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2022年5月18日 (水)

Sophism sonnet・69,11-11

戦争、その前に・6

つづき。
/戦争は、聖なるものの基本的性格を高度に備えたものである。(略)それは恐ろしいものでありまた感動的なものでもある。人はそれを呪い、称揚する。(『戦争論』第二部・序)/
で、あるのだが、カイヨワはこの「聖なるもの」を何処からサンプリング、インプットしたのか。ドイツの宗教哲学者ドルフ・オットーの著作に『聖なるもの』があり、それはキリスト教の「聖人」や「神聖さ」とはチガッテ、もっとプリミティヴ(原始的、野性的、未発達なものを称揚する態度および思想)のことで、「混沌とした、恐れを誘うようなもの、それゆえにまた魅惑するようなもの(=する経験)」。だが、カイヨワが最も影響を受けたバタイユからよく似た概念を引っ張てみると/とんでもない。ただごとではない。通常ではない別格のもの。そういうものは怖くもあるが、また惹きつけられもする。危険かも知れないが抗いがたい魅惑的なものである。善悪の判断以前の混沌に人を巻き込んでしまう。合理的、客観的な判断が成り立たない。直接的、非合理な崇拝や畏怖の対象にもなる。それが聖なるもの(=こと)だ/になる。カイヨワは、全体戦争の状況をそれを踏まえて捉えようとした。(このあたりはNHK・Eテレ・テキスト・2019・8月・西谷修の解説に多く拠っている)。西村修テキストでは、全体戦争とはいえど、その状況を(兵士としてだとおもうが--ブログ主筆--)生きるのは一人ひとりだから、その個人に生じるものとして「内的体験」が語られる。「それは「神なき神秘的体験」への固執、恍惚である。バタイユはこれを/「非=知」の体験/とも述べている」とある。
この「内的体験」は、「帝国戦争」以降の戦争そのものの変容、変貌(いわゆる戦闘の機械化)とともに生じてきた兵士の内的心情だ。気づかれた読者も在るとおもうが、まるでナチス・ドイツが用いた洗脳・宣伝のようだ。ヒトラーは、ドイツ軍の初年兵軍隊の兵士整列を前にしての演説で、こう口舌(タンカ)をきった。「諸君たちは各々が別々、個々の一人ひとりである。だから諸君たちは尊いのだ。素晴らしいのだ」けして「総員が揃ってドイツ軍の勇猛果敢な兵士だ」などとは云わなかった。しかも、その演説は、必ず夜、サーチライトが踊る会場で、その会場だけが夜の闇に拮抗する演出のもとで行われた。カイヨワはこう書く。/このような秩序をそっくり受け入れることの出来る人間は、偉大なものとなり、その真の自由さを見出す。人間にとってこの真の自由さというのは、ある崇高な行動に全面的におのれをささげることにほかならない/
途中で挟み込んでしまうが、このようなことは、プーチンにせよ、ゼレンスキーにせよ(特にゼレンスキーにおいては動画で)兵士たちを鼓舞激励するのに語ったにチガイナイ。これは、「不安」と「虚無」に立ち向かう欧州思想の歴史の特色としての、キルケゴールやハイデガーの発明と寸分変わらない。キルケゴールの場合は「絶望の絶望」であり、ハイデガーの場合は「人間存在の本来的なものは不安」だったりしただけで、相手が驚異的な畏怖である「聖なるもの=戦争」になっているだけのことだ。
「驚異的な畏怖」、もちろんそれはマチガイなく「死=thanatos(タナトス)」「戦死」である。ここでは、Erosとして迎えられるはずの「生への意志」はそっくり、まったく逆の「死への誘い」として成立している。こういうことが何故、起こるのか。それはそんなに難しいことではナイようにおもわれる。曰く日常的に使われる「死んだつもりでヤレ」とか「命懸けでいくぞ」とレベルを等しくするものだからだ。(戦争ではホントに死ぬんだけどネ)
カイヨワは、この忘失の恍惚と乱舞饗宴をもたらす「聖なるもの」を「祭り」と関係させている。

まだもう少しつづく、です。

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