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2022年5月19日 (木)

Sophism sonnet・69,11-12

戦争、その前に・7

つづき。
以下、論ずるものは、カイヨワが『戦争論』で述べる「祭り」に対する認識(捉え方)への、疑義、反論、批判、というよりも、「そら、あんさん、チガイまっせ」という誤謬の指摘に近いと私め愚頭ながらかんがえたものだ。
まず、第二部・第七章でカイヨワはこうくる。/戦争の実態は、祭りの実態にあい通ずる/。そんなことは形態の同似からの錯覚以外に絶対に有り得ない。で、ないならば、カイヨワが戦争の基本原理と信じている「聖なるもの」の乱舞饗宴と忘失の恍惚を「祭り」の中に見出したという〈早トチリ〉に過ぎない。「そうきたか。しかし、それ、二歩やでカイヨワさん」とでもいいたいくらいだ。
/「戦争」と「祭り」とは二つとも、騒乱と動揺の時期であり、蓄積経済のかわりに浪費経済を行う時期である/。これは単純にカイヨワの経済学に対する無知のさらけ出しだとおもわれる。解説者の西谷修センセイ(哲学専攻)も「生産原理の社会が爆発的な消費に陥ってしまわないため」に祭りの熱狂が用意されている、という見解で、そうくると出るかなとおもっていたらやっぱり出た。「リオのカーニバルがその典型的な例」と仰っているのだが、お二人とも(といてっもカイヨワは没している)、まったく経済学のいろはをやり直されたほうがイイ(私はせいぜい「い」しかヤってナイけど)。『生産=消費』というマルクス経済学系弁証法の公式を持ち出すまでもなく、「祭り」ほど生産的なものはない。たしかに「戦争」ほど莫大な消費はないけど、ヤっている当事者は〈浪費〉とはおもっていないだろう(必要経費なんじゃナイの)。
さらにいうならば/「戦争」と「祭り」には共通点/などはナイ。あるようにみえるのは、この場合、みかけ(情況)で、ものごと(本質)を判断しているからだ。両者にあるのは「対立点」だけであって、その対立作用素を〈thanatos〉と〈Eros〉といってもイイのだが、また実際そういう対立のさせ方は可能なのだが、明確に云いきれないのは「祭り」というものには、日本における「お盆」やその行事の「盆踊り」のような〈死者の帰省〉という、どちらでもナイものや「いなせなもの」としての「祭り」もアルからだ。
/戦争の実態は、祭りの実態にあい通ずる/という命題を定義、原理としたければ、その論理は限りなく自同率、同一原理、同義反復になっていく。適宜にいえば、つまるところ「似たるところを取り出して、同じだ、といってしまえばイイ」ことになるからだ。
よってカイヨワは/とはいえ戦争と祭りとは、いくつかの基本的に異なった性格を持っている/。と「王手飛車取り」で飛車を守るようなことをいわねばならなくなる。いくつかの基本的に異なった性格を持っているものを似ているだけで〈同一視〉することなど可能なのか。出来るワケがナイ。それでは飛車かわいさのあまり、王を持っていかれる素人将棋の典型ではないか。
/祭りがその本質において、人びとの集まり合体しようという意志であるのに反して、戦争は壊し続けようとする意志である/。これはもう誤謬というより「馬脚」であって、「戦争」自体には〈意志〉などは無い。「戦争」とは目的を遂げる〈手段〉に過ぎない。擬人化ではおさまらねえ。ここから「集合的無意識」とかいい出されたら、手のつけようがなかったワ。
戦争を「祭り」だろうが「遊戯」だろうが、類似の理屈で論(あげつら)ってかんがえても仕方ないと私はおもっている。なぜなら、戦争はクラウゼヴィッツの述べたように、どうしても「政治」なのだからだ。「政治(戦争)」は理屈ではナイ。権力の偽名、別名だ。もっと蔑視していえば「汚名」「こじつけ」である。カイヨワのいう「内的体験(戦争)」と呼べるものが兵卒にも一般市民にも在るとするならば、それは個的な、生きようとする意志としての、さらにはそのための異性愛・母性愛・友愛・自己愛であるErosであり、それらは「戦争」という共同幻想とは正反対の幻想に他ならない。

あと、ちょっと(「核戦争」「ハイパー・ハイブリッド戦争」)で終わります。

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