Sophism sonnet・69,7-5
Sophism sonnet・69,7-5
フィクション
いまごろの若いひと、Z世代だかなんだか私の語彙でいうと「明日来るひと」に該当するのだが、そこまで世界を転じなくてももう少し上の若い人は日本の国会の「一杯のかけそば・騒動」なんかは知らないとおもう。の、ですが。
日本がね、中華大国よりうんと豊かだった世界。中華大国では自転車が道路狭しと大衆が乗って走っていて、自動車なんかの類は夜になってもヘッドライトつけへんねん。何故かというと視えるから。前が。多少視えなくても障害物も、対向車もナイ、そんな世界やった頃のこと。日本の国会でひとりの議員さんが最近読んだ『一杯のかけそば』というハナシに涙したので、ちょっとここで朗読させてもらう、いうて、本、読まはった。
粗筋は特にヘンテツもナイ、貧困の親子三人が蕎麦屋でかけ蕎麦を一杯頼む。蕎麦屋の亭主も女房も三人なのに一杯とは妙だなとおもいつつ、云われたとおりテーブルに置く。親子はその一杯のかけそばを分けつつ食ったというハナシ。蕎麦屋の亭主とかみさんは、厨房にしゃがみつつ涙を拭ったのであった。そうして、それを聞いていた国会議員さんたちも涙ぐんだのであった。
まあ、いまの世の中でしたら、こういうのはほんとうに実話としてあるでしょう(ほんとうにはもっと悲惨な親子心中もありました)。かけそばは親子心中の最後の晩餐だったのかも知れません。しかし、これは虚構の、いうてみたら寓話。つまり「創った噺」虚構、fiction。ということが「ワカッテ」(ここがオカシイんですけど)本を読んだ議員も泣いた議員も〈騙された〉とこんどは怒ったんですネ。ここで私たちが教訓とすべきは、国会議員のセンセ方は国会の最中にゲームしているくらいですから、ゲームが虚構だということは識っているのでしょうけど、どうも虚構というものと現実というものの区別が曖昧だということです。COVID-19が現実であるのに、ここまで来るとfictionじみてvirtualじみているので実感が薄くなっているのではナイでしょうか、ねえ。でないと、この危急、火急のときにのんびりし過ぎなのに「先手を打っている」とか、いうてはるんですな、ソーリ大臣。先手も後手も一手ずつでっせ打てるのは。それを忘却してらっしゃるのじゃナイでしょうか。
:『般若心経』は「大般若経」からのsamplingとremixによるイノベーションであると、かつて学習したのだけど、どうもそうではナイらしく、「大般若経」には『般若心経』に該当する部分は無いらしい。(らしいというのは私の怠慢で「大般若経」を読んでナイもんですから)。つまり、偽経の類に入るらしく、いわば創作教典になるワケですが、そうなると作者の思想にこれまた驚嘆するところ。
研究者において「観自在菩薩」は、読者自身(在家)のことであるとしているひともいるんですが、これもオモシロイ。釈迦入滅時に阿南に遺したコトバ「自燈明」と連鎖していきますから。
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