Sophism sonnet・69,9-04
分けるけるということは出来ない
:昨日、ちょっと怖いことを書いたので、きょうは忘憂 緩和になることを書いてみた。
以下に記すことは宗教教義でも神秘学でもナイ。
とはいえ、釈迦やその弟子などはそれを充分に識っていた。仏教における「不二法門(ふにほうもん)」は維摩経のコンテンツとして特徴的なものだが、互いに相反する二つのものが実は別々に存在するものではないということを説いている。ここからハナシをすすめると禅問答めいた頭クルクルになってくるので、すっごく簡単明瞭に述べると、何度もこのブログで書いたことになるのだが、円周率(π)が何故計算終了出来ないのかは、円という「分け方」に問題があるからだ。円という線分で円の内部と外部を分けるということはそもそも不可能なのだ。
何故なら、円という分割の線分などは無い(存在しない・存在不可能)なのだから。つまり円というのは数学における平面概念であって実体ではナイ。外部と内部が分けられないのだから、その内部の(半径を1とした円)の面積(π)は求めようがナイ。このように外と中(内部)というような二項対立を不二法門は否定する。たとえば、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提。/有漏(うろ)と無漏(むろ)というのは、仏と衆生の関係、菩提というのは涅槃往生をいう/。
もっとも切実な生死の対立もここでは否定される。もとより生死は「不二」のものであって分けられるものではナイ。生が終わったから死が始まるというワケではナイ。少し諄(くど)くいうと、「生」というのはたしかに飯食って糞して生きることで、「死」はそういうことの終わることではあるが、終わってしまったものが始まるというのは矛盾である。よって「死」が始まるということはナイ。(ついでにいえば、「くどく」は「口説く」でもあるが「功徳」でもある)。この文脈が宗教教義ではナイ証拠に、物理学な見地に立てば、私たちの「生」はこの宇宙の始まり、ビッグバンから「時空」とともに始まったニュートン力学的な生命体の在り方でしかナイ。私たちにはもう一つの「生」の在り方があって、それは量子力学的自然のものだが、不二の法則から、この二つを分けることはもちろん出来ない。その観点からすれば「生死」というものは二項対立ではナイ。無論、私たちはこのままでいつまでも生き続けることは出来ないので、ニュートン力学的存在はとりあえず「固有の時空」とともに終わる。ただし、もう一つの在り方、量子力学的自然存在としては、単に波動という振動に戻ってコヒーレンス(純粋状態)な「場」に存在を相転位するだけだ。ここで、その場の状態が真に「純粋状態」であれば、波の「重ね合わせ」(この波束収縮の頂点が「粒子」と称されるものだ)として散逸構造による連続運動を始める。つまり、あらたにエネルギーとして生じる。仏典『般若心経』では「色即是空 空即是色」と記されているが、いわゆる消滅と生成の循環である。
:そもそも、私たちはそれぞれが「重力波」なのだが、(だから重力波は逆に観測されない。それは海の中で水をみつけるようなものだから)この宇宙という「場」においては、ニュートン力学にコンプライアンスしている。
:この観点から、私は鬱疾患を精神疾患とは考えていない。鬱疾患は物理的変容だ。
これは私の死生観でもある。
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