Sophism sonnet・69,11-07
戦争、その前に・2
ロジェ・カイヨワ『戦争論』の一章から、私たちは〈士気〉というものの片鱗は理解できたようにおもう。そうして、このような〈士気〉に依ってウクライナ兵士が闘っているとするならば、それを翼賛、少なくともその気概に感銘したい気にもなるだろうが、Just a second.
ここで今度は教養の見せびらかし、スピノザくんを登場させる。
スピノザくんは、ユダヤ教のラビになるべくタルムード教典を研究していく途上、「こいつぁあオカシイ」と、神を全否定して、それを「迷信」の中に放り込んだ。もちろん、破門されましたけどね。ここで、スピノザくんのいう迷信とは〈幻想〉と同意で、信仰は迷信から生じ、それらは〈幻想〉だと云っちゃった。スピノザくんはこの〈幻想〉を三つに分類する。
① 合目的幻想(物事の原因を運命で片付け、それらは何か目的があることだとドクサる)
有名な例えでは「人間に目があるのは見るためである」というのがあるが、これは正しくいうと、「目があるから見えるのであって見るために目があるのではナイ」というドクサになる(・ドクサる、とは「思い込む」のslang)。
② 人間中心幻想(自己中心的なドクサり)これは〇〇をすると罰がアタル、といった手合いのもの。
③ 神人形幻想(神々を擬人化するドクサり)自然現象を神の擬人化によって説明しようとすること。
ここで、この「幻想論」を踏まえて、ひとつ命題をたてる。
/戦争とはひとつの幻想(合目的幻想)である/
ここから演繹的に、〈士気〉もまた幻想に過ぎないという解が導き出せる。また、幻想でなければ無慈悲にヒトがヒトを殺し合うことなんぞ出来ないという解も。
私の学んだ学派では、このあたりの幻想は「共同幻想」と称する。〈士気〉は「個幻想」のような感触もあるにはあるが、やはり「共同幻想」の産んだ集団心情だ。「ボクモ行くからキミモ行け、セマイ日本ニャスミアキタ」と、みなさん満州開拓団で、あっちへ行ったのと同じ。よって、この〈士気〉というもの便利なものだが、危険なものでもアル。この辺が「戦争」というものの、怪異だな。
〈士気〉だけでは戦争は出来ない。カイヨワは、産業革命を経て、科学が進歩し、武器がどんどん新式のものになっていくところを踏まえつつ、「戦争は帝国戦争から〈全体戦争〉へと移行した」と論をすすめる。
ウクライナは、最初っから、大東亜戦争末期の日本と同じ、「総力戦」「本土決戦」なんだから堪らない。プーチン・イデア幻想が膨らんでウクライナ侵攻になったように、ゼレンスキーの大統領幻想も次第に熾烈を極めていくのはアタリマエのことだ。
おそらく市民も兵士も同じことをおもいはじめている「早く悪夢から覚めたい」。そうして「悪夢」をみているのは、ロシア、ウクライナ、だけではナイのだ。日本もまた、沖縄総力戦や核を二発もくらった悲惨な戦史を持ちながら、戦争の幻想、「悪夢」の中に在る。
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