Sophism sonnet・69,8-20
「核戦争に勝者なし」なのか、どうか。
資本主義国家に敗戦した当時の惨めさの中でプーチンはふとかんがえたことだろう。
「ソ連は米国と並ぶ軍事力、核保有大国だ。それが何故負けたのだろう」
まず、冷戦終了時の軍事力は中ロを合わせても米国には劣るものだった。従って、このあたりの読みはプーチンの誤謬でしかナイ。ただ、後半部分において「核戦争に勝者は無い」という命題は真か偽か、と、プーチンは屁が出そうにるのを我慢する。通常いかなる命題(判断)も真か偽のいずれかであると考えられているのだが、「勝者なし」が当時は〈真〉命題とかんがえられていた。ここからプーチンは「ふと」ではなく、深く沈思する。かなり臭い屁考だ。つまり、この命題は〈偽〉ではナイか。具体的にいえば「核」は抑止力としての軍事力としてしか使えないことになっているが、他にも使いようがあるのではないか。単純な「使用価値」が別の「価値形態」となることはナイか。
もうずいぶんむかしのハナシになるが、エネーチケーに「教育テレビ」があった頃、「みんなで考えよう」系統の学級会的番組があって、その日は大人も子供も「核」について考えた、議論したのである。そこで、「核は必要ない」で意見の収拾がつく気配となった頃、ある小学生の男の子が「ボクは核は役にたっているとおもいます。必要だとおもいます。何故なら使えないからです。自分も相手も使えないということはそれで戦争を起きなくしているのだとおもいます。核は必要だとおもいます」と、核抑止力というコトバは知らなかったから使わなかったが、ハッキリと核抑止力について私見を述べたのだ。ここで、論議はピタリと止まった。居心地の悪い時間が流れた。時間の都合だか、編集だか、番組は終わった。
プーチンのウクライナ侵攻の尻馬に乗る、他人の褌を締めて、ここぞとばかりの火事場泥棒、なんとでもいえるが、安倍の阿呆の「ここは議論を」に岸田が「それはでけへん」と云うたのは褒めておこう。なんでも聞く耳があればヨイということではナイということを最近、岸田も学んできている。安倍なんぞの出る幕ではナイことくらいは判断している。
さて、プーチンにもどる。彼は「核」は抑止力以外に使用「価値」がある。つまり、「核を用いない核戦争に核で勝てばイイのだ」と、命題を「核戦争にも勝者はある」にコペルニクス的に、あるいはアリストテレスからハイデガー的に変容させたのだ。さすが元カーゲーベー(【KGB】ソ連邦の政治警察。 Komitet gosudarstvennoi bezopasnostiの略称で,国家保安委員会と訳す。ソ連崩壊とともにさまざま部署に分散した)。そのソ連崩壊についてプーチンはこう述べている「連邦の衰退は明らかだった。機能不全という状況の下、終末期もしくは不治の病にかかっていた。それは国家権力の機能不全だ」
ミシェル・フーコーは短い生涯を「権力とは何か」という課題に取り組んだ(と、私はおもうねん)。従って、カール・マルクスに対する評価も「権力」に対する視座からの批評ということになる。「当時、流布されていた〈権力〉というエピステーメ」を国家にみているだけで、それはその時代とともにひとつの地層として終焉している。(これはまた機会があれば論ずる鴨、の河原に千鳥がさわぐ)。
要するにプーチンは「核戦争にも勝者はある」という溜まりにたまった臭い屁を放ったのだ。いま世界はこの臭い屁の中で息苦しい情況に置かれている。つまり、プーチンは「権力」と「核」とを軍事に上手に(いまのところだけど)使用している。資本主義諸国の連帯など、下部構造での結びつきでしかナイ。ここに一発、権力の持つ核軍事力という屁をかましてやろう。
さあ、しかし、このプーチンの想定は真か誤謬か。
私は個人的意見として、プーチンは、資本主義国家は手玉にとったが、ウクライナのゼレンスキー大統領を過小評価していた、侮っていたとおもう。あれだけ攻められたらふつうの大統領なら亡命しまっせ。現にアメリカは受け入れの用意があるとまでいうてんのに、「阿呆か、オレは家族とともに最後まで、ウクライナ国民とウクライナで闘うねん」ときた。元お笑い芸人と、莫迦にスルなかれ。
:笑えっ、笑えっ、ゼレンスキー。「プーチンの屁は臭いが嗅いでも死なない、何故なら屁のようなものだから」と。
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