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2022年2月12日 (土)

Sophism sonnet・69,8-15

修行に道を求めんとすれば試練あるまじきと覚ゆ

何がキライといって「神の試練」と云うキリスト教の「狂信」に近い、いや、そのもの、の教義、信仰だけは駄目だ。キライというより「許容できない」部類になる。(もっとも、呉智英センセイにいわせると信仰というのはおしなべて「狂信」だそうだけど)。だからなのか、その逆なのか、旧約では『ヨブ記』はよくワカラなかった。この作品はキリスト教作家にとっていろいろと題材にされて問題化、文学化されているそうだが、『ヨブ記』自体は駄作だといまでもおもっている。それで『ドブ記』なんぞを戯曲(『港町memorial』)に挿入したことがある。私自身はもちろん、『ヨブ記』のparodyのつもりで書いたのだが、劇中劇であるこちらのほうが本歌より好きだ(自画自賛)。
芥川龍之介文士の『蜘蛛の糸』はたぶん芥川としては仏教に対するirony(皮肉)のつもりだったのだとおもうが、そのとおりに受け取っている読者はあまりいないのではないかとおもう。教訓童話の類として理解、了解、されているようだ。
二十歳代の半ばだったか、名古屋駅の駅前で少し年下のクリスチャン少女との問答に負けて洗礼をその場で受ける羽目になったので、私自身、仏教よりはワカリやすい(と当時はおもっていた)キリスト教の教徒の端くれになろうと努力(だったとおもう)はしたが、これには少年のころ読んだ『聖書物語』というイエス・キリストの伝記が影響しているのだけれど、チェスタートンの『正統とは何か』を読むまでは疑問だらけで、高校卒業のときに配布された無料のギデオン版新約には、underlineや疑問符が書き込まれている。かなり好きなコトバもある一方でワケのワカラン矛盾もあり(これは、聖書自体がイエスの辻説法の寄せ集めだから仕方ないと、ユダヤ教徒のハリイ・ケメルマンの説明で納得がいった)そのあたりを整然と解読してくれた『正統とは何か』のほうに『聖書』より長く影響を受けた。チェスタートンにせよケメルマンにせよ、ミステリを書いている(前者『ブラウン神父(シリーズ)』、後者『九マイルは遠すぎる』や、曜日をタイトルに入れた「ラビ・シリーズ」)というところが論理的でキリスト教に対する評論が的確なのだろうとおもわれる。しかしチェスタートンもまた「進化論」についてはかなりのコジツケに近い推察説明をしており、これはチェスタートン得意のparadoxではすまないぞ、とキリスト教がなぜにそこまげ科学を遠ざけるのか依然として不可解だった。
人気のあるカトリックのマザー・テレサについてはもはや論外に近く、「神の試練」を振り翳(かざ)す、というより振り回しながらの伝導の姿勢は聖書を法(真義)とすればコンプライアンスからの逸脱(聖書違反)といえるのではないか(マタイ福音・chapter 6、chapter 7、ここには、私は丸印なんかを付けている。いわゆる「6」の後半は有名な「ソロモンの栄華」を譬えに、~みよや野の花、空の鳥~を説いたところで、若い頃挫けそうになると、ここを読んだ。章の1では「自分の義を、見られるために人の前で行わないように」と偽善者について記されている)。マザー・テレサの貧者のための療養所では、医学知識のあるものは誰も存在せず、シスターたちが不潔このうえない治療を、豊富にあるはずの寄金をどこに使ったのか、わざわざ貧弱な結構で建造し、病もまた「試練」と解いているなんざ、許されるべきではないだろう。
私はハッキリと盃を返した(棄教)したワケではナイが、吉本隆明老師が親鸞に打ち込んでいったあたり、それ以前の『ハイ・イメージ論』で吉本学派の多くが吉本学を離れたときは、『ハイ・イメージ論』は好きだったが『親鸞論』のほうが肌に合わず、どうも根がエピクロスやスピノザ好みなものだから、一休宋純あたりへ傾倒し、カトリック、プロテスタントとも相対化してしまうと、牧師の資格は便利だからうまいこと使って仏教のeventから逃避し、シッダルータ釈迦牟尼の人間臭さに愛着している。
そうなると、タイトルのように「修行に道を求めんとすれば試練あるまじきと覚ゆ」なんてカッコイイことの一つも云ってみたくもなるものだ。特に修行なんかしてはいないが、「これも修行と諦めよう」と嘯き、居直らないと、とても「我が人生に悔い無し」どころか我が人生なんてヨレヨレで肯定出来たもんじゃナイからだ。
 
: 余談になるが、拙作『寿歌』はけっきょくのところ「私がどうしてもキリスト教徒になれない理由」というテーマ、モチーフを内包している。「いいかげん」なの者は古希近くになっても「いいかげん」なのだ。ただ、シッダルータの「悟り」はこの「いい加減」あたりに在るという感触はなんとなくもっている。

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