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2022年5月16日 (月)

Sophism sonnet・69,11-09

戦争、その前に・4

数えられない死(者)。
災害時、或いはワカリヤスイところでは、昨今ではコロナの罹患者、死亡者。これらは毎日メディアで報告される。私はテレビを観ないのでもっぱらラジオのニュースで一日三回その数字を耳にすることになる。毎度同じようにロ×ウ戦争のほんとかどうかワカラナイ情報も流れてくるが、ここで報告される死者の数はまったくほんとかどうかワカラナイし、現状、ロシア、ウクライナの双方にどれだけの戦死者が在るのかも報告などナイのでワカラナイ。戦果があった場合の数字などたぶん出鱈目だろう。こういうのは情報戦や軍事機密になるのだろう。北朝鮮のコロナ罹患者数のように、軍事パレードでは0人だったのが、いきなり百数十万人になるという発表もこの国ならではと、呆れるしかナイ。
カイヨワの「全体戦争(総力戦)」と「内的体験」としての戦争をとりあげる前に、カント(そうです、あの哲学者のカントです。大学の哲学科ではカントまでしか教えません)の、ある言説を拾い上げる。私はカントについては主著の『純粋理性批判』しか読んだ(査読というほどではナイにせよ、とりあえずはね)ことがナイので知らなかったが、カントはこんなコトバを吐いている。「好きなだけ、なんでも好きなことについて熟考せよ。ただし、服従せよ」(1784年『啓蒙とはなにか』)。これについてはよくワカランひとも多かったらしい(いまも当時も)。歴史的にフランス革命前の混乱の時代だったので、それを考慮するにせよ、アリストテレス以前に逆行するような言説なのだが、1793年以降、フランス革命の暴力性にいわゆる理性主義者のカントはハッキリと保守的になり、コンプライアンスについてはともかく「従順」、秩序を守るためにはどんな犠牲を払おうとも「従順」がイイといいきっている。この「従順」というコトバはかなり深遠だ。カイヨワは、戦争というものに対して、それは「洗礼」のようなものだと述べ、これは宗教的要素の取り込みのようなものなのだが、この二つをリミックスしてみると、「全体戦争」は「聖なるもの=洗礼」であるから「従順」であるのがイイという展開になる。では、その「従順」「洗礼」のコンテンツは何なのか。
カイヨワは云う「戦争は災厄ではない。むしろ祝福なのである」。つまり「全体戦争」においては個人は取り込まれていくしかナイ」のだと。では、どういうふうに取り込まれるのがイイのかが、「内的体験」と称されるものだ。これは、バタイユの影響が大きいのだが、キルケゴールの実存主義やナチスに入党したハイデガーの哲学にまで及んでいく。このカイヨワの言説には私はまったく同調出来ない。俯瞰的程度な感想になるかも知れないが、それを若尾文子主演のとある映画を論拠にして述べてみる。
つづく、で、ござんす。


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