無料ブログはココログ
フォト

« Sophism sonnet・69,8-11 | トップページ | Sophism sonnet・69,8-13 »

2022年2月 7日 (月)

Sophism sonnet・69,8-12

「空」と「無」ってどうチガウの

やや、というか、かなり生臭い話題がつづいたので、気分転換でもしよう。
「空虚」というコトバが前回出てきたので、仏教でいう「空」について私が勝手に学んだことかんがえたことを述懐する。(再々やっているのだが、こういう空虚で生臭い情況のときは、そういうことをかんがえると脳髄も一息つく)
といいつつ、物理学にひょいと飛んでしまうのだが、現在の物理学における主流(あるいは主張)では、この宇宙がインフレーションからビッグバンで開闢する以前、〈そこ〉はいったいナンデあったのかということについて、「時間も空間も無い」ところということになっている。つまり「完全な無」だ。これはこうしないと、宇宙開闢が何処でどんなふうに起こったのかいつまでたっても収束点列してその瞬間に辿り着けナイからだ。ここでふつうのヒトは、そういうことが書いてあるホンを「投げる」。ほんとうにゴミ箱に投げたヒトだってあったはずだ。私も困った。「時間も空間も無い」トコロが在るのだから。いい方を変えればそういうトコロがなければ宇宙は開闢できない。つづめていえば「無が有る(在る)」という極めつけの矛盾を物理学はさらっと云ってのけるのだから、アホラシクて付き合いきれない。
そこで、仏理学のほうに「重ね合わせ」てかんがえてみるという私独特の思考を試みた。要するに『般若心経』だ。かの有名な「色即是空 空即是色」だ。仏理学では大乗系の「空論」の教説として知られている『維摩経』があるが、この教説の要(かなめ)である「不二の法門(ふにのほうもん)ふうにいってしまえば、「色即是空 空即是色」とは、「色」(物質や感覚、およそニュートン力学的な生成)と「空」(非ニュートン力学的な生成)は「不二」(分けてかんがえてはいけない)ということになる。簡単いうと「一緒」「同じ」なのだが、この解説はかなり一般的仏理学の説明でしかない。何が「同じ」何が「一緒」なのか、まで言及しないと意味がナイ。ということは、かつてこのブログにおいても『般若心経とは何か』で展開したので、ここではそれは繰り返さない。もちっとチガッタ斬り込み方を試みる。(切り込みでなく斬り込みだぞ)
わざわざ「色」と「空」をニュートン力学的な生成からの視点にしたのは、開闢以前の〈場・トコロ〉を「熱量平衡状態」の〈場・トコロ〉として、これを「空」とかんがえ、「色」はそこに「熱量」が生じることとして、「色即是空 空即是色」で宇宙開闢を描いてみたのだ。「色即是空 空即是色」の読み方を「色即ち空と成し、空即ち色と成す」という読み方にしたのは、前述した『般若心経論』にも記した。従って、仏理学的にも物理学的にも、「時間も空間も無い」トコロ(場)というのは、「熱量平衡状態」のトコロ(場)で、たしかにそこには「時間も空間」と呼べるものは無いといえば無いワケだし、カラっぽの空間も無いのかと反論されれば「カラっぽの空間」というのはコトバの上での同義反復でしかなく、そういった概念の空間というものは存在しない(空間とは称することができない)と応えるしかナイ。ここで、私たちは「カラッぽ」というものが「空間」だ、という意味づけ乃至(ないし)は概念を棄てねばならない。
「頭が空っぽ」というのは、「脳髄の平衡状態(思考不能)」を云っている。まるでいまの日本の政治を形容しているようだが、それなら狡猾よりマシだ。狡猾な政治、策謀だけの政策よりは、「空っぽ」のほうがまだマシなのだ。(と、居直っておこう)
むしろ、不可思議なことは、そのような「熱的死・熱量平衡状態」な「空」に「何処から」〈時空〉を生じさせる量子(しかナイのだが)が入り込んできたかのほうだ。
こいつについては、私は「空」に「何かが(量子が)コロンと出てきた」という現状物理学の考え方の、外部(が在るとして)からの進入とかんがえるより、内部にコヒーレンスな相転位があったとするほうがイイのではないかとおもっている。
さて、私が思考出来るのは現状そこまでで、古希を目前にして、私は私の脳髄は未だ働いているナという奇妙な安心を得る以上のことは、出来ないでいる。出来ないとはヤラナイことではナイ。はめると痛い義歯に慣れるより義歯を私の口腔に合わせるほうがアタリマエだ。

« Sophism sonnet・69,8-11 | トップページ | Sophism sonnet・69,8-13 »

仏教・宗教」カテゴリの記事

思想」カテゴリの記事