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2022年6月 7日 (火)

Sophism sonnet・69,12-04

ナチとナチスとポチとプーチン

参院選では、自民党に入れるつもりだ。野党の名前は加齢によりみんな忘却した。
岸田ポチでイイとおもっているからだ。プーチンはお城に住んでいる。ロシアは社会主義から王政復古になった。
ナチスというのは、ナチス-ドイツのことで単なる複数形に過ぎない。これが〈ナチ〉になると、蔑称、唾棄(はきすて)呼びになる。ジャパン(日本人)をジャップというのと同じ。ポチは蔑称というワケではナイ。といって愛称ではナイ。ポチはポチである。正月のお年玉は「ポチ袋」に入っている。むかしから犬の名前で最も多かったのが「ポチ」であり、犬の別称だけでなく「うちのポチがさあ」と(いっても、犬のことをいうのではなく)奥さんがダンナのことをそういっている場合もある。そういう家庭は、奥さんがシッカリもので、ダンナは意外に頭がヨイのだ。ポチとはそういうことだがもちろん、ポチは家に住んでいる。プーチンはお城に住んでいる。つまり犬と王様(プーチン自身は皇帝と自認している)だ。
岸田総理が、悪代官という噂は耳にしたことはナイ。(時代劇では、「群代」というのも出てくるが、これは所轄地域の大きさによる区別で、群代のほうが管轄地は大きい。どっちでもいいが、時代劇ではこの代官や群代はいいふうには出て来ない。いわゆる悪代官で、善代官とか正代官というのは出て来たことは時代劇史上ナイ)安倍代官(群代)となると、総理(大老)だったのに、存在はお奉行程度でまだ議員をヤっている。桜を観ながら一杯やりつつ大店の連中から小判を集めるのが好きで、ときどきアベノミスク(阿部燻みともいう)とかで、「日本に核シェアの議論を」と、匹夫の勇のようなことをいいだしては悦にいる。たいていこういうときは悪女の大物が存在するのだが、確かにいるのだが、とかく女は化生なので黙っておく。岸田ポチは、合衆国バイデンのポチではあるが、プーチン皇帝にはウクライナ臣民が在った。それが童話なんかと同じようにゼレンスキーという道化の仮面の国士に叛乱をゆるした。(ほんとうは、そういう妄想にとらわれた)。そこで、ウクライナ臣民を解放するために立ち上がった(つもりだったんだけど)、そうしたら、NATOというネバネバ豆がゼレンスキーの味方をするではないか。このNATOは交ぜると糸を引くものだから面倒だ。しかし、プーチン皇帝はいざとなったら核のボタンがあるから、ナチス同様にウクライナ臣民を解放から一度壊滅することに転換した。ナチになったのだ。しかしポチはチガウ。「核の議論、そんなものはヤラナイ。憲法にちゃんと明記されている」これだけが、岸田ポチのワンのひと吠えである。「ひと吠え」だから、それ以外、吠えた記録はナイ。
さて、たしかに岸田ポチ総理が悪代官呼ばわりされたのは耳にしたことがナイのだが、ヤバイのはこのポチがナチポチと呼ばれるかも知れないことだ。「新しい資本主義」という、明日来る若者たちとは「円(わざとこう書く)も縁(ゆかりと、ふつうは平仮名を使う)も無い」ことを云いだして、「新しい地獄へ私とともに」とひとりいい気になって世間をケムにマイタつもりになっているところだ。そんなポスターがやたら貼りだしてある。目頭を擦ってよく読むと「新しい時代」だった。でも似たようなものだ。そんなふうな主筆である。

:うちの主筆は病気です~と、朔太郎の猫のごとく、毎晩、猫の鳴く。

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