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2022年5月

2022年5月29日 (日)

Sophism sonnet・69,11-16

バリバラ

劇団に在籍していた神戸浩からの依頼(紹介かな)で、NHKの『バリバラ(本タイトルは『バリバラ みんなのためのバリアフリー・バラエティー』)のトーク部分に出演してみたが、テレビが無いのでリアルタイムでは観ていないのだが、番組のDVDが送られてきて、それを観て、そうかなるほど『共同幻想論』『マス・イメージ論』とはかくなるものであったかと、今更ながら「あのホンの主旨がよくワカッタ」ので、ちょっと長年の肩の荷が降りた気分だ。「国家というものは〈共同幻想〉ではナイ」という命題も半可通だったのが理解が出来て、それだけで充分に価値ある番組だった。(私にとって、『マス・イメージ論』などは、『ハイ・イメージ論』よりも難度が高かったからな)。
いい換えれば、(二回しか観ていないのだけれど)『バリバラ』という番組はfunctionされた(テレビのバラエティ番組なので、演出、編集されたということになるのだが)マス・イメージなのだ。nonfictionでもナイ、fictionでもナイ。といってrealityがあるのは登場する「身体障害者」と呼ばれる彼らの身体以外には何もナイ。アトは、ふつうの(健常者というのだが)方々がおやりになっていること、さらにはおやりになれない〈許容度合い〉のアップされたバラエティ番組なのだ。サンプリングとリミックス、そいつを重度障害の方ではナイ、社会的ハンディの高い方々を活用して製作している、けして受け太刀ではナイ打ち太刀の番組なのだ。
ちょいとネット・レビューをみてみると、「見せ物」というコトバも(否定的な意味合いで)みられるが、たしかに「見せ物」だとおもう。製作者側が「見せ物=バラエティ」だといっているのだから確信犯なのはマチガイない。
私が出演した「神戸浩、涙のお父っつぁん編」(と、これは私が勝手にそう称している)では、番組中に神戸自身のコトバとしてあったように「ボクは世間を見返してヤリタイ。このカラダでっ」がほんとのテーマで、感動というよりリベンジだったな。リベンジというのが語弊になるなら「反抗」「抵抗」でもイイ。~かのリベンジ、反抗に雨が降らせたいと望むなら、神よ雨を降らせよ~(と、スッタニパータふう)でござんす。

2022年5月27日 (金)

Sophism sonnet・69,11-15

分断

「むかしさすらい いま絆」とかいうフレーズが巷に現れたかとおもうと、すぐにどっかいっちゃって、昨今、耳にするのは「寄り添う」と「分断」なんだけど、なるほど、この二つは正反対の意味だなと理解出来なくはナイ。アトは「国連の機能不全」なんだけど、こういうのはたいていメディア関連もしくはいわゆるSNS現出で、なるほどそうだねだなんて聞き流しているのはちょっとボケだな。
「分断」については、「分断」されていなかった世界なんてのが歴史上あったのかと自問すれば、そんなのなかったヨ。分けられて、関係が断たれているなんてのは、いま始まったことじゃナイなあ。「分断」をわりと具体的に責められているのが「国連」なんだけど、つまり世界をまとめる力が無いということなんだけど、「国連」というのはなるほど理想的にはそういう機関、権力があるシステムだとおもえばおもえ、だナ。「国連の機能不全」なんてのがいわれだしたのは、いままで陰に隠れていたかのような組織が、ロ×ウ戦争関係の「安保理」で、どんどん前に出てきて、「拒否権」やられて、それが「機能不全」なんだけど、それはそれで「機能」じゃねえのかね。だって、少なくとも世界中の大小さまざまな国が集まって、世界の情勢の情報は得ていて、ロシアやアメリカや日本の姿勢は観ることが出来るのだから、それで私はイイとおもう。誰も(どこの国も)ロシアが始めた侵略戦争にロシアが反対するなんてparadoxが起こるなんて魔法がみられることを期待してナイでしょ。「国連」の機能はそういうこと(もの)ですよ。
「寄り添い」たいヒトは寄り添ってりゃいいとおもいますよ。でもね、釈迦ブッダは最も古い教典「スッタニパータ」で、こういっている(正確には、そういったと記されている)。
「あらゆる生き物に対して暴力を加えることなく、あらゆる生き物のいずれをも悩ますことなく、また子を欲することなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」。おれは「寄り添う」よりこの「ただ独り歩め」のほうが好きだナ。孤独、ねえ、おれはそういうのはワカラナイ。「退屈」のいい換えじゃないのかね。そういうのより、この気温差の激しさのほうがキツイ。自律神経の不調で鬱疾患がひどくなって、朝っぱらから錯乱して喚いたりして、そいでその記憶がナイんだから始末が悪い。ともかく「犀の角のようにただ独り歩め」に近づけるよう、修行だな。
ロシアが負けるというニュースの翌日には、ウクライナ苦戦って、ウクライナに多大な軍事援助しておきながら、アメリカがいうにはウクライナ「分割」も考慮なんて、まあもう、白人のヤルことは信用ならねえ。しばらくはニュースは聞きたくナイな。

2022年5月21日 (土)

Sophism sonnet・69,11-14

映画評 『モスル ~あるSWAT部隊の戦い』

「話がみえない」というレビューもありましたが、レビュー平均は3,7~4,1です。私はたまたま「戦争」のことをブログに書いた直後に観た(といっても例によってDVD鑑賞ですから1年遅れているのですが)☆五つでイイとおもいました。
たしかに「話がみえない」というのは正しいのです。理由は二つあります。一つはこの映画はイラク戦争のSWAT(Special Weapons And Tactics)特殊部隊がイスラム国と「ある任務遂行」のために闘うだけの映画で、ストーリー(お話)のようなものはありません。あるのは「情況」だけです。しかし、この「任務」が何であるのかというのかが、シド(ミソの上)です。もう一つは、イラク戦争という史実(内容自体は事実)に基づいているので、「お話」にはならないのです。「話がみえない」と評したヒトが莫迦なのではありません(少々、世界情況に疎い、幸せな方という気はしますが)。
「モスルに勤務する21歳の新人警察官が、身内をISISに殺された者たちだけで構成されているSWAT部隊にスカウトされる。部隊がISISの要塞を目指す中、青年はチームに課された真の使命を明かされぬまま、隊員たちと壮絶なゲリラ戦を重ねていく」というふうにウイキではなっています。初公開: 2019年9月4日ですが、日本公開は2021年あたりじゃないかとおもわれます。監督: マシュー・マイケル・カーナハンです。なんとまあ、映画の中で出演者の誰一人米語は喋りません。しかし、カイヨワの述べた「内的戦争」はみごとに描かれております。SWAT部隊の10名(だったとおもいますが)の隊員は誰も米欧のことなど信用しておりません。米国のSWATなんですけど。国家、国境など、欧米によって引かれたただの線だというせりふがありますが、そうかんがえればロ×ウも、その線をめぐって殺し合いをしているだけで、「お話」などナイのです。そうおもえば、確かに「話しにならない」ことをロシアとウクライナ、広くは米欧、中国(この国はロシアのウクライナ侵攻数ヶ月前に、世界の、とりわけカナダなどからから小麦を爆買いしています。確信犯ですナ)等々はヤっているのだということがワカリマス。日本ですか、イイ国なんじゃナイかとおもいます。(安倍ってまだ国会議員しているんだ。ちょっとビックリですワ)と、そういう国ですナ。


2022年5月20日 (金)

Sophism sonnet・69,11-13

戦争、その前に・8

「核戦争」と「ハイパー・ハイブリッド戦争」。
ロジェ・カイヨワの『戦争論』の「結び」はひとことでいうと〈暗い〉。
/憎悪に満ちた絶対的な闘争の時代の到来/(第二部・第七章)とあって、/大量殺戮が行われるようになった時、この国民戦争のなかで、すべての戦闘員は自律的に行動し得ぬものとなった。(略)極端にいえば、もはや戦闘は行われなくなってしまったのだ。人びとは、生産し、運搬し、破壊するに過ぎない。/(結び)。
/ここにおいて無防備な大衆は、遠くから発射された強力ナロケットにより全滅させられるだけである。/(同)。
「核戦争」に対する予想以外にも、ハイブリッド戦争(カイヨワはその一部である事象を「大部分計算機によって行われる」と記したが)に対する危惧もある。いわゆる「冷戦」が終了し、一発で英国全部を壊滅させるような大量殺戮兵器と、その逆にアメリカが本土を大規模なテロ攻撃に晒されてからの戦争は、国家×国家の戦争ではなく、「テロ戦争」という目に見えにくい戦争がつづくだろうと予想され、それはアフガンをはじめとして、さまざまな地球のあちこちで、いろいろ生じてきたが、この「テロ戦争」というよくワカラナイ目にみえにくい戦争は、ロシアのウクライナ侵攻軍事作戦(戦争なんだけど)という、世界中の目に見え過ぎる戦争の登場で、文字通り世界が引っ繰り返ったが、これは、このブログでも前述したように、プーチン-イデア(プラトン)と、NATO-アリストテレスの第三次大戦の始まりに他ならない大きなカタチで露出した戦争だ。「最終兵器」と名付けられた「核」は凍結していたのではく、身を隠していたに過ぎない。「核戦争」が「核抑止」ではなく、いきなり「核脅し」として「作用」されるというアルゴリズムの変換が起きたのだ。
プーチン-イデアのNATO-アリストテレスへの警戒・驚異・恐怖心は、敵手を「ネオ・ナチ」と呼称する他、侵攻の理由付けがなかった。第二次大戦のレニングラードのように、それと相似的に、ロシアは包囲されるという妄信は、たしかに狂人のものではなく、エライ専門家の云うとおりプーチンは正気であろう。しかし狂人というものが副詞的に用いられるとしても、それらは独自の合理な思考の持ち主であることなど、夢野久作の『ドグラ・マグラ』で、もはや白日のもとに晒されていることは知る人ぞ知る常識でもある。
ロ×ウ戦争が(私にとって)何か奇妙な不安をもたらせるのは、その戦略と戦闘自体が時空的に交錯しているからだとおもわれる。具体的にいえば、使用されている兵器は最新式の初めて名を聞き効力を知るものなのに、その戦場と戦死した兵士たちや無残に殺された非戦闘員の市民たちは映画の1シーンのような第二次大戦のままだからだ。
さらに、戦争は「ハイブリッド戦争」に変容し、電子戦、サーバー戦、情報戦が主流になって登場した。実戦の現場はさながら、欧米の兵器の実戦実験場と化した。もはや「核」すら「最終兵器」なのかどうかアヤシイものだ。
此度のフィンランド・スウェーデン両国のNATO加盟申請は、ロシアの驚異からの防衛というより、第三次大戦への同国の姿勢であることは、フィンランドのマリン首相の自国での事前の準備、ことの運びを観るにつけ確かなことで、トルコの反対など想定のうちといった感じがする。トルコの横やりも表向きの取ってつけた事情に過ぎず、何れにせよ加盟申請時点で即時敵と見做されることは政治上当然で、両国が守れぬNATOは現在の「死に体」の国連と同じと存在を舐めきられてしまう。一般人のこのニュースに対するコメンテートも、トルコの件については「お見通しだよ」といったふうで、大衆という存在はまったくのところ莫迦ではナイ。
ほんとうにバカなのは日本の政治家連中で、与野党を含めて「木を見て森を見ず」と迷妄しっぱなし。なんでここで憲法改定の論議を持ち出すのか、ドサクサの狡猾にも程がある。「敵基地攻撃」を「反撃」と呼び方を変じて満足げに頷いている様子などは、こいつらほんまにオカシイのとちゃうかといいたくなる。要するに、問題は国防費、防衛費の予算だけで「専守防衛」は堅持するのがアタリマエではナイか。日本国憲法を軽視するんじゃネエぞ。
すでに、第三次大戦は始まっている。それをアメリカだけが儲けているやら、インドは経済優先だ、ロシアは悪者でウクライナは頑張っているやらで誤魔化しつつ、此度の飛び回り岸田総理あちこち外交が殆ど成果など無かったことを隠蔽しているのだから、バイデン来日において岸田が「もう、何でもしまっさ。云うとくんなはれ」で幕を降ろしてもらっては、こちとらは焦燥を掻きむしられるだけだ。

とりあえず、了。

2022年5月19日 (木)

Sophism sonnet・69,11-12

戦争、その前に・7

つづき。
以下、論ずるものは、カイヨワが『戦争論』で述べる「祭り」に対する認識(捉え方)への、疑義、反論、批判、というよりも、「そら、あんさん、チガイまっせ」という誤謬の指摘に近いと私め愚頭ながらかんがえたものだ。
まず、第二部・第七章でカイヨワはこうくる。/戦争の実態は、祭りの実態にあい通ずる/。そんなことは形態の同似からの錯覚以外に絶対に有り得ない。で、ないならば、カイヨワが戦争の基本原理と信じている「聖なるもの」の乱舞饗宴と忘失の恍惚を「祭り」の中に見出したという〈早トチリ〉に過ぎない。「そうきたか。しかし、それ、二歩やでカイヨワさん」とでもいいたいくらいだ。
/「戦争」と「祭り」とは二つとも、騒乱と動揺の時期であり、蓄積経済のかわりに浪費経済を行う時期である/。これは単純にカイヨワの経済学に対する無知のさらけ出しだとおもわれる。解説者の西谷修センセイ(哲学専攻)も「生産原理の社会が爆発的な消費に陥ってしまわないため」に祭りの熱狂が用意されている、という見解で、そうくると出るかなとおもっていたらやっぱり出た。「リオのカーニバルがその典型的な例」と仰っているのだが、お二人とも(といてっもカイヨワは没している)、まったく経済学のいろはをやり直されたほうがイイ(私はせいぜい「い」しかヤってナイけど)。『生産=消費』というマルクス経済学系弁証法の公式を持ち出すまでもなく、「祭り」ほど生産的なものはない。たしかに「戦争」ほど莫大な消費はないけど、ヤっている当事者は〈浪費〉とはおもっていないだろう(必要経費なんじゃナイの)。
さらにいうならば/「戦争」と「祭り」には共通点/などはナイ。あるようにみえるのは、この場合、みかけ(情況)で、ものごと(本質)を判断しているからだ。両者にあるのは「対立点」だけであって、その対立作用素を〈thanatos〉と〈Eros〉といってもイイのだが、また実際そういう対立のさせ方は可能なのだが、明確に云いきれないのは「祭り」というものには、日本における「お盆」やその行事の「盆踊り」のような〈死者の帰省〉という、どちらでもナイものや「いなせなもの」としての「祭り」もアルからだ。
/戦争の実態は、祭りの実態にあい通ずる/という命題を定義、原理としたければ、その論理は限りなく自同率、同一原理、同義反復になっていく。適宜にいえば、つまるところ「似たるところを取り出して、同じだ、といってしまえばイイ」ことになるからだ。
よってカイヨワは/とはいえ戦争と祭りとは、いくつかの基本的に異なった性格を持っている/。と「王手飛車取り」で飛車を守るようなことをいわねばならなくなる。いくつかの基本的に異なった性格を持っているものを似ているだけで〈同一視〉することなど可能なのか。出来るワケがナイ。それでは飛車かわいさのあまり、王を持っていかれる素人将棋の典型ではないか。
/祭りがその本質において、人びとの集まり合体しようという意志であるのに反して、戦争は壊し続けようとする意志である/。これはもう誤謬というより「馬脚」であって、「戦争」自体には〈意志〉などは無い。「戦争」とは目的を遂げる〈手段〉に過ぎない。擬人化ではおさまらねえ。ここから「集合的無意識」とかいい出されたら、手のつけようがなかったワ。
戦争を「祭り」だろうが「遊戯」だろうが、類似の理屈で論(あげつら)ってかんがえても仕方ないと私はおもっている。なぜなら、戦争はクラウゼヴィッツの述べたように、どうしても「政治」なのだからだ。「政治(戦争)」は理屈ではナイ。権力の偽名、別名だ。もっと蔑視していえば「汚名」「こじつけ」である。カイヨワのいう「内的体験(戦争)」と呼べるものが兵卒にも一般市民にも在るとするならば、それは個的な、生きようとする意志としての、さらにはそのための異性愛・母性愛・友愛・自己愛であるErosであり、それらは「戦争」という共同幻想とは正反対の幻想に他ならない。

あと、ちょっと(「核戦争」「ハイパー・ハイブリッド戦争」)で終わります。

2022年5月18日 (水)

Sophism sonnet・69,11-11

戦争、その前に・6

つづき。
/戦争は、聖なるものの基本的性格を高度に備えたものである。(略)それは恐ろしいものでありまた感動的なものでもある。人はそれを呪い、称揚する。(『戦争論』第二部・序)/
で、あるのだが、カイヨワはこの「聖なるもの」を何処からサンプリング、インプットしたのか。ドイツの宗教哲学者ドルフ・オットーの著作に『聖なるもの』があり、それはキリスト教の「聖人」や「神聖さ」とはチガッテ、もっとプリミティヴ(原始的、野性的、未発達なものを称揚する態度および思想)のことで、「混沌とした、恐れを誘うようなもの、それゆえにまた魅惑するようなもの(=する経験)」。だが、カイヨワが最も影響を受けたバタイユからよく似た概念を引っ張てみると/とんでもない。ただごとではない。通常ではない別格のもの。そういうものは怖くもあるが、また惹きつけられもする。危険かも知れないが抗いがたい魅惑的なものである。善悪の判断以前の混沌に人を巻き込んでしまう。合理的、客観的な判断が成り立たない。直接的、非合理な崇拝や畏怖の対象にもなる。それが聖なるもの(=こと)だ/になる。カイヨワは、全体戦争の状況をそれを踏まえて捉えようとした。(このあたりはNHK・Eテレ・テキスト・2019・8月・西谷修の解説に多く拠っている)。西村修テキストでは、全体戦争とはいえど、その状況を(兵士としてだとおもうが--ブログ主筆--)生きるのは一人ひとりだから、その個人に生じるものとして「内的体験」が語られる。「それは「神なき神秘的体験」への固執、恍惚である。バタイユはこれを/「非=知」の体験/とも述べている」とある。
この「内的体験」は、「帝国戦争」以降の戦争そのものの変容、変貌(いわゆる戦闘の機械化)とともに生じてきた兵士の内的心情だ。気づかれた読者も在るとおもうが、まるでナチス・ドイツが用いた洗脳・宣伝のようだ。ヒトラーは、ドイツ軍の初年兵軍隊の兵士整列を前にしての演説で、こう口舌(タンカ)をきった。「諸君たちは各々が別々、個々の一人ひとりである。だから諸君たちは尊いのだ。素晴らしいのだ」けして「総員が揃ってドイツ軍の勇猛果敢な兵士だ」などとは云わなかった。しかも、その演説は、必ず夜、サーチライトが踊る会場で、その会場だけが夜の闇に拮抗する演出のもとで行われた。カイヨワはこう書く。/このような秩序をそっくり受け入れることの出来る人間は、偉大なものとなり、その真の自由さを見出す。人間にとってこの真の自由さというのは、ある崇高な行動に全面的におのれをささげることにほかならない/
途中で挟み込んでしまうが、このようなことは、プーチンにせよ、ゼレンスキーにせよ(特にゼレンスキーにおいては動画で)兵士たちを鼓舞激励するのに語ったにチガイナイ。これは、「不安」と「虚無」に立ち向かう欧州思想の歴史の特色としての、キルケゴールやハイデガーの発明と寸分変わらない。キルケゴールの場合は「絶望の絶望」であり、ハイデガーの場合は「人間存在の本来的なものは不安」だったりしただけで、相手が驚異的な畏怖である「聖なるもの=戦争」になっているだけのことだ。
「驚異的な畏怖」、もちろんそれはマチガイなく「死=thanatos(タナトス)」「戦死」である。ここでは、Erosとして迎えられるはずの「生への意志」はそっくり、まったく逆の「死への誘い」として成立している。こういうことが何故、起こるのか。それはそんなに難しいことではナイようにおもわれる。曰く日常的に使われる「死んだつもりでヤレ」とか「命懸けでいくぞ」とレベルを等しくするものだからだ。(戦争ではホントに死ぬんだけどネ)
カイヨワは、この忘失の恍惚と乱舞饗宴をもたらす「聖なるもの」を「祭り」と関係させている。

まだもう少しつづく、です。

2022年5月17日 (火)

Sophism sonnet・69,11-10

戦争、その前に・5

つづき。
若尾文子主演の『赤い天使』(監督・増村保造、脚本・笠原良三、原作・有馬頼義)は、1966年(昭和41年)に公開されたモノクロの日本映画で、本作は、2015年に開催された「若尾文子映画祭 青春」において、若尾文子の出演作計60本を対象にした人気ランキングで、『しとやかな獣』(監督 川島勇三)に次いで、第2位となった。批評家支持率は100%、一般支持率は95%。(以上ウイキより)なのだけれど、どうもこれは監督賞もしくわ作品賞(作品賞というのはプロデューサー賞ということである。私が「アカデミー賞にプロデューサー賞がナイのは変だね」と呟いたら、とある辣腕プロデューサーから失笑されつつ、何いってんの、とご教示いただきました)の傾向が強い。若尾文子のランキング第一位は女優賞ということでいえば、『女は二度生まれる』(監督 川島勇三)だ。川島監督はどちらかといえば〈文学派〉、対して増村監督は〈職人派〉だ。私は増村監督のことを「たもぞーさん」と勝手に称している。んでもって、いつもの癖で、関係がありそでウッフンなさそでウッフンほらほら黄色いさくらんぼの横道に逸れさせていただくと、有馬頼義(ありまよりちか)という作家は、たぶん、その時代ならいっぱいいただろうなヒトで、当時編集者だった澤地久枝と不倫したり、倒れて運ばれた病院の看護師(当時は看護婦)を愛人にして隠遁したりしているんですが、彼の小説、『貴三郎一代』は型破りな初年兵を主役にした兵隊小説で(あんまり面白くナイです)、のちに『兵隊やくざ』とタイトルされ、勝新太郎演じる破天荒な主人公と、田村高廣演じるインテリ上官のコンビの兵隊アクション映画となり(大映製作)大ヒットし、シリーズ化されています。もちろん私は全部観ていますが、監督はこれまたすべて、たもぞーさん。この映画の特徴は作品の冒頭が、前作品のラストシーンであるという仕掛け。では、横道から戻ります。
とりあえず、『赤い天使』の粗筋めいたものだけは記しておくと、
/おそらく日支戦線。激しさを増す昭和14年、従軍看護婦として中国・天津の陸軍病院に赴任した西さくら(若尾文子)は、入院中の傷病兵たちにレイプされてしまう。二か月後、前線に送られた西は、岡部軍医の下、無残な傷病兵で溢れる凄惨な現場で働く。(一応病院なのですが、治療出来る状態でナイので〈現場〉でしょう)。
ある時、西はかつて軍医岡部に命を救われた兵士の一人折原に会う。手術で腕を失い性行為ができなくなった折原を哀れんだ西は、葛藤の末に現地のホテルで肉体関係を結ぶ。だが翌日、折原は病院の屋上から飛び降り自殺する。その後、過酷な手術(ではナイんですけどね)に忙殺されているにもかかわらず気丈かつ冷静で、判断力を失わない岡部軍医の姿勢に、西は惹かれていく。しかし、岡部が精神の安定を保つためモルヒネを常用しており、そのため性的不能に陥っていることを知る。岡部軍医は西を伴って、さらに激しい前線へと向かう途中、コレラが蔓延した集落で中国軍に包囲される。そうした極限状況の中、西と岡部は激しく愛し合う(それしかナイわな)。やがて中国軍の総攻撃が始まり、日本軍は壊滅。一人生き残った西は、岡部軍医の遺体を目前にして呆然と佇む。その後たぶん援軍に発見される/。
これはモノクロ(白黒)映画なのだが、タイトルからの擦り込みがあって、どうしても記憶を辿ると若尾文子だけが、赤い白衣という矛盾した色のコスチューム(看護服・nursing gown)で脳裏のスクリーンに登場する。
反戦映画というよりも、厭戦をも通りこした、いうならば反吐戦映画なのだが、ともかく傷病兵の手足を麻酔無し(医薬品なんて無いから)でノコギリで容赦なく斬る、死体は釜に放り込んで臭いを感じるほどに焼く。白黒映画だから、真っ黒な血の海の屍が転がる。しかし、気絶しそうなところをくい止めているのが、西さくらのeroticismなのだ。押し寄せるthanatos(タナトス-死)と真っ向対峙しているのは若尾文子のまさに〈天使〉のErosなのだ。(Eros・エロス・性愛、自己保存の本能、生の本能)。
果たして、そのようなものがカイヨワの『戦争論』に現れるだろうか。「全体戦争」に対する「内的体験」の立ち位置である「聖なるもの」「洗礼」などの宗教儀礼的な〈実存〉にEros、eroticismは、在るや。
もう少しつづきます。

2022年5月16日 (月)

Sophism sonnet・69,11-09

戦争、その前に・4

数えられない死(者)。
災害時、或いはワカリヤスイところでは、昨今ではコロナの罹患者、死亡者。これらは毎日メディアで報告される。私はテレビを観ないのでもっぱらラジオのニュースで一日三回その数字を耳にすることになる。毎度同じようにロ×ウ戦争のほんとかどうかワカラナイ情報も流れてくるが、ここで報告される死者の数はまったくほんとかどうかワカラナイし、現状、ロシア、ウクライナの双方にどれだけの戦死者が在るのかも報告などナイのでワカラナイ。戦果があった場合の数字などたぶん出鱈目だろう。こういうのは情報戦や軍事機密になるのだろう。北朝鮮のコロナ罹患者数のように、軍事パレードでは0人だったのが、いきなり百数十万人になるという発表もこの国ならではと、呆れるしかナイ。
カイヨワの「全体戦争(総力戦)」と「内的体験」としての戦争をとりあげる前に、カント(そうです、あの哲学者のカントです。大学の哲学科ではカントまでしか教えません)の、ある言説を拾い上げる。私はカントについては主著の『純粋理性批判』しか読んだ(査読というほどではナイにせよ、とりあえずはね)ことがナイので知らなかったが、カントはこんなコトバを吐いている。「好きなだけ、なんでも好きなことについて熟考せよ。ただし、服従せよ」(1784年『啓蒙とはなにか』)。これについてはよくワカランひとも多かったらしい(いまも当時も)。歴史的にフランス革命前の混乱の時代だったので、それを考慮するにせよ、アリストテレス以前に逆行するような言説なのだが、1793年以降、フランス革命の暴力性にいわゆる理性主義者のカントはハッキリと保守的になり、コンプライアンスについてはともかく「従順」、秩序を守るためにはどんな犠牲を払おうとも「従順」がイイといいきっている。この「従順」というコトバはかなり深遠だ。カイヨワは、戦争というものに対して、それは「洗礼」のようなものだと述べ、これは宗教的要素の取り込みのようなものなのだが、この二つをリミックスしてみると、「全体戦争」は「聖なるもの=洗礼」であるから「従順」であるのがイイという展開になる。では、その「従順」「洗礼」のコンテンツは何なのか。
カイヨワは云う「戦争は災厄ではない。むしろ祝福なのである」。つまり「全体戦争」においては個人は取り込まれていくしかナイ」のだと。では、どういうふうに取り込まれるのがイイのかが、「内的体験」と称されるものだ。これは、バタイユの影響が大きいのだが、キルケゴールの実存主義やナチスに入党したハイデガーの哲学にまで及んでいく。このカイヨワの言説には私はまったく同調出来ない。俯瞰的程度な感想になるかも知れないが、それを若尾文子主演のとある映画を論拠にして述べてみる。
つづく、で、ござんす。


2022年5月15日 (日)

Sophism sonnet・69,11-08

戦争、その前に・3

沖縄本土復帰50年。
復帰前の沖縄が観たいという理由だけで、もちろん生徒指導部の教師、部長の否認にあったが、終業式は乗船の関係でボイコットして、沖縄に渡ったのは高校二年生の冬だった。
当時はパスポート(渡航証)が必要だっしたし、沖縄のレートはドルで、自動車は右を走っていた。あまりの素っ頓狂な行動に両親はコトバもなく、いや、父親がいったナ。「おまえ、コトバは大丈夫なのか」。果たして沖縄の言語が米語だとおもっていたのか、まったく途上国の異国語だとおもってそういったのかは、ワカラン。船底部分にある二等船客はふだんの三倍の人数で雑魚寝。めしは丼一杯のさまざま(抜け目のない者は二回並んで二度食べる)。
三泊は船底。外に出ても「これより先一等船客室につき立ち入り禁止」の札とロープ。野宿覚悟だったので、寝袋を持参していたから狭いデッキで横になりながら星を観ていたが、もどると寝場所がとられているのでこれは中止。船客の人々はみなヤマト(日本本土)からの正月の里帰り。ただし、暮れと正月の休みは一週間、六日は移動にとられるので沖縄の実家に居られるのは一日だけ。それでも、下船の数時間前になると女性たちは化粧を始める。そうよ、老若男女雑魚寝ヨ。私は船中で知り合った若者が「オレの弟も同じ十七だから、下船しての一晩くらいは泊まっていきなさい」に甘えて、下船一日目はちょっと副鼻腔炎気味の弟くんに案内されて彼の高校へ。女生徒は体育の時間ということで、薙刀の訓練。「ええっ、本土ではヤってないんですか薙刀っ。沖縄の女子高生はどこの高校でもヤってますよ」と向こうの驚きにこっちのほうが驚く。戦争終わっていても、ベトナム戦争のさなかだから、やはり守りはタイセツなんだな。「ひもずくなるど、いつもここで食っでいぐんだ」と、ガッコの傍の沖縄そば屋で弟くんと、蕎麦と中華麺のあいのこのようなのを食う。安いのだが、かなり不味い(以後十数旅の沖縄で毎度いろいろなところで食ったが。最も味が良かったのは、那覇空港レストランのソレ。ガイドブックに出ている名物そば屋のそばも全滅)。泊まりの夜の晩飯は豚と野菜を煮込んだ、なんだかワカランけど家庭料理。副食はべつに贅沢いうような身分ではナイが、この米は、この米飯は、なるほど、外米ではナイとおもったが、硬水なんだ。まだ水はタダだったからなあ。旦那は仕事で留守。「沖縄は豚よ。牛を食べているのは米兵だけ」と弟のおっ母さん。「船から子牛を降ろしていましたけど」「あれはね、石垣、宮古とかで育てられて、成牛になる前に本土のいろんなところへもどされて、いろんな名前になるの。神戸とか松坂とか、近江とかネ」このおっ母さん、スピノザくんの〈幻想〉か、ユング心理学の顕現か、沖縄に嫁にくる前の故郷が、私の実家から歩いて行けるとこ。「瀬田の唐橋、知ってるよ。建部神社知ってるよもちろん。あの裏あたりの、へーえ、いまは団地になっているの」(その団地、現在はアリマセン)
それから十年を経て、私、以降十数回、毎年沖縄に行きました。沖縄が返還されてどう変わっていくのか。好奇心は何事も凌駕する。
ひとことで云うと、エメラルドの珊瑚礁は無くなりました。石垣に行ったときは、海の水は赤くなっていました。「開発でねえ、この辺は粘土質だからねえ。それ、みんな海に棄てるからねえ」と、タクシーの運転手の言。「まあね、便利なのは、病院が何処でも24時間態勢なだけ。仕方無いのよ基地があるのは。負けたんだもの。まあね、勝っていても日本軍の基地があるだけだろうけどね」そう、復帰50年はそれがすべてです。

2022年5月14日 (土)

Sophism sonnet・69,11-07

戦争、その前に・2

ロジェ・カイヨワ『戦争論』の一章から、私たちは〈士気〉というものの片鱗は理解できたようにおもう。そうして、このような〈士気〉に依ってウクライナ兵士が闘っているとするならば、それを翼賛、少なくともその気概に感銘したい気にもなるだろうが、Just a second.
ここで今度は教養の見せびらかし、スピノザくんを登場させる。
スピノザくんは、ユダヤ教のラビになるべくタルムード教典を研究していく途上、「こいつぁあオカシイ」と、神を全否定して、それを「迷信」の中に放り込んだ。もちろん、破門されましたけどね。ここで、スピノザくんのいう迷信とは〈幻想〉と同意で、信仰は迷信から生じ、それらは〈幻想〉だと云っちゃった。スピノザくんはこの〈幻想〉を三つに分類する。
① 合目的幻想(物事の原因を運命で片付け、それらは何か目的があることだとドクサる)
有名な例えでは「人間に目があるのは見るためである」というのがあるが、これは正しくいうと、「目があるから見えるのであって見るために目があるのではナイ」というドクサになる(・ドクサる、とは「思い込む」のslang)。
② 人間中心幻想(自己中心的なドクサり)これは〇〇をすると罰がアタル、といった手合いのもの。
③ 神人形幻想(神々を擬人化するドクサり)自然現象を神の擬人化によって説明しようとすること。
ここで、この「幻想論」を踏まえて、ひとつ命題をたてる。
/戦争とはひとつの幻想(合目的幻想)である/
ここから演繹的に、〈士気〉もまた幻想に過ぎないという解が導き出せる。また、幻想でなければ無慈悲にヒトがヒトを殺し合うことなんぞ出来ないという解も。
私の学んだ学派では、このあたりの幻想は「共同幻想」と称する。〈士気〉は「個幻想」のような感触もあるにはあるが、やはり「共同幻想」の産んだ集団心情だ。「ボクモ行くからキミモ行け、セマイ日本ニャスミアキタ」と、みなさん満州開拓団で、あっちへ行ったのと同じ。よって、この〈士気〉というもの便利なものだが、危険なものでもアル。この辺が「戦争」というものの、怪異だな。
〈士気〉だけでは戦争は出来ない。カイヨワは、産業革命を経て、科学が進歩し、武器がどんどん新式のものになっていくところを踏まえつつ、「戦争は帝国戦争から〈全体戦争〉へと移行した」と論をすすめる。
ウクライナは、最初っから、大東亜戦争末期の日本と同じ、「総力戦」「本土決戦」なんだから堪らない。プーチン・イデア幻想が膨らんでウクライナ侵攻になったように、ゼレンスキーの大統領幻想も次第に熾烈を極めていくのはアタリマエのことだ。
おそらく市民も兵士も同じことをおもいはじめている「早く悪夢から覚めたい」。そうして「悪夢」をみているのは、ロシア、ウクライナ、だけではナイのだ。日本もまた、沖縄総力戦や核を二発もくらった悲惨な戦史を持ちながら、戦争の幻想、「悪夢」の中に在る。

2022年5月13日 (金)

Sophism sonnet・69,11-06

戦争、その前に・1

プーチン・ロシアは、ウクライナのキーウを三日で攻略、陥落、大統領のゼレンスキーはコメディアン出身なのですぐに国外逃亡、傀儡政権樹立、という絵を描いていた(らしい。専門家がそう云うんだからそうなんだろう)。日本は運がイイというか、漫才師が直木賞受賞したもんだから、それに北野監督や、あの大タモリさんが存在するものだから、コメディアンには一目どころか井目(せいもく)置いている。日本人の誰もが安倍より、かの二人のほうが頭イイことは知っている。(悪賢いのなら安倍だろうけど)。
さて、キーウを三日で落とすというplanのその根拠は〈兵站〉が一週間分ほどしか準備されていなかったことからきている(らしい。誰が調査したのかは知らない)。ちなみにこの〈兵站〉というのが何なのか、数年前まで知らなかった。幸い、ロ×ウ戦争の始まる以前に『幼女戦記』を読み始めたことが幸いした。読んでいなかったら兵站という漢字も読めなかったにチガイナイ。『幼女戦記』というタイトルに負けないで読んでいて良かった。最近のcomicは幼女・少女エロものが多いからな。
ところが、三日で陥落とはならなかった。ここで、兵士の〈士気〉というコトバが専門家であれ、ジャーナリストであれ飛び交うことになる。ロシア兵よりウクライナ兵のほうが〈士気〉に勝っていた(らしい)。とはいえ、ウクライナ兵は、ゼレンスキーのcommandによって、国外逃亡を禁じられた18歳から60歳までの男子義勇兵が多い(中には女性だっています)。このゼレンスキーcommandについては、sewing machineの会の黒幕、橋本が「人道に反する」なんてことをいったことくらいは記憶している。しかし、この橋本、ヘイトスピーチのリーダーとタイマンで議論すべく庁舎(当時は知事だったか市長だったか忘れたが)の一室にヘイト・リーダーの女性を呼びつけたとき、タイマンだったはずが、てめえのほうは数人のガードマンだかS.Pに囲ませて、ヘイト・リーダーの女性の「なんやねん、タイマンやないのんか、この男連中はなんやねん」最初の一喝で、もう勝負あり。の「人道的」なヒトですから、このミシン踏みの男のリテラシーは以降、何も信じないことにしている。(電動ミシンでも工業用は踏みます。私もそいつで枕を造るバイトしていたもんで)。

/平民はみじめな生活をし、黙ってたえ忍ぶことに慣れてきた。けれども、一旦その手に銃を与えられ、国民を防衛するために呼び寄せられた時、はじめて彼らは自分の価値の重要さを意識した。数々の危険に立ち向かい、敵を殺すことにより、自分も貴族や特権階級とまったく同じ人間なのだということを、いやというほどはっきり悟った時、はじめて彼らは自分の価値の重要さを意識したのである。(ロジェ・カイヨワ、『戦争論-われわれの内にひそむ女神ベローナ、第一部・第五章』/

おそらく〈士気〉というコトバを解していえば、その基本概念はこうなるだろう。いきなりロシアが攻め込んできた。ゼレンスキーは大統領(のつもりで、たぶん、最初は〈つもり〉だったはずだ。この〈つもり〉についてはデカルトの『方法序説』が述べている。いってみれば実存主義の黎明でんな)として、「闘えっ、私は家族とともにこの地に在るっ」と一発かましたのだ。戦争(非常時)における「人道」については、国際法によって定められている。橋本のような「いうだけ番長」の出る幕ではナイのだ。

2022年5月12日 (木)

Sophism sonnet・69,11-05

プーチンとはプラトンで米欧はアリストテレスなのだ

Max150人のブログ読者はもう、読むというより観るのも秋田コマチ(安くて美味しいです)ではなく、厭きたかも知れないが、私自身はどうしても粘る資質なので、そう簡単にロ×ウ戦争を善悪や片方の妄想性疾患で論じ終わらせたくはナイのだ。で、むかしお世話になった『高校生のための欧州思想史』(のようなタイトルだったとおもうんだけどナ)の記憶を繙(ひもと)く。ここで安直に大統領の執務室にデカデカと飾ってある「ピョートル大帝」を持ち出さないのが、私流のやり方で、そんなことは巷の頭のイイ専門家がいくらでも指摘しているから、今更なあだからだ。ちなみに、神秘学をお好みなら、プーチンは古代ギリシャ語でΠούτιν.プラトンはΠλάτων.まあこれはサービス。問題なのは、この「世界」についての認識の仕方(思想)。先に何がここで云いたいのか述べておく。プーチンが観ている「世界(認識)」と米欧が観ている「世界(認識)」では、プラトンとアリストテレスとの世界認識とその観方に〈同じ差異〉が在るということ。
簡便にドグマチックに二人の差異を記すと、プラトンの場合、この世界は「イデア」という理想社会(天上の世界)と俗世界(私たちの住んでいる世界)に分けられている。従って、ひとは死ぬと卑俗な肉体はイデアへと上昇するので、その哲学は「死に方の哲学」とまでいわれている。つまり、プラトンにとっては、ほんとうの世界は「イデア」であって、此の世は醜い世界なのだ。ところが、プラトンの弟子だったアリストテレスは、このプラトンの世界認識を真っ向から批判する。「だって、此の世界で生きているのだから、この世の醜さは此の世の我々が変えるのが常道だろう」と、いまふうにいうなれば「無神論」的であり、その変化を促す方法は世界最初の「民主主義」だった。これが、後にキリスト教神学に取り入れられてスコラ哲学となるのだから、いやもう世界はややこしい。しかし、カトリックは神学とアリストテレス合理学の融合のおかげで、いまなおキリスト教世界に君臨しているといって過言ではナイ。
ハナシを現状具体にもどす。プーチンくんにとって、空を仰いで「イデア」を観るということは、かのいまは亡き「ソビエト社会主義共和国連邦」、「ソ連」の隆盛を観るということになる。それに反して米欧は、プーチンくんから観れば汚れた此の世(可感界というそうな)になる。なにしろ、それはプーチンくんの観測では烏合の民主国家だからナ。そうなるとプーチン=プラトンにしてみれば、此の世を「イデア=ソ連」の世界に創りなおす、此の世をアリストテレス世界から奪還するということが、最大の目的になるのだ。こういうことは、米欧の頭脳(というか思想、思考ではワカラナイというかおもいつかないだろうナ)。であるのに、汚れた此の世は、なんと、どんどん広がって(それも米国主導で)ロシアを呑み込もうという巨魁な大蛇になってきた。ここはこれを防ぐことが「唯一の選択(プーチン自身のコトバ)」なのはアタリマエなのだが、これもまた、EU、NATOにはワカラナイ。(スジは通っているのだけれど、まさかプラトン派思考とはナア)
先だっては、暴力団の「縄張り争い」的な理屈展開だったが、今回はちょっとacademicになっている。
次は(と、まだ拘泥するのだが)、カイヨワの『戦争論』を通読してから、ロ×ウ戦争を見物してみるつもりだ。

2022年5月11日 (水)

Sophism sonnet・69,11-04

規則正しい判で捺したような日々

「規則正しい生活」というのが健康な生活の代名詞のようにいわれて久しいですが、そうなると、高齢者(まあ、老人のことですけど、最近〈ご隠居〉というふうに呼べるような老人をみかけないネエ)の日常生活というのは、まさにソレで、ソレが健康的なものなのかどうかすこぶる疑問ではあるのだが、というのも、私なんかはその典型のような生活態度でして、だからといって壊れゆく日々なのだからソレが健康なのかと問われると、さあ、どんなもんですかねとしか云いようもナイ。
夜更かしとか、朝寝とかいうものが出来ない。そういうことの出来たのは二十歳あたりまでかなあ。たしかに大学でニセ学生をヤっていた頃は、朝まで起きていてナニをするでもなく、それから昼過ぎまで寝て、起きてナニをするでもなく、だいたい銭がナイから銭の要る遊びというものが出来ない。あの頃は「さすらいひとり旅」なんてのが流行だったから、貧乏旅行もしてみたことはあったが、そこはそれ、ドラマのようなromanticなもの(出来事)は皆無で、似たようなものに「つげ義春」さんのマンガみたいな旅はありましたナ。まさにリアルですワ。「さすらいひとり旅」なんてのはたいていソレですな。
かなりの種類の仕事はしてきたけれど、さほどこれをやりたいという仕事とも出会えず、そうなると憧れたのは「職人」ですね。職人の最高峰は「必殺」に登場する職人、つまりは人殺しでしょう。いまでも、スナイパーとかにほんとになれれば良かったナとおもうことは多いです。狙撃暗殺者はドラマでは「女と子供は殺らない」ということになっていますが、それはドラマだからで、女でも子供でも撃たねばならないときは撃ちますよ、私にかぎっていえば。
断捨離というのが流行っているらしく、不必要なものは棄てるのだそうですが、アンチ派もいて、私もどうも「棄てるものがあるうちはいい」の類で、なかなかモノが棄てられない。よって、もとからモノを持たないようにしている。いつだったか、その断捨離の話題になって、女性たちが三人いて、私が「あたしゃ、モノはダメだけど、ヒトはけっこう棄てますよ」といいましたら、それぞれ半歩退かれて「怖アッ」なんて云われました。しかし、棄てたい人間なんて棄てたいモノよりたくさんあります。試験とか、auditionだか、ありゃ、棄てるワケでしょ。あんまりあの棄て方は好きではアリマセン。だから審査員とかもぜんぶ遠慮しているくらいです。なのになんでスナイパーなんかに興味があるのかねえ。『邪魔者は消せ』というタイトルのナンダカもありますしね。
若い頃は、歳とって死ぬなんてことになったり、癌で余命幾ばくもナシなんてことになったら、こいつとこいつとこいつは道連れ、てな名簿をつけてたりしましたけど(ひとりは小説の中で死んでもらいましたが)、なんだか、そういうsequenceのマンガだか映画『デスノート』でしたか、あったりして、まあ、かんがえることは似たりよったり転んだりだなあと。
こういうことを書こうとおもって書き出したワケじゃナイんですが、途中で何を書こうとしたのかを瞬間健忘症してしまったので、こうなりました。
あっ、そうだ、最近芸能人の自殺者がまた多くメディアがとりあげているなと、つまりはもうロ×ウ戦争は厭きられてきたかと、それが書きたかったんだ。そりゃそうですよ、ウソだかほんとうだかワカラナイ、いわゆるフェイクニュースがあふれているし、それを大真面目に解説している専門家もいるし、ロシアはもうもたない、といえば、べつの方がウクライナがいつまでもつかだナ、とくるし。プーチンの愛人が妊娠したとか、どこまでが芸能ニュースだか、戦線よりメディアのほうが混迷しております。さあ、そろそろ風呂だな。規則正しく判で捺したような一日でした。

2022年5月10日 (火)

Sophism sonnet・69,11-03

不透明につき不明な点多い

「依然として不透明です」「不明な点が多くみられます」。前者は時事政治ニュースでのハナシの括りにほぼたいていいつも出てくるコトバで、後者は刑事事件などに多く使われる。つまりは「どうなるのか」「どうなってんのか」〈ワカラナイ〉ということだ。こういうコトバは科学的、医事的なニュースなどには、メディアとしてはあまり用いない。科学ではそういう事態はアタリマエだからだ。
近似的な用語に野球などの実況アナが使うコトバで「よく、ワカラナクなってきました」という括りがある。これもかなりの頻度で耳にする。実況アナにしてみれば、気分としては「オモシロクなってきた」「ワクワクしてきた」程度のことなんだろう。
5/9のロシアの例年の対独逸戦勝パレードで、プーチンが演説をかましたが、印象に残ったのは、あの演説を聞いていた報道関係者だったか、単に市民だったか、ともかくも理知はあるひとが「これ以上聞いていると頭がオカシクなる」とひとこと述べて途中でリタイアしたというほんのちょっとした出来事だった。
これは命題としても使えそうだとおもう。「これ以上生きていると死にたくなる」で、イイ。それと語彙としては同義だろう。
プーチンが政治的意図、なんらかのpropaganda としてあの演説を大真面目にかましているのだとしたら、それは一国の大統領、政治家としてはアタリマエのことだ。「政治においては、首相、大統領などは、多少の悪人でナイとダメだ」という政界の常套句を耳にするが、私はこの「悪人」というのは「狂人」といえないから、いい替えているだけだろうとおもっている。国連総長との対談のとき、プーチンは総長のマウリポリの一般人避難の提案に「それはもう終わったことだから」と平然と云って退けているのも、情報の錯綜からきているのだとおもっていれば安心する。英米の諜報員は作戦部隊上層幹部にも多数送り込まれているとのこと(西側の発表だけど)だから、プーチンがほんものの精神疾患であるなら、それなりの対策は協議、談義、会議、されているはずだ。と、おもいたい。
プーチンが「ボクは、フィリックスくんなんだ」と、黒いカバンをあの「アリスのお茶会」に出てきそうな長いテーブルの上に置いたりしたら、私たちはただもう「よく、ワカラナクなってきました」と、「生病老死」(仏陀のいう四諦)を悟ったかのように「生まれてきたことを諦めるしか他ナイ」

2022年5月 9日 (月)

Sophism sonnet・69,11-02

痛みと消耗

National geo graphic日本版 2020/1月号とは、これまたけっこう〈昨日〉の雑誌なのだが、特集が「痛み」についてなので、アマゾンで購入してみた。二年半前の雑誌がまだ在庫されているということは、わりに人気のある雑誌なのだろう。けっこう写真や図面が豊富でワカリヤスク訳してある。
すでに慢性疼痛や神経性疼痛について触れてある記事が目玉の特集なのだが、オピオイド依存についても書かれてあった。当時の数で、アメリカでは200万人となっているが、おそらく現在ではその3~4倍にはなっているとおもわれる。主剤のセロトニンは多幸感が強いからなあ。
オピオイドは鎮痛に使われるモルヒネに次ぐ麻薬なのだが、セロトニンとアドレナリンにアセトアミノフェンをセットにしたものがある。いわゆるトラマドールセットだ。こいつの特性は、メンタルからくる〈痛み〉に対する効果だろう。〈痛み〉をフィジカルな損傷の派生作用とし捉えるのではなく、疾病そのものとして捉える。10年程前にうつ病で痛みを訴える患者は4割だったのが、昨年では7割となっている。うつ病自体が増えたこともあるだろうが(現状4人にひとりになっている)、痛みの調査も多くなっているので、現在は9割あたりは、なんらかの痛み(「ワケのワカラン痛み」といもの)に耐えている患者があるとおもう。ちなみに「慢性疼痛」や「神経性疼痛」という疾病呼称は(エビデンスとして)さがしてもみあたらない。みあたらないが、その痛みに対する鎮痛剤は存在する。麻酔科のペインクリニックも増えている。私は週二回、神経ブロック注射に通っているが、キシロカインの微量希釈注射なので痛みがスッキリとれるワケではナイ。そのぶん安全性が高いのだけど。ともかくは、アドレナリンを暫し鎮静化させるので、続けると自律神経による不協和音は治まってくれる。ワケのワカラン高血圧や頻脈、体温低下からくる易疲労にはたしかに効果がある。
私たち旧人は、痛みは我慢するものという教えや躾けの中で育てられたので、私の母親などは、緩和ケア病棟に入るまで、医師の処方するアセトアミノフェン(現在では癌患者には8000㎎まで投与するらしい)を服用しないことを(医師に褒められたくて)その旨としていた。これ自体が一種のビョーキだ。
私自身は、トラマドールのセットを服用。オピオイド系は、離脱症状がキツイのと、一度セロトニン症候群で微熱と水下痢に苦しんだこともあるので、一日4回服用を3回にして、一回はロキソニンで間に合わせている(けっこう間にあう。痛みの中にはフィジカルなものもあるので)。さらにセロトニン過剰接種予防のために抗鬱作用もあるリボトリール(ほんらいはてんかんの薬剤だが、うつ病患者も多く服用している)を合わせての匙加減。この辺りを最長不倒距離としているが、さすがに今年のように気温変動(気温差)が一日おきに7°なんてことになると、自律神経は変調する。そいつは〈痛み〉となって現出する。食欲もあって、ふつうに食っているのだが、散歩すらしないのに(これは膝関節がダメなため)体重が減衰する。つまり痛みにたいする消耗によるフィジカルな変容というものだ。
で、きょうの晩飯は週に二度は食っている好物の鰯の目刺しは予定変更、鳥のモモ肉のパイン・ステーキにするかと、けっきょくこれだけがいいたかったことなのだけどネ。 

2022年5月 3日 (火)

Sophism sonnet・69,11-01

いちじゅういっさい

子供の頃(昭和の三十年代だな)は何処の家だって貧しかったので(もちろん金持ちの家もあったけど富豪っていうのはナカッタネ)食っているものが似たりよったりだったから、奇妙な安心感が食卓(のようなシャレたいい方なんかしたことナイんだけどね)には、あったのだ。だいたい一汁一菜というのが何のことなのか、物書きを始めてからもしばらくワカラナカッタ。耳で聞いただけでは漢字にならない。一、十一歳、一重一切、うーん。つまり汁があっておかずがあって、なんだけど、そういうものがセットになっている飯なんぞなかったから、たとえば唐がらしの細いものが「しし唐」ならピーマンを日本語でどういうふうに呼べばいいのか、ともかくそういう太い唐がらしを観たこともなかったし、ジャコというのが極小魚の名前だとおもっていたら、ありゃ漢字で書くと「雑魚」なんだナ。つまり雑な魚で正式にはいろいろと名前があるんだろう。唐がらしは、一汁じゃないから一菜に入るのだろうか、食卓に焼いて焦げた唐がらしだけ、という飯も珍しくはなかった。これは辛いのは子供にはとても食えない。もちろん、青色、緑色してるんだけど、唐がらしに赤色があるというのも知らなかった。豆腐は年中おかずになって、夏は冷や奴(単純にやっこというてましたが)冬は湯豆腐、いまのようにご託の書かれた豆腐なんかナイ。単純に鍋を持って買いにいくか、豆腐屋の喇叭を聞き逃さぬように家でアルマイトだかアルミの鍋抱えて待っている。この白い歯ごたえのナイ食い物はぜんぜん味なんかナイ。そういう一菜のほうを口にしながら、しまったと後悔しても遅いのだが、「これ(とおかずのことを示して)ばっかりやな」と文句の一つも云ってしまうと、拳固のアトで「こういうものも食べられへんビンボな家はいっぱいある。贅沢いうたらアカン」と、躾けというより我が家の貧困のいいわけが正しいのだが、食卓の一汁一菜は美味いにせよ不味いにせよアリガタクいただかなくてはならない。こいつは拳固の痛さとともに身に沁みているのだが、そういう身上は心情となって、順戦時下でも食えることはありがたいとどうしてもそうおもってしまう。マウリポリでは、狭い地下に閉じ込められて食うものもなく、なんだか今日の昼飯は、かじきの照り焼きの出来立てがあったのでそいつにしたのだが、これが美味くて、そうなると、ああ、マウリポリには申し訳がナイなと、擦り込みに悩まされながらカジキを食す。戦争はヤだね。狭いとおもった製鉄所は東京ドーム233個入る広さだと知ったときは、ちょっとホっとした。要するにシェルターになっているんだなあ。
メディアは順戦時中だから、ウクライナ視線、アメリカ視線のニュースばかり提供するが、こちとら高みの見物で世界状況は三割の打率でワカッテきたから(難しくいうと分析ネ)、なるほど、日本の首相はいまアジア諸国まわりのセールスマンやってんだなあ、アジア・アフリカは米欧も中・ロも関係ねえし、銭だけだもんなあと、子供の頃、ビンボしておいて良かった。ビンボには何とか耐えられるとおもいつつ、しかし古希近いカラダの壊れ方じゃ、もたねえな、ともおもう。よって、貧乏性の私は臨時収入なんか入ると焼き肉食べるのと同額の銭を国境なき医師団に送ってしまうのだ。

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