明日なんかワカラナイ
昨日、千秋楽をうちあげて、さて投票に行くかと近所の投票所に出かけたのが16時頃。晩飯を食ってまだ投票は続いているのだが、NHKなどは出口調査の結果をニュース特番で流していた。私もその出口調査というのはヤった口なんだけど。
その時点では、自民党は単独過半数はギリギリどうかというところで、立憲は議席数を増やすだろうというニュースがラジオから聞こえていた。まだ18時だ。そういうことをニュースにしていいのかどうか、そのニュースを聞いてから投票に出かけたひとも多かろうに。というのも、そのときは投票率はじゃっかんだが(1~2ポイント)上昇するだろうという見込みだったから(と、ニュースがいってたから)、となると与党はますます不利だなあという雰囲気だ。そういうことを聞いて投票に行ったひともいる。逆に与党が負けるならもう行かんでええだろうと、いうひともいたろう。そういうことをニュースで流していいのかどうか。それは報道なのか。ここは微妙というより、私は「ヤッちゃあイカン」とおもう。何故なら、与党の逆転劇はここから始まったからだ。
「与党、危ないですよ」、つまりNHKはそういうニュースを流していたことになる。
此度の野党共闘は戦術的には失敗と成功は五分五分だとおもえる。うまくいったところはうまくいった。反対の目が出たところもあった。それだけのことだとおもう。笑うべくことは、さまざまなメディアの予想がことごとくハズレたということだ。
与野党ともに大物は落選が多いだろうというこちとらの予想はアタリ。「れいわ」が比例で2議席はいくだろうも、3議席ということだから、ハズレちゃいない。
まあ、いいや終わったことは。これからどうすんのかだからな。
極私見、勝手なことをいわせてもらうと、まず立憲・共産が共闘するなら、共産党はもう「意味」も「価値」もなくなった「天皇制反対」と「安保反対」は公約・規約から外すことだ。
エダノやシイのどんな演説より、結婚記者会見での新婦のコトバのほうが国民のココロに深く響いたことは驚くべきことだ。これは劇作家としていっている。
「共産主義」とは何か、ということをワカッテいる庶民大衆がどれだけいるか。アソウの「立憲共産党になるぞ」というコトバが脅しとして未だに通用する(とアソウはおもって声高に演説しているのだが)この国で、立憲は立憲のvisionを、共産は共産のvisionを明確に庶民大衆に示して、どの部分で共闘するのか、先は長いかも知れないが政権交代をどのようにして成すのか、この具体性が示せないうちは、モリカケ花見をいくら批判してみたところで、市井にはとどかない。政治に菓子折りがつきものくらいは江戸時代からこっち、「許すまじ」ではなく「ありそうなこった」が世間というものなのだ。
此度は本番に使った小劇場の真向かいが「うなぎ屋」で、選挙前日に中高年から高齢者の接待があったらしく、ぞろぞろと出てくる「有力者」らしき爪楊枝に、「それではよろしくお願いします」と主催者がお辞儀をしていたが、この時期、それがどんな接待だったか一目瞭然。菓子折りこそ下げていなかったが、なあにそれ、どれくらいの額の振り込みがあったことか。ランチが五千円もする「うなぎ屋」のディナーに十回はイケルんだろうな。
若者よ、食えない若者よ、近年軍事力において合衆国と肩を並べようとしている大国には、未だ電気が通っていない村落もあるのだ。その大国では、いくら働いても将来の夢は無く、ただ横になっている若者すらいるのだ。
「日米安保」などと「思いやり予算」などと、未だに本国の政治家の大多数はアフガニスタンでの合衆国の醜態を観てみぬふりをしているだけだ。タリバンとはまず学生の宗教運動から始まった宗教軍だということを忘れるな。香港が民主主義のために闘ったのと同じように、タリバンはタリバンなりにおのれの信ずる宗教の教えにおいて闘っただけのことだ。
「選挙に行けっ、選挙に投票に」とうるさいのだが、それは「権利」であって義務ではなく、また一票に対する「責任を負うことはない」と日本国憲法の選挙法にはそう記されてある。
此度の衆院選で勉強させられたのは、「維新」の躍進の理由が地道なドブさらいだったことだ。「どぶ板選挙」とはいうが、彼らは「どぶ浚い」のごとく地道な政治を民衆サービスを怠らなかっただけなのだ。
「蟻の一穴」からしか政権転覆は成らず。おそらくこの国ではそうだとおもう。
巨きなものは必ず倒される。それを倒すものは、少年の手にしたえんどう豆の種の小さな一粒だ。すべての世界の童話には、そういう教訓が含まれてある。
バラまかれた銭はやがて若者のツケにまわされる。しかし、君たちの父母や祖父母は瓦礫の中で、目刺しと梅干しだけの弁当を食いながら、文字通り捲土重来したのだ。
「あした来るひと」というタイトルの映画がある。いいタイトルだとおもう。この映画は結末を持たない。あしたなどワカラナイからだ。
あしたなどワカラナイぞ。ワカラナイぞ。ワカラナイのだぞ。
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