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2022年2月26日 (土)

Sophism sonnet・69,8-18

資本主義・幼年期の終り

/「川の終り」は「海のはじまり」である/は、たなか亜希夫氏のcomic『リバー・エンド・カフェ』の完結巻で、カフェのマスターの語る独り言めいたコトバだが、このコミックをよくある「よくあるお話」として読むことはもちろん可能だしマチガッテもいないが、私の読み方で読むとこの長編劇画は主人公(ヒロイン)のジャズシンガー入江サキの〈記憶〉を描いたものだということになる。かの物語はけして「ヨクアル寓話」ではナイ。私たちは記憶を生きている。人生と称されるものは「私の記憶」でしかナイ。人生とは私の記憶を私が生きる道程だ。
さて、現状、世界はこのような美しくせつないブルースの中にナイことはいうまでもない。さながら〈悪夢の記憶〉のように様変わりした。私なりに現状を解釈してみれば、欧米にせよ、NATOにせよ、資本主義は擬制の終りを迎えている。『幼年期の終り』は、アーサー・C・クラークのというよりS.F史上の最高傑作の誉れ高いが、およそこの作品に肩をならべられる日本S.Fは『百億の昼と千億の夜』くらいだ。
私たちはCOVID-19のパンデミックと、プーチン狂気の侵略戦争を経験することによって、「自由主義」「民主主義」というものが欺瞞であり、妄想であり、或いは単なる資本主義の仮面、擬態でしかなかったことを思い知らされたことになる。
中立国ウクライナが世界のIT産業にどれだけ貢献してきたか、資本主義国家は百も承知でありながら、プーチン・ロシアのウクライナ侵略にたいして非徹底な「経済制裁」しか発動出来ず、つまるところ資本主義、欧米日諸国は「パンとビール」を選んでウクライナを見棄てたのだ。ゼレンスキー大統領の呼びかけを聞いたふりだけはしたものの、血と涙を「経済」に売ったのだ。資本主義国は自らの根幹である「経済システム」に逆に〈疎外〉されたのだ。「国家」という強迫観念に振り回されて血肉通う「人民」を喪失したのだ。プーチンは此度の侵略戦争においてかなりレーニンを学習したらしく、プーチンの狂気の源泉はスターリンでもネオ・ナチでもなく、レーニンであったという皮肉はたとえ狂気の沙汰とはいえ、東西両陣営の戦歴の中に残されるにチガイナイ。
資本主義は自由主義、民主主義をあたかも〈正義〉のように振りかざしてきたが、そんなものは存在しない虚妄のマスク、makeupでしかなかった。日本を始め、アメリカ合衆国と同盟(或いはそれに近い関係)を謳う国は、アメリカの主義、思想に同調してきたのではなく、ただ、その軍事力を頼りにしているだけであるということを、そうして欧米に出来ることは「経済制裁」という短時間では効果の無い戦術だけであることを今更ながら心すべきだ。ウクライナはよく闘っている。立派だとおもう。
資本主義の幼年期(擬制)が完璧に終わるのはいつの日か、それは誰も知らない(と、結束信二さんの時代劇ラストシーンのナレーションのごとき結びでござんす)。

:疎外/カール・マルクスいうところの自然哲学における基本概念。アリストテレス哲学に対するひとつの反論にあたる。ハイデガーの実存やキェルケゴールの絶望の弁証法に対して、自らのものでありながら(あるゆえに)自らの意のままにならぬ(逆に隷従させられる)本質存在。たとえば疾病とみられている鬱疾患などはその顕著な例示かも知れない。
:共和党のトランプ時代の高官のいうところ、キエフ陥落がロシアの予定より遅れているのは米国提供の対戦車兵器に依るもの(もっとも、此度のプーチン侵略以前の配備であるから、クリミアを侵略された後、ウクライナが自国防衛のために配備したものとおもわれる)だとのこと。

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