無料ブログはココログ
フォト

« Sophism sonnet・69,8-20 | トップページ | Sophism sonnet・69,9-02 »

2022年3月 8日 (火)

Sophism sonnet・69,9-01

善悪の此岸

此岸とは、仏教における彼岸に対して用いられる。つまり此処、私たちが住んでいる現世のことだが、きょう私が述べたいのは現状の此岸で行われている戦争における「ロシアにもいいぶんはある」について/それはオカシイ/という私のいいぶんだ。
まず、ロシアの論理について「あながちマチガイではナイ」論者の最初のいいぶんは「戦争には善も悪もナイ」という目線から始まる。これは論理的にこうつづく「戦争を始めたものが悪人であるとは限らない」。なるほど、プーチンにしてみれば、NATOの拡大はかつてのLeningradのナチスとの攻防、ロシア兵1000万人の犠牲者(民間人を含んで100万人という考証だが、戦時中のことゆえ確かではなく、後のスターリンによる粛清者と同数であるというところからはじき出された誇張された数だとおもわれる。それくらいの粛清ならプーチンもヤってるかも知れない。それは誰も知らない)を出した、冬の戦線を思い起こさせるのに充分だろうけれど、しかし、この時代、スターリン・ロシアのあの時代、プーチンはまだ生まれていないのだからそれは様々な資料と想像とのリンクから生まれた強迫(脅迫)観念でしかナイ。あの時代、ロシアに迫ったナチスはLeningradでナポレオンと同じように冬という化け物に敗れるまでロシアの驚異だった。それと同様のことがNATOの拡大によって引き起こされかねナイ。独裁者であろうとも、独裁者を独裁足らしめる国家存亡のときと、ここでNATOにtriggerを引くのは当然だろう。
脅迫(強迫)観念ではあるが、あちこちの識者がいうようにプーチンの精神に疾患や異常、病態が発生しているというのはマチガイだ。此度の侵攻は独裁者であるととも為政者である限り、順当、冷静な判断だ。よって、ここでで善悪の判断をつけるのは不当といえる。
此度のプーチン侵攻の善悪をいうのはここからだ。
その戦闘のやり方が、帝国日本の五族共和、八紘一宇による満州国建国、アジア侵略と同じであるならば、それは歴史的に「悪」と裁断するしか他はナイ。あの頃日本は資源もなく、米英に追い詰められていたから戦争するしかなかった、といういまだに現状国会にもはびこる「ウロウヨク」論者。彼らはここで「核共有」を持ち出す。「三原則と命とを秤にかけりゃ」論陣派閥のニタリ顔を観るのもおぞましい。
「戦争は外交の延長上にある」というクラウゼヴィッツの「戦争論」はもうすでに過去のものだ。いまは「総力戦」の時代をこえて戦争は対個人として具現化してきている。情報戦、諜報戦線の個人への繰り込みは、戦争というものが国家に対してだけではなく「個人」に対して「悪」かどうかをその判断の基準としている。
その基点に立って、此度のプーチン・ロシアのウクライナ=世界への宣戦はかんがえられねばならない。つまり、現在のエピステーメにおいて「戦争」は露骨にいえば「人殺し」でしかナイ。ここで、もうひとつ深読みするならば、ウクライナ国民がウクライナという自国を背負って闘っていることと、ロシアが諸外国からの傭兵を銭で買って闘いを継続しようとしているという差異ではなかろうか。
日本国憲法9条は/国権の発動による戦争/を認めてはいない(これは侵略の抑止だ)。しかし、殺されないための防衛のための闘いも認めていないなどという陳腐なものではナイ。百犬が一匹の犬の自らの影に怯えて吠えたのを聞き、いっせいに吠えだすという愚挙。そんなものを議論している価値がどこにあるのか。非核三原則と命とは同時に秤にかけられるものではナイことは明白なのだ。いずれそんな秤(議論)などは、ある程度の確率しか導き出さない。要するに「確率は同じです」という丁半博打の結果のようなものしか提示しまい。
それならば、核共有などという前に、/一家に一台マシンガンを持つことを許可する/という「議論」をしてみるがイイのだ。阿呆どもめ。その阿呆どもの口車に、怯える犬の如く乗せられるんじゃアリマセンぞっ。

: 議論なら、まず近くの知人、友人とやればイイのです。胆にあるものをそこで吐き出せばいいのです。それがcommunicationの始まりです。

« Sophism sonnet・69,8-20 | トップページ | Sophism sonnet・69,9-02 »

経済・政治・国際」カテゴリの記事