Sophism sonnet・69,8-17
シンギュラリティ (singularity)とカーリング
シンギュラリティ (singularity)という横文字(カタカナ文字)を説明する前にデジタル・トランスフォーメーション(DX)という横文字(カタカナ文字)から述べていく。(こういうカタカナ文字(以下、カ文字と略す)は近年あふれているのだが数式よりもヤッカイだ。/古希近き隣は何処の国の人/で、記憶力が減衰しているのがその原因)数式は図面だとおもえばよく、ともかく慣れなので、それにcommunicationとしては世界共通だし便利なのだ。カ文字はなあ、次から次だからなあ。しかしまあヤルか。DXのほうは略される前のデジタル・トランスフォーメーションから、なんとなくデジタルのフォーメーションのトランスなんだからと察しはつく。これは「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」という仮説である。経済産業省の定義によると「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」となっているが、なんやねんソレ。ようワカランわ。ワカッテもそんなこと出来るのかね。「新しい資本主義」すら何のことか。ワカランのに。(提唱者の岸田総理が経済学というものを学問したことが無いヒトだということがワカルだけやな。でかいポスターに岸田はんがバストショットで/新しい地獄にみなさんといっしょに/とあったが、えっとおもったら、読みマチガイでしたワ)。
シンギュラリティというのはデジタル・トランスフォーメーションからちょいと具体的になって、「人工知能(AI)で改良・高度化された技術や知能が、「人類に代わって文明の進歩の主役」になる時点を指す」のだが、その類例はなんとまあ「将棋」によって一般人にも具体的になってきた。もはやAI抜きで「将棋」語ることは難しくなっている。棋士は百万円以上もするAIを使って「えーっ、そんな手が、ほう、こういう手が」と日々勉強しているのだが、今期の「王将戦」では藤井くんがもはや無意識に(AIの手をすでに自らの脳髄システムと化して)打った手が大注目された。これはヒトかAIかではなく、ヒトとAIの「重ね合わせ」による思考から生まれたものだ。ここらへんがあたかも量子ビットによる作用素(function)、量子コンピュータのアルゴリズム(algorithm)と相似している。
そこで、今期の冬季オリンピックでも注目だったカーリング。この知力(知能力)と体力(身体能力)を使ったゲームにAIが持ち込まれるのは時間の問題。もう持ち込まれているかも知れないが、来期はかなり増えているはず。ただAIは人工知能といわれながら、「知能」ではなく「確率計算機」であるということは識っておくほうがイイ。他にこれといった能力などは皆無だ。機械だから「身体(能力)」が無い。脳髄だって「身体(能力)」なのだ。さまざまな相手国のチームの構成員の個人データから、投げる順(役目)まで確率計算して「こうすれば勝ち目は大きい」とすることは出来るが、実際にゲームでストーンを滑らすのはヒトだから、その日のコンディション(メンタルを含む)による身体性までは計算出来ない。まあ、公営博打場に存在する予想屋程度のことは出来るがそこからは未知ということだ。
そこへきて、「予想外の展開」なんて「運」なんてどう転がるかワカラナイ。ラプラスの悪魔は量子力学の確率によって否定されたのだけど、その確率がラプラスの悪魔を蘇らせてしまっているような今日。新しいラプラスの悪魔を打ち破るのは、ドーピングでもマシンでもナイ。あるならば「もくもぐタイム」だろう。
:デジタル・トランスフォーメーション(DX)なんて、35年も前に私は『悪魔のいるクリスマス』(戯曲)で書いているゾ。と、少々威張る。
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