無料ブログはココログ
フォト

« Sophism sonnet・69,8-10 | トップページ | Sophism sonnet・69,8-12 »

2022年2月 4日 (金)

Sophism sonnet・69,8-11

一字チガイで大違い「空虚」と「皇居」

理(ことわ)っておくが、私はいまのところは岸田首相の指示者だ。それからずっと昭和天皇、皇后のファンであった。上皇、上皇后となられたいまもそうだ。「皇居」って世界文化遺産になっていないのか。佐渡の金山と比較してというより比較などするほうがどうかしているんだけれど、ナ。

最近『ザ・ファブル』(シリーズ2作目)と『キャラクター』を観ましたワ。DVD鑑賞者なので、世間よりずいぶん遅れています。双方ともレビューは同じくらい(じゃっかん『キャラクター』のほうがイイのかナ)。私は『ザ・ファブル』のほうがホンがよく出来ているとおもいました。『キャラクター』のほうは、百匹目くらいの柳の下の泥鰌にしては頑張っていましたが、二点ほど、ここはダメだなあと、物書きのプロとしては減点。特に最後の犯人の叫ぶようなせりふには唖然として、「それはアカンというよりチガウでしょ」とおもいました。ここだけネタバレとかになりますがアタマのネジの飛んだ犯人が法廷で「ボクは誰なんだあっ」と、云うんですけど、えっ、アイデンティティ、そうか時代というのが存在するとして、サルトルあたりまで後退したかとおもい、せめて「おまえらは誰なんだあっ」くらい云わさないとナア、それとも判事に「あんたか、あんたは人殺しや」と云わせて終りにするとか。で、ないとなんだか「空虚」だ。

なるほど、AFFの親方は経団連か。「連合」とかいうのを調べていくうちに、経団連のことがわかったりしたのだが、にしては、設立時における日本経済聯盟会の名誉会員渋沢栄一氏の顔に泥を塗るようなことをよくもまあ、平然とやるなあと、「空虚」になった。

この「空虚」というコトバの表出は、『世界史の分岐点』(SB新書・佐藤優×橋爪大三郎対談)からきている。いまのところズバリとまでの楔ではナイが、「閉塞」とか「寄り添う」とか、なんかもう忘れ去られた「絆」なんていうコトバよりは皮膚感覚的ですワ。
私は四十年以上の鬱病者だから「空虚」といわれても、わりといままでそういう日常感覚で生きてきたので、もうひとつなのですが、ほかに適当なのは無えな。なんだろなあ。
ワカリマセンが、このホンの中でもっとも印象に遺った言説は「剰余価値」でした。「剰余価値」というのは、マルクス『資本論』の中核に在る言説だが、ここでは資本家の分捕りを示しているのではなく、労働価値の中でもっとも有用、有効な質の量を云う。つまり、一日の賃仕事が短縮され、余暇として用いることの出来る時間だ。この「剰余価値」の平面に〈表現〉があり、演劇もまたそうなのだ。
あたかも旧世界の資本家のごとく「剰余価値」を〈搾取〉するAFFを許容しておいて、マチガッテも「新しい資本主義」などと云ってはイケナイ岸田さん。いつものごとく「文化庁からは聞いてナイ」のだろうけど。

:さて、量子コンピュータ・システムの思考は以上の「重ね合わせ」から何をoutputするのだろうか。波は思わぬところに収束収縮する。日本外務省もいつまでもsabotageを決め込んでいないで、「おいよう、誰か台湾に行く野郎でもお嬢でもいいから、いねえか」と腰を挙げたらどうだ。ベトナムにGDPで追い抜かれる前に。

« Sophism sonnet・69,8-10 | トップページ | Sophism sonnet・69,8-12 »

思想」カテゴリの記事