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2022年2月

2022年2月28日 (月)

Sophism sonnet・69,8-20

「核戦争に勝者なし」なのか、どうか。

資本主義国家に敗戦した当時の惨めさの中でプーチンはふとかんがえたことだろう。
「ソ連は米国と並ぶ軍事力、核保有大国だ。それが何故負けたのだろう」
まず、冷戦終了時の軍事力は中ロを合わせても米国には劣るものだった。従って、このあたりの読みはプーチンの誤謬でしかナイ。ただ、後半部分において「核戦争に勝者は無い」という命題は真か偽か、と、プーチンは屁が出そうにるのを我慢する。通常いかなる命題(判断)も真か偽のいずれかであると考えられているのだが、「勝者なし」が当時は〈真〉命題とかんがえられていた。ここからプーチンは「ふと」ではなく、深く沈思する。かなり臭い屁考だ。つまり、この命題は〈偽〉ではナイか。具体的にいえば「核」は抑止力としての軍事力としてしか使えないことになっているが、他にも使いようがあるのではないか。単純な「使用価値」が別の「価値形態」となることはナイか。
もうずいぶんむかしのハナシになるが、エネーチケーに「教育テレビ」があった頃、「みんなで考えよう」系統の学級会的番組があって、その日は大人も子供も「核」について考えた、議論したのである。そこで、「核は必要ない」で意見の収拾がつく気配となった頃、ある小学生の男の子が「ボクは核は役にたっているとおもいます。必要だとおもいます。何故なら使えないからです。自分も相手も使えないということはそれで戦争を起きなくしているのだとおもいます。核は必要だとおもいます」と、核抑止力というコトバは知らなかったから使わなかったが、ハッキリと核抑止力について私見を述べたのだ。ここで、論議はピタリと止まった。居心地の悪い時間が流れた。時間の都合だか、編集だか、番組は終わった。
プーチンのウクライナ侵攻の尻馬に乗る、他人の褌を締めて、ここぞとばかりの火事場泥棒、なんとでもいえるが、安倍の阿呆の「ここは議論を」に岸田が「それはでけへん」と云うたのは褒めておこう。なんでも聞く耳があればヨイということではナイということを最近、岸田も学んできている。安倍なんぞの出る幕ではナイことくらいは判断している。
さて、プーチンにもどる。彼は「核」は抑止力以外に使用「価値」がある。つまり、「核を用いない核戦争に核で勝てばイイのだ」と、命題を「核戦争にも勝者はある」にコペルニクス的に、あるいはアリストテレスからハイデガー的に変容させたのだ。さすが元カーゲーベー(【KGB】ソ連邦の政治警察。 Komitet gosudarstvennoi bezopasnostiの略称で,国家保安委員会と訳す。ソ連崩壊とともにさまざま部署に分散した)。そのソ連崩壊についてプーチンはこう述べている「連邦の衰退は明らかだった。機能不全という状況の下、終末期もしくは不治の病にかかっていた。それは国家権力の機能不全だ」
ミシェル・フーコーは短い生涯を「権力とは何か」という課題に取り組んだ(と、私はおもうねん)。従って、カール・マルクスに対する評価も「権力」に対する視座からの批評ということになる。「当時、流布されていた〈権力〉というエピステーメ」を国家にみているだけで、それはその時代とともにひとつの地層として終焉している。(これはまた機会があれば論ずる鴨、の河原に千鳥がさわぐ)。
要するにプーチンは「核戦争にも勝者はある」という溜まりにたまった臭い屁を放ったのだ。いま世界はこの臭い屁の中で息苦しい情況に置かれている。つまり、プーチンは「権力」と「核」とを軍事に上手に(いまのところだけど)使用している。資本主義諸国の連帯など、下部構造での結びつきでしかナイ。ここに一発、権力の持つ核軍事力という屁をかましてやろう。
さあ、しかし、このプーチンの想定は真か誤謬か。
私は個人的意見として、プーチンは、資本主義国家は手玉にとったが、ウクライナのゼレンスキー大統領を過小評価していた、侮っていたとおもう。あれだけ攻められたらふつうの大統領なら亡命しまっせ。現にアメリカは受け入れの用意があるとまでいうてんのに、「阿呆か、オレは家族とともに最後まで、ウクライナ国民とウクライナで闘うねん」ときた。元お笑い芸人と、莫迦にスルなかれ。

:笑えっ、笑えっ、ゼレンスキー。「プーチンの屁は臭いが嗅いでも死なない、何故なら屁のようなものだから」と。

2022年2月27日 (日)

Sophism sonnet・69,8-19

Moratorium(執行猶予)

中学も終了間近になると、教師と保護者と当事者(児童・生徒)の三者面談があって、教師がいう。「あんたの息子さんは偏差値がこれくらいだから、この高校はマチガイナク行ける。もう少し勉強すれば、段階を上げて最高ランクの受験校に行ける」
私は偏差値というものがどういうものかいまでも知らない。何かの学力の相対数値だというくらいの理解しかしていない。だから逆に「いまのランクからもう一つ落としたら、何処に行けますか」と訊ねた。理由は受験のための勉強などやりたくなかったからだ。そこで試験勉強しなくても入れる新設の石山高校ということになって、六期ということで入学した。ところが、現在(いま)この高校は女子の受験高の滋賀県トップで、当時はクラスの3割しか女子はいなかったのだが、いまでは受験女子であふれているらしい。しかしまあ、私は試験勉強はしていない。親が不安がるといけないので、友人が数人集まって試験勉強するふりはした。ある時は二人で、という場合もあった。そのときもあのときも、勉強は二の次で、たいていエロ本を読んだり、将来はどんな女とヤリたいかとか、とりあえずエロが中心にはなったが、今度のピンク映画のポスターはスゴイぞ、とか、スケベエというより可愛い憧憬だったろう。
私は高校で勉強なんぞスルつもりはなかった。若い時間、いうならば青春の門口なのだが、そういう時間を無駄にしたくなかったのだ。けして軟派ではなかったが、できるだけこのmoratoriumを有効に生きたかった。当時から私は身体に故障が多く、四十歳から五十歳が生存限界だとかんがえていたからだ。
一学年200人で中間テストでは席次が170番くらいだったので、「何も試験勉強しないとこのあたりか」というデータに基づいて、期末テストは落第点をとらない程度に勉強したら席次は40番以内になった。特に試験勉強のようなものをしたワケではなく、だいたい私には数学にせよ、英語にせよ、ナンの授業でナニを教えてもらっているのかほぼワカラナカッタので、「古典」などは白紙提出で、その代り裏に何故白紙答案になったかという言い訳を漢文(もちろん正確なものではナイのだが)で記した。表は零点だったが、裏の漢文は赤く三重丸があって60点と書かれてあった。「倫理社会」は教師のミスで試験用紙が時間を間違えられて配布されたため、教師はすぐに回収、大急ぎで5問、書き込み答案の試験となり、私は86点で学年最高点となり、同級生から「きみはいったいどんな試験勉強をしているのか」と訊かれたりしたこともある。なんのことはナイ、試験10分前に目を通した部分がそのまま出題されていた。ヤマカンが当たっただけである。つまり勘と悪運は強かったのだ。
大学をどこにするか、また三者面談があった。私はいろいろ大学を調べたが、学びたい学問も無く、行きたい大学もなく、偏差値でここならどうかと幾つか示されたが、偏差値の意味はそのときもワカラズ、けっきょく「留学します」と適当に誤魔化した。
いま、COVID-19のせいで、満足に学校での学問が出来ず、モニターでのコミュニケーションでは学生生活もままならず、小・中・高・大、と昔でいうならノイローゼ、いまは「うつ病」症状に陥る生徒、学生が増えているらしい。しかし、学校などというものはmoratoriumなのだ。というか人生なんて、いくら頑張ってもツマラナイことのほうが多いし、まず90%はおもうようにナラナイ。生きるのが終わるまでのmoratoriumなのだ。
飲酒、博打には興味がなく、dragなどは子供のときからイヤになるほどのまされているので、これも興味がなく、女に関しては「愛」というものがワカラズ、悩みにおいては「孤独」というものがワカラズ。「情」と「退屈」とに置き換えて過ごしてきた。ほんとうにココロからワカルのは「哀しみ」だけだ。
私のmoratoriumも残りが数えられる程になってきたが、さてそれが終わってからどうなるのだろう、という「好奇心」も「悪運」と「勘(balance)」とともに私の三種の神器である。
このmoratoriumをどう愉しむか。「鬱陶しい」季節を生きている「あした来るひと」よ、まずそれをかんがえたまえ。
それだけが「きのう生きたひと」である私の得た教訓だ。無常のうちに常に在るもの、血と青空と風が世界だ。
(どや、きょうはヤケに文学的やろ)

:昨日「パンとビール」を選んだ資本主義国家に悪態をついたが、プーチン一家にとって、民主主義一家も「ヤってやろうじゃないか」と、もっともswiftに慎重だったドイツが武器まで供給するという。これはもう仁義の上の殴り込み、「死んで貰うぜ」だ。
つまり、「風」が吹いたのだとおもう。

2022年2月26日 (土)

Sophism sonnet・69,8-18

資本主義・幼年期の終り

/「川の終り」は「海のはじまり」である/は、たなか亜希夫氏のcomic『リバー・エンド・カフェ』の完結巻で、カフェのマスターの語る独り言めいたコトバだが、このコミックをよくある「よくあるお話」として読むことはもちろん可能だしマチガッテもいないが、私の読み方で読むとこの長編劇画は主人公(ヒロイン)のジャズシンガー入江サキの〈記憶〉を描いたものだということになる。かの物語はけして「ヨクアル寓話」ではナイ。私たちは記憶を生きている。人生と称されるものは「私の記憶」でしかナイ。人生とは私の記憶を私が生きる道程だ。
さて、現状、世界はこのような美しくせつないブルースの中にナイことはいうまでもない。さながら〈悪夢の記憶〉のように様変わりした。私なりに現状を解釈してみれば、欧米にせよ、NATOにせよ、資本主義は擬制の終りを迎えている。『幼年期の終り』は、アーサー・C・クラークのというよりS.F史上の最高傑作の誉れ高いが、およそこの作品に肩をならべられる日本S.Fは『百億の昼と千億の夜』くらいだ。
私たちはCOVID-19のパンデミックと、プーチン狂気の侵略戦争を経験することによって、「自由主義」「民主主義」というものが欺瞞であり、妄想であり、或いは単なる資本主義の仮面、擬態でしかなかったことを思い知らされたことになる。
中立国ウクライナが世界のIT産業にどれだけ貢献してきたか、資本主義国家は百も承知でありながら、プーチン・ロシアのウクライナ侵略にたいして非徹底な「経済制裁」しか発動出来ず、つまるところ資本主義、欧米日諸国は「パンとビール」を選んでウクライナを見棄てたのだ。ゼレンスキー大統領の呼びかけを聞いたふりだけはしたものの、血と涙を「経済」に売ったのだ。資本主義国は自らの根幹である「経済システム」に逆に〈疎外〉されたのだ。「国家」という強迫観念に振り回されて血肉通う「人民」を喪失したのだ。プーチンは此度の侵略戦争においてかなりレーニンを学習したらしく、プーチンの狂気の源泉はスターリンでもネオ・ナチでもなく、レーニンであったという皮肉はたとえ狂気の沙汰とはいえ、東西両陣営の戦歴の中に残されるにチガイナイ。
資本主義は自由主義、民主主義をあたかも〈正義〉のように振りかざしてきたが、そんなものは存在しない虚妄のマスク、makeupでしかなかった。日本を始め、アメリカ合衆国と同盟(或いはそれに近い関係)を謳う国は、アメリカの主義、思想に同調してきたのではなく、ただ、その軍事力を頼りにしているだけであるということを、そうして欧米に出来ることは「経済制裁」という短時間では効果の無い戦術だけであることを今更ながら心すべきだ。ウクライナはよく闘っている。立派だとおもう。
資本主義の幼年期(擬制)が完璧に終わるのはいつの日か、それは誰も知らない(と、結束信二さんの時代劇ラストシーンのナレーションのごとき結びでござんす)。

:疎外/カール・マルクスいうところの自然哲学における基本概念。アリストテレス哲学に対するひとつの反論にあたる。ハイデガーの実存やキェルケゴールの絶望の弁証法に対して、自らのものでありながら(あるゆえに)自らの意のままにならぬ(逆に隷従させられる)本質存在。たとえば疾病とみられている鬱疾患などはその顕著な例示かも知れない。
:共和党のトランプ時代の高官のいうところ、キエフ陥落がロシアの予定より遅れているのは米国提供の対戦車兵器に依るもの(もっとも、此度のプーチン侵略以前の配備であるから、クリミアを侵略された後、ウクライナが自国防衛のために配備したものとおもわれる)だとのこと。

2022年2月20日 (日)

Sophism sonnet・69,8-17

シンギュラリティ (singularity)とカーリング

シンギュラリティ (singularity)という横文字(カタカナ文字)を説明する前にデジタル・トランスフォーメーション(DX)という横文字(カタカナ文字)から述べていく。(こういうカタカナ文字(以下、カ文字と略す)は近年あふれているのだが数式よりもヤッカイだ。/古希近き隣は何処の国の人/で、記憶力が減衰しているのがその原因)数式は図面だとおもえばよく、ともかく慣れなので、それにcommunicationとしては世界共通だし便利なのだ。カ文字はなあ、次から次だからなあ。しかしまあヤルか。DXのほうは略される前のデジタル・トランスフォーメーションから、なんとなくデジタルのフォーメーションのトランスなんだからと察しはつく。これは「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」という仮説である。経済産業省の定義によると「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」となっているが、なんやねんソレ。ようワカランわ。ワカッテもそんなこと出来るのかね。「新しい資本主義」すら何のことか。ワカランのに。(提唱者の岸田総理が経済学というものを学問したことが無いヒトだということがワカルだけやな。でかいポスターに岸田はんがバストショットで/新しい地獄にみなさんといっしょに/とあったが、えっとおもったら、読みマチガイでしたワ)。
シンギュラリティというのはデジタル・トランスフォーメーションからちょいと具体的になって、「人工知能(AI)で改良・高度化された技術や知能が、「人類に代わって文明の進歩の主役」になる時点を指す」のだが、その類例はなんとまあ「将棋」によって一般人にも具体的になってきた。もはやAI抜きで「将棋」語ることは難しくなっている。棋士は百万円以上もするAIを使って「えーっ、そんな手が、ほう、こういう手が」と日々勉強しているのだが、今期の「王将戦」では藤井くんがもはや無意識に(AIの手をすでに自らの脳髄システムと化して)打った手が大注目された。これはヒトかAIかではなく、ヒトとAIの「重ね合わせ」による思考から生まれたものだ。ここらへんがあたかも量子ビットによる作用素(function)、量子コンピュータのアルゴリズム(algorithm)と相似している。
そこで、今期の冬季オリンピックでも注目だったカーリング。この知力(知能力)と体力(身体能力)を使ったゲームにAIが持ち込まれるのは時間の問題。もう持ち込まれているかも知れないが、来期はかなり増えているはず。ただAIは人工知能といわれながら、「知能」ではなく「確率計算機」であるということは識っておくほうがイイ。他にこれといった能力などは皆無だ。機械だから「身体(能力)」が無い。脳髄だって「身体(能力)」なのだ。さまざまな相手国のチームの構成員の個人データから、投げる順(役目)まで確率計算して「こうすれば勝ち目は大きい」とすることは出来るが、実際にゲームでストーンを滑らすのはヒトだから、その日のコンディション(メンタルを含む)による身体性までは計算出来ない。まあ、公営博打場に存在する予想屋程度のことは出来るがそこからは未知ということだ。
そこへきて、「予想外の展開」なんて「運」なんてどう転がるかワカラナイ。ラプラスの悪魔は量子力学の確率によって否定されたのだけど、その確率がラプラスの悪魔を蘇らせてしまっているような今日。新しいラプラスの悪魔を打ち破るのは、ドーピングでもマシンでもナイ。あるならば「もくもぐタイム」だろう。

:デジタル・トランスフォーメーション(DX)なんて、35年も前に私は『悪魔のいるクリスマス』(戯曲)で書いているゾ。と、少々威張る。

2022年2月19日 (土)

Sophism sonnet・69,8-16

「戦略が二流でも、実践が一流であればいい」

という命題からおもいつくことを記す。
〇演繹でも帰納でもイイのだが、岸田総理の方法論というか「戦略と実践」は「検討します」に尽きる。砕いていえば、「よく聞く(と自分でいうてはる)」ことはするが、それ以上のことはしない(あるいは「出来ない」)ことは、世間の現状を観ていればワカル。ひょっとしてナニかこの情況を転換させる策略でもあるのかという期待値も最早消滅してきた。先だっての「記者会見」をリアルタイムで聴いていて、このひとに「政治」は無理なんじゃナイだろうかとおもったのは、私だけではあるまい。皮肉をいえば、「この方、ナニを聞いていらっしゃるのかよくワカラン」
〇ウクライナのゼレンスキー大統領だけがエライ。彼は自国民に対して説いている。「戦争にはなりません。平常心で生活しましょう」この答は現状ウクライナ問題に対する応えとしては最も正しい。プーチンがやりたいことは「戦争」なのではナイ。NATO内部の分断と合衆国の分断(つまりは民主主義国家の分断)とウクライナの孤立だ。よって、プーチンは、EUからの連名の書簡には目もくれず、各々の国からの回答しか認めない戦略をとっている。 バイデンはそこで、ブリンケンとともに(このブリンケン、もちっとマシかとおもっているのだけど)「オープン・インテリジェンス戦略」に出た。簡単にいえば、ロシアの情報戦略「ダーク・インテリジェンス(要するにウソの情報)戦略」の逆で、プーチンの意図はウクライナ侵攻であるというメッセージを、世界にオープンに発信し、世界にウクライナを注視させ、ロシアの侵攻を抑止する策である。ウクライナ自体がウクライナ危機の中心ではナイという奇妙な構図が、ウクライナ情勢である。
〇では中華大国はどう出るか。(「漁夫の利」なんて云っているエライ評論家もありますが)、中華大国はリトアニア問題を抱えている。リトアニアは小国でありながら、台湾サイドなのだ。2001年11月18日に正式に欧州で初となる「台湾代表処(事実上の大使館)」を設立。さらに、台湾に累計25万本近くの新型コロナウイルスワクチンを提供。蔡英文台湾総統も、「状況が許せば、リトアニアという勇敢な国をぜひ訪問したい」と明言している。〈台湾は中華大国から「独立」したいのではない。台湾は、別に中国に帰属してはいない。だから独立ではなくて「建国」というのが正しい〉
もちろん、中華大国はあの手この手の悪辣剥き出しで、リトアニアを冷酷非道に叩いている。リトアニア国民は苦しみに耐えている。鶴田も耐えた、健さんも耐えた。EUは、代表処の開設や台湾との交流は「ひとつの中国」原則の違反ではない、とするリトアニアを支持している(支持だけで、別に協力しているワケではナイが)。しかしながら、チェコやスロバキア、ポーランドなどの中・東欧諸国は、台湾へのワクチン提供や要人の相互往来を、中国に臆することなく展開している。中華大国にとっては、リトアニアは目の上のたんこぶとまではいかなくとも、魚の目くらいにはジクジクと痛いのだ。
で、我が国は、阿呆しかいないようなので、「リトアニアから日本人退去」と、リトアニアに電話して日本人の安全をお願いなんかしている。
だから、自衛隊は北方領土の奪還と、台湾海峡の安全保持のために闘えっ。と、古希近き私はとりあえず、Hysterieになっている。

2022年2月12日 (土)

Sophism sonnet・69,8-15

修行に道を求めんとすれば試練あるまじきと覚ゆ

何がキライといって「神の試練」と云うキリスト教の「狂信」に近い、いや、そのもの、の教義、信仰だけは駄目だ。キライというより「許容できない」部類になる。(もっとも、呉智英センセイにいわせると信仰というのはおしなべて「狂信」だそうだけど)。だからなのか、その逆なのか、旧約では『ヨブ記』はよくワカラなかった。この作品はキリスト教作家にとっていろいろと題材にされて問題化、文学化されているそうだが、『ヨブ記』自体は駄作だといまでもおもっている。それで『ドブ記』なんぞを戯曲(『港町memorial』)に挿入したことがある。私自身はもちろん、『ヨブ記』のparodyのつもりで書いたのだが、劇中劇であるこちらのほうが本歌より好きだ(自画自賛)。
芥川龍之介文士の『蜘蛛の糸』はたぶん芥川としては仏教に対するirony(皮肉)のつもりだったのだとおもうが、そのとおりに受け取っている読者はあまりいないのではないかとおもう。教訓童話の類として理解、了解、されているようだ。
二十歳代の半ばだったか、名古屋駅の駅前で少し年下のクリスチャン少女との問答に負けて洗礼をその場で受ける羽目になったので、私自身、仏教よりはワカリやすい(と当時はおもっていた)キリスト教の教徒の端くれになろうと努力(だったとおもう)はしたが、これには少年のころ読んだ『聖書物語』というイエス・キリストの伝記が影響しているのだけれど、チェスタートンの『正統とは何か』を読むまでは疑問だらけで、高校卒業のときに配布された無料のギデオン版新約には、underlineや疑問符が書き込まれている。かなり好きなコトバもある一方でワケのワカラン矛盾もあり(これは、聖書自体がイエスの辻説法の寄せ集めだから仕方ないと、ユダヤ教徒のハリイ・ケメルマンの説明で納得がいった)そのあたりを整然と解読してくれた『正統とは何か』のほうに『聖書』より長く影響を受けた。チェスタートンにせよケメルマンにせよ、ミステリを書いている(前者『ブラウン神父(シリーズ)』、後者『九マイルは遠すぎる』や、曜日をタイトルに入れた「ラビ・シリーズ」)というところが論理的でキリスト教に対する評論が的確なのだろうとおもわれる。しかしチェスタートンもまた「進化論」についてはかなりのコジツケに近い推察説明をしており、これはチェスタートン得意のparadoxではすまないぞ、とキリスト教がなぜにそこまげ科学を遠ざけるのか依然として不可解だった。
人気のあるカトリックのマザー・テレサについてはもはや論外に近く、「神の試練」を振り翳(かざ)す、というより振り回しながらの伝導の姿勢は聖書を法(真義)とすればコンプライアンスからの逸脱(聖書違反)といえるのではないか(マタイ福音・chapter 6、chapter 7、ここには、私は丸印なんかを付けている。いわゆる「6」の後半は有名な「ソロモンの栄華」を譬えに、~みよや野の花、空の鳥~を説いたところで、若い頃挫けそうになると、ここを読んだ。章の1では「自分の義を、見られるために人の前で行わないように」と偽善者について記されている)。マザー・テレサの貧者のための療養所では、医学知識のあるものは誰も存在せず、シスターたちが不潔このうえない治療を、豊富にあるはずの寄金をどこに使ったのか、わざわざ貧弱な結構で建造し、病もまた「試練」と解いているなんざ、許されるべきではないだろう。
私はハッキリと盃を返した(棄教)したワケではナイが、吉本隆明老師が親鸞に打ち込んでいったあたり、それ以前の『ハイ・イメージ論』で吉本学派の多くが吉本学を離れたときは、『ハイ・イメージ論』は好きだったが『親鸞論』のほうが肌に合わず、どうも根がエピクロスやスピノザ好みなものだから、一休宋純あたりへ傾倒し、カトリック、プロテスタントとも相対化してしまうと、牧師の資格は便利だからうまいこと使って仏教のeventから逃避し、シッダルータ釈迦牟尼の人間臭さに愛着している。
そうなると、タイトルのように「修行に道を求めんとすれば試練あるまじきと覚ゆ」なんてカッコイイことの一つも云ってみたくもなるものだ。特に修行なんかしてはいないが、「これも修行と諦めよう」と嘯き、居直らないと、とても「我が人生に悔い無し」どころか我が人生なんてヨレヨレで肯定出来たもんじゃナイからだ。
 
: 余談になるが、拙作『寿歌』はけっきょくのところ「私がどうしてもキリスト教徒になれない理由」というテーマ、モチーフを内包している。「いいかげん」なの者は古希近くになっても「いいかげん」なのだ。ただ、シッダルータの「悟り」はこの「いい加減」あたりに在るという感触はなんとなくもっている。

2022年2月11日 (金)

Sophism sonnet・69,8-14

カタカナ文字のメモ

ちょっと前、私がまだ新進劇作家といわれていた頃、ちょっと前だから覚えている。インタビューが多かったナ。なにしろ「もっとも戯曲の完成度の高い新人」なんていわれていたのだから、ちょっと前は。インタビューしてくる御方もいろいろで、平身低頭、深謀遠慮、丁重親切なところから、いまじゃ落ち目の何処だかのメディアの女性編集者さんは助手と一緒にやってきて、「助手に〈北村想でネット検索させた〉ものを全部print outさせたらこんなに多いのよ、あ~たって、けっこ~なヒトなのね、知らなかったけどさ、私は」という矜持ツンツンなところまであった。ちょっと前のハナシだナ。
詳細、丁寧に資料をつくって特集してくれたのは「ぴあ」だったかな。そのとき、「いま、どんなホンを読んでいますか」というquestionに、「オレさ、一度に三十冊は読むからナア」とanswerして驚かれた。「だって、一冊読み始めて、ワカラナクなってくるとそのためにチガウ一冊を読まなきゃならない。で、そのホンでワカランところが出てくるとまた一冊増えるから鼠算式読書というのか、一度に三十冊くらいになっちゃう」ちょっと前だから覚えちゃいるが、いまではもうこんなことしなくてイイ。ネット検索があるからサ。読書たって、全部は読まない。必要なところしか読まない。だからfictionは殆ど読まない。これもちょっと前のことだけど。ミステリもいつも全部とは限らない、真犯人と物語のコンテンツが30ページくらい読むとワカッテしまうホンはミステリでも斜め読み。ちょっと、前だから覚えちゃいるけど、いまはもうむかしかい。それとも半年前だからおぼえているのか。

いまはネット検索とメモ・アプリを重宝しております。最近は、カタカナ文字が氾濫して、ワカラナイのが出てくるたんびに調べてはメモに残す。そうすると、ここでも自然に「重ね合わせ」が出来る。もう「ちょっと前」じゃナイのだけど、「これから先」どうすりゃいいのかなあのココロなんだろう。古希近くなっても悩める悩みは同じなのだ。『ハムレット』の名せりふ「生きるべきか、死ぬべきか」はもちっと深堀りすると「死ぬまで生きるべきか、死ぬ前に死ぬべきか」になる。そういうことがだんだんワカルようになってきた。

:テクノロジー・イノベーションセンター(TIC)異分野の企業や大学、研究機関との連携、提携、融合を通じてイノベーションを創出することを重視する/デジタル・トランスフォーメーション(DX)とはITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させるという仮説である。2004年にスウェーデンのウメオ大学教授、エリック・ストルターマンが提唱したとされる/「イノベーションの源泉」として3つの要素。それが、「哲学(Philosophy)」「人材(People)」「プロセス(Process)」の3Pである。この3つのPとDXを組み合わせての命題は「戦略が二流でも、実践が一流であればいい」/
最近メモしたもの。たぶん、演劇のイノベーションとは何だろう、とぼんやりかんがえながら拾ったさまざまな波動だろう。 

2022年2月 9日 (水)

Sophism sonnet・69,8-13

無題放免

「剰余価値について」というのがSophism sonnet・69,8-13のタイトルでこれをお読みになった方もあるとおもうが削除した。理由は鬱疾患の症状が書かせた文章(文案)だからだ。2/4あたりから強い鬱疾患の症状があったのだが、ともかく2/7にブースターワクチン(三回目接種)だったので、それまでなんとか誤魔化して(鬱疾患における対策、対応には誤魔化すというのも必要な手練手管なのだ)。
ともかく接種は終わって、熱が低体温(といっても35,6℃だから医療的には低体温とはいわないが)、血圧は多少高く、143-85だったが、私のような高齢者でこの年齢(六十九歳)の平均値は145-90だから、まあ、たいしたことはナイ。ただ、さすがに副反応というだけあって、ヒトの弱みに(弱点にかな)付け込んでくる。鬱疾患の症状がひどくなってきた。自殺念慮が強く、普通は朝だけのeventなのだが、これが日中、四六時中続く。その反動というか、打ち消しとでもいうか、ここでは書けない〇〇・・・nの連中をスコープ・ライフル(狙撃銃)でひとり一人狙い撃ちしたくなる。Aggressiveになって、いろいろなことに腹が立ってくる。しかし、そういうのは、鬱疾患の症状が治まれば「まったくマチガイ」ということで納得するので、ただ、いつものように(ではナイが、不機嫌と無口になるのだが、出来るだけ)振る舞っている。とはいえ気力の落ち込みで何にも出来ない。以前にも書いたが、「喉が乾いて水が欲しい、目の前にコップ一杯の水がある。手が届くのに取ろうとする意欲が消されている」という意味で出来ない。出来ることをと、何かブログを書くと、「なんじゃ、これはっ」になって赤面逆上。ただただ「泳ぎたい」という欲望だけはある。素潜りで50mばかり泳いでクロールでターン。きっと気分がイイだろうなとおもう。
こういうときはいつも、パソコンも付き合いが良く、動作が妙になる。朝からデスクトップのアイコンが変化したままだ。
晩飯は何をつくっていいのかワカラナイ。とりあえず浅蜊の味噌汁の準備だけはした。
アルコールでもぶち込むかとおもうが、経験上こういうときの酒は痛みを誘発する。
本日は精神科の担当医との電話診療の日で、ともかく現状を報告して終り。世間では精神科の診療についての誤解が多い。私はいまの医師とは長い付き合いなので、たいていこちらが報告をして、向こうがcommentをして10分で終わる。それ以上時間をかける精神科医はヤブである。何かクスリを出すなんて医師はキケンである。下手な役者の何が下手か一回の演技で見抜けない演出家や、別のtakeをと、さまざまなtakeを要求する監督もヘボだとおもったほうがイイのと同じ。客観でも主観でもナイ高画質な視観(high image)を求めないとダメだ。 

2022年2月 7日 (月)

Sophism sonnet・69,8-12

「空」と「無」ってどうチガウの

やや、というか、かなり生臭い話題がつづいたので、気分転換でもしよう。
「空虚」というコトバが前回出てきたので、仏教でいう「空」について私が勝手に学んだことかんがえたことを述懐する。(再々やっているのだが、こういう空虚で生臭い情況のときは、そういうことをかんがえると脳髄も一息つく)
といいつつ、物理学にひょいと飛んでしまうのだが、現在の物理学における主流(あるいは主張)では、この宇宙がインフレーションからビッグバンで開闢する以前、〈そこ〉はいったいナンデあったのかということについて、「時間も空間も無い」ところということになっている。つまり「完全な無」だ。これはこうしないと、宇宙開闢が何処でどんなふうに起こったのかいつまでたっても収束点列してその瞬間に辿り着けナイからだ。ここでふつうのヒトは、そういうことが書いてあるホンを「投げる」。ほんとうにゴミ箱に投げたヒトだってあったはずだ。私も困った。「時間も空間も無い」トコロが在るのだから。いい方を変えればそういうトコロがなければ宇宙は開闢できない。つづめていえば「無が有る(在る)」という極めつけの矛盾を物理学はさらっと云ってのけるのだから、アホラシクて付き合いきれない。
そこで、仏理学のほうに「重ね合わせ」てかんがえてみるという私独特の思考を試みた。要するに『般若心経』だ。かの有名な「色即是空 空即是色」だ。仏理学では大乗系の「空論」の教説として知られている『維摩経』があるが、この教説の要(かなめ)である「不二の法門(ふにのほうもん)ふうにいってしまえば、「色即是空 空即是色」とは、「色」(物質や感覚、およそニュートン力学的な生成)と「空」(非ニュートン力学的な生成)は「不二」(分けてかんがえてはいけない)ということになる。簡単いうと「一緒」「同じ」なのだが、この解説はかなり一般的仏理学の説明でしかない。何が「同じ」何が「一緒」なのか、まで言及しないと意味がナイ。ということは、かつてこのブログにおいても『般若心経とは何か』で展開したので、ここではそれは繰り返さない。もちっとチガッタ斬り込み方を試みる。(切り込みでなく斬り込みだぞ)
わざわざ「色」と「空」をニュートン力学的な生成からの視点にしたのは、開闢以前の〈場・トコロ〉を「熱量平衡状態」の〈場・トコロ〉として、これを「空」とかんがえ、「色」はそこに「熱量」が生じることとして、「色即是空 空即是色」で宇宙開闢を描いてみたのだ。「色即是空 空即是色」の読み方を「色即ち空と成し、空即ち色と成す」という読み方にしたのは、前述した『般若心経論』にも記した。従って、仏理学的にも物理学的にも、「時間も空間も無い」トコロ(場)というのは、「熱量平衡状態」のトコロ(場)で、たしかにそこには「時間も空間」と呼べるものは無いといえば無いワケだし、カラっぽの空間も無いのかと反論されれば「カラっぽの空間」というのはコトバの上での同義反復でしかなく、そういった概念の空間というものは存在しない(空間とは称することができない)と応えるしかナイ。ここで、私たちは「カラッぽ」というものが「空間」だ、という意味づけ乃至(ないし)は概念を棄てねばならない。
「頭が空っぽ」というのは、「脳髄の平衡状態(思考不能)」を云っている。まるでいまの日本の政治を形容しているようだが、それなら狡猾よりマシだ。狡猾な政治、策謀だけの政策よりは、「空っぽ」のほうがまだマシなのだ。(と、居直っておこう)
むしろ、不可思議なことは、そのような「熱的死・熱量平衡状態」な「空」に「何処から」〈時空〉を生じさせる量子(しかナイのだが)が入り込んできたかのほうだ。
こいつについては、私は「空」に「何かが(量子が)コロンと出てきた」という現状物理学の考え方の、外部(が在るとして)からの進入とかんがえるより、内部にコヒーレンスな相転位があったとするほうがイイのではないかとおもっている。
さて、私が思考出来るのは現状そこまでで、古希を目前にして、私は私の脳髄は未だ働いているナという奇妙な安心を得る以上のことは、出来ないでいる。出来ないとはヤラナイことではナイ。はめると痛い義歯に慣れるより義歯を私の口腔に合わせるほうがアタリマエだ。

2022年2月 4日 (金)

Sophism sonnet・69,8-11

一字チガイで大違い「空虚」と「皇居」

理(ことわ)っておくが、私はいまのところは岸田首相の指示者だ。それからずっと昭和天皇、皇后のファンであった。上皇、上皇后となられたいまもそうだ。「皇居」って世界文化遺産になっていないのか。佐渡の金山と比較してというより比較などするほうがどうかしているんだけれど、ナ。

最近『ザ・ファブル』(シリーズ2作目)と『キャラクター』を観ましたワ。DVD鑑賞者なので、世間よりずいぶん遅れています。双方ともレビューは同じくらい(じゃっかん『キャラクター』のほうがイイのかナ)。私は『ザ・ファブル』のほうがホンがよく出来ているとおもいました。『キャラクター』のほうは、百匹目くらいの柳の下の泥鰌にしては頑張っていましたが、二点ほど、ここはダメだなあと、物書きのプロとしては減点。特に最後の犯人の叫ぶようなせりふには唖然として、「それはアカンというよりチガウでしょ」とおもいました。ここだけネタバレとかになりますがアタマのネジの飛んだ犯人が法廷で「ボクは誰なんだあっ」と、云うんですけど、えっ、アイデンティティ、そうか時代というのが存在するとして、サルトルあたりまで後退したかとおもい、せめて「おまえらは誰なんだあっ」くらい云わさないとナア、それとも判事に「あんたか、あんたは人殺しや」と云わせて終りにするとか。で、ないとなんだか「空虚」だ。

なるほど、AFFの親方は経団連か。「連合」とかいうのを調べていくうちに、経団連のことがわかったりしたのだが、にしては、設立時における日本経済聯盟会の名誉会員渋沢栄一氏の顔に泥を塗るようなことをよくもまあ、平然とやるなあと、「空虚」になった。

この「空虚」というコトバの表出は、『世界史の分岐点』(SB新書・佐藤優×橋爪大三郎対談)からきている。いまのところズバリとまでの楔ではナイが、「閉塞」とか「寄り添う」とか、なんかもう忘れ去られた「絆」なんていうコトバよりは皮膚感覚的ですワ。
私は四十年以上の鬱病者だから「空虚」といわれても、わりといままでそういう日常感覚で生きてきたので、もうひとつなのですが、ほかに適当なのは無えな。なんだろなあ。
ワカリマセンが、このホンの中でもっとも印象に遺った言説は「剰余価値」でした。「剰余価値」というのは、マルクス『資本論』の中核に在る言説だが、ここでは資本家の分捕りを示しているのではなく、労働価値の中でもっとも有用、有効な質の量を云う。つまり、一日の賃仕事が短縮され、余暇として用いることの出来る時間だ。この「剰余価値」の平面に〈表現〉があり、演劇もまたそうなのだ。
あたかも旧世界の資本家のごとく「剰余価値」を〈搾取〉するAFFを許容しておいて、マチガッテも「新しい資本主義」などと云ってはイケナイ岸田さん。いつものごとく「文化庁からは聞いてナイ」のだろうけど。

:さて、量子コンピュータ・システムの思考は以上の「重ね合わせ」から何をoutputするのだろうか。波は思わぬところに収束収縮する。日本外務省もいつまでもsabotageを決め込んでいないで、「おいよう、誰か台湾に行く野郎でもお嬢でもいいから、いねえか」と腰を挙げたらどうだ。ベトナムにGDPで追い抜かれる前に。

2022年2月 2日 (水)

Sophism sonnet・69,8-10

Sophism sonnet・69,8-10
ここを私はイブカシム-2

演劇は興行です。むかし興行主はたいていテキ屋でした。演劇はタカモノと称されて、タカマチと呼ばれる、いわゆる「祭」でも丸太とテントで芝居小屋が造られたりしました。地ワリと称される場所指定、その割り振りがご当地テキ屋の最たる仕事で、揉め事のナイように場所を割ります(決めます)。所場代(ショバダイ)というものはありません。各地からタカマチにやってきたテキ屋さんたちは、そこで稼いだ銭はぜんぶ持っていけます。ただ、ご当地のテキ屋には良い場所が地ワリのときに用意されているので、当然稼ぎも良くなるのですが、それはそういう「スジ」「仕来り」「仕組み」「システム」になっているので、文句は出ません。出ないように如何に地ワリをするかが、ご当地テキ屋親方の腕、力量、才覚となります。この他いろいろと興行については、若い頃、テキ屋のバイトをしていて学びました。彼らは売っているものはイブカシイですが、売り方や売り主の扱いは仁義(愛と正しさという『八犬伝』の八つの玉と同じ意味で使っています)に悖(もと)ったものです。
AFF(ARTS for the future)『コロナ禍を乗り越えるための文化芸術活動の充実支援事業』では、これは事務局の仕事です。事務局は「特定⾮営利活動法⼈ 映像産業振興機構」です。ここがどんなところなのか、ネットでいくらでもresearch出来ます。ある種の労働団体の仕事の請けおい屋であることもワカリマス。おそらくここでは演劇(を含めた表現)について現場が理解、了解出来ている方は・・・うーん、存在するのかとイブカシムのです。税金のprofessionalならいるとおもいますけど。
そこで私は、まず、「事業者の申請を蹴った方、少なくとも審査構成員の素性は明らかにすべきだ」とおもいます。でないと、なぜ、認められていたはずの経費が突然NGになるのか、申請の支払い決定金の額が10分の1まで削減されるのか、まったくワカリマセン。それはそのひとたちの「裁量」「資格」「腕」が如何様なものかがワカラナイからです。「如何様」は「いかよう」と読みますが「イカサマ」と読んでもいいような気もします。なんだか、ここで、「暴力団との繋がり」「特定宗教との繋がり」「政治・寄附団体」との繋がりを申請事項で否定しているワリには、この事務所こそ、特定の権力との繋がりがあるのではないかとおもいます。
AFFの特設サイトのFAQ(よくある質問)のコーナーは加速度的に増加しています。(私が最初に問題にした「演劇における必要経費」の「衣装」についても、ここで蹴られたひとにたいして、さほど役に立たない言い訳が述べられています)。

:まあ、なんだ。これだな、問題は。「8-1. 申請に当たっての留意事項 (4/4)の②事業活動状況等を把握するための調査(事業終了後のフォローアップ調査を含みます」。だなぁ。
フォローアップというのは「特定の事柄を徹底させるために面倒をみたり追いかけたりする」「一度行った事柄をさらに強化し、その効果を確認するために、もう一度行って進展を調べる」こと。これ、いわゆる事業者の表現に対する明らかな「介入」だなぁ。
ここは〈憲法違反〉といえそうです。
ですから、事務局方の構成員を公表しなさい、と、私は強く述べたいとおもいます。
親方(ご土地の親分)が誰だかワカラナイようなタカマチにテキ屋が出向くことはアリマセン。

この項、なんかあったら、つづけます。

Sophism sonnet・69,8-9

ここを私はイブカシム

イブカシムというのは、ムハンド・アーラム・イブカシムなどという、あるムスリムの名前ではナイ。もちろん、イワン・ストコイビッチ・イブカシムというロシア人でもナイ。漢字で書くと「訝しむ」(「怪訝」(けげん)というふうにも使いますけどね)。意味をいうと「怪しいと感じる、疑わしく思う、不審に思う、という意味合いで用いられる動詞で、 変だな怪しいぞという思いを抱くさまを表現するコトバ」だ。

演劇における、AFF問題(前回まで書き連ねてきた、病の床にありながら善意だとおもって受け取った布団が逆に引き剥がされることになって泣いている人々)について、ともかくその事業がどんなものだったのかなと、主催者の記した募集要項を読んでみた。普通、そういうものを読んでから「演劇における経費の在り方」について書くのが順序ではないかといわれそうだが、最初に述べたように、量子コンピュータのアルゴリズムに倣って思考しているので、そういうものはどっちだってイイのです。(量子ビットは「重ね合わせ」です。とくに順序・順番はありません)。
で、私が(「私が」ですからね)目を波(点ではなく波ね、波動ですから)にして「うんっ、むむ、はあぁっん」と訝しんだのは、まず、募集から支払いまでの流れです。
システムとしては「文化庁」が在って「事務局(特定⾮営利活動法⼈ 映像産業振興機構)」がその途中にあって(ここがともかく殆ど全部ヤっているみたいですが、もっともイブカシイ)そいで申請者(事業者というらしい)が在ります。
〇募集から支払いまでの流れ(8-1. 申請に当たっての留意事項 (3/4)を観ると、①募集. ②申請. ③受付・. 確認・ 審査. ④審査結果報告 ⑤交付決定 ⑥交付決定通知、⑦補助事業、実施⑧実績報告提出. ⑨実績報告. 確認. ⑩確認結果報告. ⑪支払い額の確定 ⑫支払い額の確定通知⑬補助支払い(〇の中は順序数)
この③の受付・. 確認・ 審査と⑨実績報告. 確認というお仕事は先述した事務局が管轄していますが、当然④審査結果報告も事務局で、で、⑤決定と⑥通知が事業者に届いて.事業者は⑦補助事業実施ということになります。よろしいですか、〈実施〉です。審査で申請を通って交付が決定したと通知がきたのだから、バンザイ、と、公演打つのです。アタリマエですけど。そうなると、ここでともかく掛け売り(後払い)にせよ「銭」は要ります。そんなことは常識です。ところが、現金(げんなま)がお目見えするのは、さらに⑨実績報告. 確認があって⑪支払い額の確定 ⑫支払い額の確定通知が事業者に届いてからで、二ヶ月程度後になります。ここで、600万が60万に化けるという布団引っペがしが行われるのです。「なんでや。実績報告書に不備があったのか」。事業者は事務局に訊ねます。すると、〇〇と〇〇と・・nは経費として認められないと返信されます。そんなアホな、申請の審査は通って交付決定通知までもろたのに、それに申請事項ではOKとなってたやないか。いまさらそれはナイのちゃうか。それはナイとおもいます。事業者は600万審査結果とその決定通知は受け取っていますから、当然、600万で〈審査決定〉したのなら600万の予算を組んでしまいます。常識です。これとよく似た事態は、かつての東映任侠映画にもあります。悪役の新興ヤクザの組が人足を集めるのに「一日1円」といいながら支払いの段になってから十銭しか払わず、文句が出ると「おまえらの運搬代や道具代を差っ引いとるんじゃ」と抜かすようなものです。「そんなムチャな」と云う人足の声を旧来の組が聞いて映画では旧来の地元組が新興組の挑発と暴挙に対して我慢を重ね、とうとう殴り込みになりますが、当世そんな侠客、国士はいません。ここはタイヘンにイブカシムところです。もちろん、AFFには「言い訳」が用意されています。「実際に受け取る補助⾦は「交付決定通知書」に記載した交付⾦額より少なくなる場合があります。(7-7)」です。そういうことはアルでしょう。しかし、決定通知書の1割というのは法外です。コンプライアンスを踏みにじっています。

この項 つづく

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