないだけで、フロイトふうに述べれば「無意識」に抑圧されてエネルギーとなっている。
42・また発せられるから意識的で、発せられないから無意識のままであるという分け方もしない。
43・「示唆的な言い損ない(云いマチガイ)と無意識には密接な関係がある」「言語は無意識を意識するための手段である」を念頭において「2・鬱病とは、ほんらい表出されるべき〈モノ〉が疎外されて表出された〈状態・情況〉をいう」について「詩作」という表現と「鬱病」における鬱疾患をかんがえてみる。
44・「詩作」は意識的な云いマチガイの表現といえる。たとえば東京のことを「灰色の空の下の人々、彼らの吐息だけしかない空気」と表現する「詩作」は意識的な「創作」だ。東京のことがそう云えればヨイ。何故ならそれは無意識の欲働エネルギーの表現なのだから。
45・こと鬱病、鬱疾患においては、その欲働エネルギーの表現が正統(正常)に行われない。欲働のエネルギーは意識的にではなく、無意識のまま「云いマチガイ」される。そうしてその「云いマチガイ」は発語だけではなく、身体的作動としても行われる。それは〈痛感〉であり、〈呼吸苦悶〉であり、そういった外部放出でナイばあいは内部に向けての〈だるさ・易労感〉という具体性(病態)として現出する。
46・では、何故、そういったカタチで現出するのか、この作用素を「疎外」として捉えることにした場合、「では疎外は何故生じるのか」という巨大な難問にぶちあたる羽目になる。

2022年7月 5日 (火)

last job 2

15~

15・フロイトの最大の功績は、〈意識・無意識〉という概念を理論的に整理したことである。(その発見者というのではナイ。それについては資料をresearchすればちゃんと出てくる)。ここで、ジグムント・フロイト(英語読みはフロイド)の論理を、簡単に述べておく。
17・「抑圧された欲働は生命エネルギーの根源となっている」。これは、人間の行動のエネルギーの源泉を物理学の第一法則にまで探求していく過程においてのinspirationだとおもわれる。(エネルギーを探求するのは物理学なのだが、エネルギーというコトバは副詞的、比喩、文学的とやらに使われる。フロイトはエネルギーを物理学で考察した)。
18・彼はその「欲働のエネルギー」の存在するところを〈無意識領域=エス〉と名付けた。
19・〈無意識領域=エス〉をcontrolするものを「超自我」と名付けた。
20・〈無意識領域=エス〉のcontrolの方法として、「超自我」は〈抑圧〉を選んだ。
21・「超自我」の〈抑圧〉による〈無意識領域=エス〉によって生ずる心的な領域を「自我」と定義した。としておく。
22・従って「自我」は〈無意識領域=エス〉と、「超自我」のcontrolによるひとつの現象である。よって、それは〈無意識〉や〈意識〉同様に、「身体的なものでも精神的なものでもナイ」。いわば双方の関係の確率性による〈現象〉だ。
23・「自我」はマルクスの「疎外論」でいうところの「疎外」に晒される。
24・マルクスによる「疎外論」が、フロイトにおける「精神分析」に大きく影響しているのは理の当然とおもわれる。
25・フロイトは「17」~「22」(無意識の存在)の査証を「リビドー(性的欲働)」を用いて論理化するのだが、この類例があたかも量子力学の法則が「不確定性関係」そのもののように誤解された如く、フロイト精神分析理論の中枢と見誤れ、すべての精神、神経障害は「性的欲働」に要因を持つと収斂されるかのような誤解を生じることになる。
26・こうした誤解はカール・ポパーによって、さらに膨張(拡張)する。すなわちポパーお得意の、「反批判出来ないものは科学ではナイ」のだから。ポパーによると、反論の余地が無い個々人の「性欲働」を基底にしているフロイト精神分析理論は方法論的にも科学ではナイということになる。ポパーの信奉者は「科学哲学」派という新興宗教的インテリに多いのだが、ポパー批判はひと言で足りる。曰く「ほんの数パーセントの不合理に反批判出来るほど未だ科学は進歩していない」。
27・しかし「何でもリビドーかよ」という皮肉は若いころ、たくさん聞いた。
28・ジャック・ラカンは、「じゃあ、性欲働を人間はどういうふうに手に入れていくのかから科学的に始めようじゃないか」と、フロイトに還れ、を提唱するのだが、その理論の難解さと、数学的思考を援用したところ、数学者からの「ラカンの数学はマチガイである」と叩かれて、いまや派閥争いだけが展開されている。(もったいない)
29・「数学」と「数学的思考法」はチガウのだと、論を開いてもイイが、ここは鬱病(鬱疾患)に照準を合わせているので、そこまで回り道はしない。この論考だって、「量子ビットはそんなんじゃないよ」といわれたら、そこまでだからな。
30・戻して、ここで大事なのは「2」と「20」~「24」なのだ。
2022/07/09/改

last job 1

Congratulations birthday 70 years old.と、とりあえず人並みに。
(そうなんだな、中島みゆきさんと同い年なんだなあ。水谷豊さんとも)

さて、超有名人のお二人には、歌とドラマで仕事を続けてもらうことを祈りつつ、私のこの世界(人生)最後の仕事は「鬱病・鬱疾患とケリをつける」ことだ。そいつが何であるのか、この宿痾、業病、半世紀に渡ってよくぞ私を苦しめた。ああだこうだと考え書いてきたが、やっぱりナンカこう、落とし前をつけてから「ヨシッ」という〈覚・悟〉があってからこのニュートン力学世界におさらばしたい。
というのが、七十歳のおもいのココロだ。

では、早速始める。即効稚拙。
randomに、liner notesのように、samplingしてremixしていく。

鬱病(鬱疾患)の定義=あるいは命題としての提示(あるいは単なる仮説-着地希望地点)
1・鬱病とは、精神的な疾病でもなく、身体的な疾病でもない、よって疾病ではない。
☆45年前も現在も、抗鬱剤は数多出回っているが、鬱病が何であるのかは医学的にワカッテいない。
つづける。
2・鬱病とは「ほんらい表出されるべき〈モノ〉」が「疎外されて表出された〈状態・情況〉」をいう。とりあえずこの状態、情況を鬱病における鬱疾患と名付けておく。
3・鬱疾患とは「表現-表出」として捉えられるあらゆるものを含み、「表現-表出以」として捉えられるあらゆるものを含む。
4・ここでいう「表現」とは、〈意識的〉領域な作用素をもつものであり、「表出」とは〈無意識〉領域な作用素をもつものである。
5・これらは量子ビット思考を用いた思考であり、〈意識的〉作用素と〈無意識〉作用素は(重なりあったビット)として了解される。
6・この「重なり合ったビット」とは、「積み上げられた」としてもかまわないが、私にしてみれば無限枚数のセル動画の重なり、無限のトラックを持つ音源として量子ビットをimageしているので、そのようなimageにおいての記述をつづける。
7・ここでいう〈意識・無意識〉は、前述したたとおりフロイトに倣っている。
8・フロイトと弟子であった(理解者であった)カール・グスタフ・ユングとの決裂は、この〈意識・無意識〉領域の在り方を巡ってのことだ。と、その程度に理解しておいたほうが単純明快でよろしい。
9・つまり、フロイトは意識と無意識は個別に存在するものではナイと、両者の対称性を述べたのに対してユングは独立して存在するという固別性に確執している。
10・フロイトからすれば、この〈意識・無意識〉は物理学でいうエネルギーの第一法則からの転用、応用であるから(よって対称性である)固別の存在では有り得ない。つまりどちらか一方だけが存在するということは不可能である。(常に対称だということだ)
11・似たようなことは仏典でも「不二の法門」として、『維摩経』でも述べられている。簡単にいえば、「二つに分けてかんがえてはいけない」という教えで、たとえの最たるものは「仏とひとを分けてはイケナイ」だ。これは、一休禅師も『般若心経』解読において『無濾』と称し、大心とも称する。小心(有濾)はなんでも二つに分けてしまうが、ものごとは大心(二つに分けられるものではナイ)でかんがえるべしと説いている。数学では似た概念に〈収束点列〉がある。
12・私は〈意識・無意識〉領域の在り方においては、フロイトの流儀に倣うが、いわゆる唯物論者においてのこの〈意識・無意識〉の領域は脳、身体の何処にも顕現あるいは認められないところから、「観念の装置」というやや苦しいスキームとして捉えている。
13・しかしながら量子ビット思考は、ユングの方法論もビットの一つとして扱う。つまり、これすら「分けない」のだ。
14・量子ビット思考について、とりあえず、こういっておけばイイとおもわれる。/量子ビットは、普通のビットとはチガッテ、「0であり、かつ1でもある」。これは「粒子でもあり波でもある」とする量子力学の量子に対する考察と同じことを基本的に用いているということだ。
2022/07/09・改

2022年7月 3日 (日)

Sophism sonnet・69,12-13

捕捉

『敵基地攻撃能力』⇒『反撃能力』について、こないだの総裁選で高市早苗が(継承略・私は政治家には継承をつけない)主張していたのは/EMP(電磁パルス)、ElectroMagnetic Pulse攻撃/のことで、これなら敵基地を「点」で絞らずに位相(近傍)攻撃は出来ます。
とはいえ、核の爆裂による攻撃と同じです。北朝鮮はすでにそういった小型核ミサイルを配備しているという〔報告〕もあります。
この兵器の詳細はネットにあるのでここでは記述しません。興味ある読者はresearchして下さい。

2022年7月 2日 (土)

Sophism sonnet・69,12-12

あれこれへの、なにそれ

Internet expressからinternet edgeになって、インポートしなくっちゃ、てんで、けっきょくマシン状況もなんだかウェブも混濁を究め、おまけにやつがれは「7」使っているので、あっちゃこっちゃ、「アチャコ状態」となり、internetは使いにくく面倒なものになり、どうしてそういうことするのよ、といいたいけど、一部のスイスイ派にとっては環境は良くなっているのだろう。ともかくやつがれにとっては、ID、パスワード認証不可の続出で、どうも、書きたいことが書けずに、遅れて、こんにちであります。
ホームにしている〈アットニフティ〉さんは、いままでどおりの懇切丁寧で粘り強い対応で、今回も信頼を強くしましたぞ。ここにはまだニンゲンがいるのよ。
さて、本題。
遠のむかしにたち消えたのかとおもっていた『敵基地攻撃能力』⇒『反撃能力』が憲法違反かどうか、まだ論争しているらしい。当初目にしたときからワカラナカッタのは、敵基地にせよ、反撃にせよ、それが専守防衛か否かにせよ、「敵基地」の場所が防衛省自衛隊に判明しているのかどうか、ということで、いったい何処を狙って撃つのか、迎撃ミサイルのほうは立ち消えになったのだが、まだこちらのほうが現実的で、なにしろ迎撃率が低くても飛んで来るものが捕捉出来るのだから。だいたい、何処の国の(おそらく北朝鮮なんだろうけど、中国は遠すぎるしね)サイロではない、すでに列車移動方ミサイル発射設備(また、配備中の潜水艦方)をどう攻撃するのか、素人の(軍事評論家でも軍人でもナイ)私にはまったくワカラン。北が有事となったら巡航ミサイルなんかで攻撃してくるワケはなく、まず戦場核(戦術核のうち戦粋核よりさらに小型)ミサイル攻撃になるのだろうけど、それでも、名古屋市くらいならほぼ壊滅させるくらいの能力はあるだろうし、これを迎撃するのは打率三割未満でしょう。なにしろ発射から三~八分しか防御の余裕ないけんね。

命に関わる猛暑でへばっていたら、なんだかウクライナはロシアの大量ミサイル攻撃で、守備側としての弾も尽き果て、米欧の経済制裁は、世界インフレへと裏目に出て(裏目というワケではナイんだけど、要するにロシア側の抜け穴が多かったということで、そんなことくらいどうしてワカラナカッタのか私にはワカラナイ)、戦争は資源の多い国の勝ちということは、太平洋戦争の日本敗北で学んでいるはずなのに、ともかく、いくいくららフィンランド、スウェーデンでロシアを取り囲んでも、プーチンなんかに「ご自由にどうぞ」といわれているありさま。
このプーチン、当初、私までもが、ちょっとこのひと精神は大丈夫かいなとおもっていたのだが、いたって正常な悪人。考えることが、インターネット無し(プーチンはヤってないのだ)より正確で、悪事千里を走るとはこのこと。「サハリン2」を突然、国有にすると大統領令を出しましたナア。電力量ギリギリの日本は冬が越せない。越冬燕じゃあるまいに、ちゃんと日本の資源不足も情報化してのNATOともども攻撃。さあ、どうする岸田。
物価が上がっているといっても、現状燃料資源関係がともかくダントツで、これが流通に差し込んでくると、食料価格に関わってくるだろう。ともかく、地元のキャベツが98円のところ、ちょいと離れて関東ものだと198円。ナスビなんざ3本298円だぜ。このあいだ、久しぶりにスキ煮でもするかと、知多牛半分、輸入肉(どこだったか初めてみる輸入ものだったな)半分でヤってみたけど、どっちがどっちだか煮てみたらワカラナイ。山削ってモダンな新築住宅建てて、土砂崩れで流されているくらいなら、農地にして、イモでもつくっていたほうがよかないか。

:てなこといっている間に、本日はサイバー攻撃やられてますな。スマホやATM、さらに交通系もお手上げ状態。走り回る救急車には熱中症。コロナか熱中症か、トリアージになってまいりました。

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