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2021年10月 8日 (金)

青空のはてのはてな

無神論者ではナイ。八百万の産土の神々があってよし。ヤハウェ、キリスト、マリアあってよし、ルシフアーだってよし。ムハンマド、アッラーあってよし。浄土も蓮華経も弥勒もあってよし。ただし私とどう関係しているのか私は知らない。要するに無信心、信仰心が無いのだ。あったところでみな関係妄想のような推測にしか過ぎない。従って邪推という推論すら含まれる。たとえばヤハウェは〈完全〉だから、完全に失敗な世界を創造したために、何が失敗したのかがヤハウェにもワカラナイともいえる。この場合ワカラナイということは不完全なのではなく完全である証拠だ。完全には矛盾も含まれねばならない故。すると、少なくとも創造物の私たちニンゲンは失敗作であるので、世の成しごとの何もかもに責任というものはナイ。という命題すらたてられる。八百万の神道はけっきょくキリスト教国に一敗地に塗れた。浄土や蓮華や弥勒を仲間にしても勝てなかった。どうも、あっちにはギリシャの神々も味方したらしい。あっちは闘い慣れた神々で、常時悪魔(堕天使ルシファー、サタンとか)と闘っている(続行しているという説)。ものの初め、ことの初めからのその闘いは五分の闘いらしいが(どちらも同等の力だから決着がつかない)その余力で勝っているのだから、まあ、島国の神には勝ち目はなかったろう(けどタリバンには負けたナ。だからアッラーに負けたというワケでもあるまい。だってtopの神は同じだもの)。あっちのスタイリッシュな神々に比して百姓一揆のようなものだったんのだろう。といったことも〈創作〉するのは可能なのだ。私たちは幾らでも神を持てばヨイとおもう。パチモンが殆どだろうけど、鰯の頭もなんとやらだからナ。霊魂というのは趣味にあわないが、スピリチャルというならそれはよかろうとおもう。
てなことを書いている10分ほど前には、昼飯の支度と晩飯のちょっとした拵えをしていたのだから、このrealとillusionの架け橋(変容・変貌)がまたオモシロイ。
この年齢になると、食いたいものを好きなように食えるという快楽から乖離しなくてはならない。そういう高齢者はけっこう多いのだ。とはいえ、いざそういう食材を工夫してみるとこれがなかなか愉悦であって、心身から余計な欲望、欲求が消去されていくのがワカル。これをこそ、ほんとうの断舎利というのではあるまいか。私が誤解、曲解、反撥されがちなエピクロスやスピノザに肩入れしているのは、その哲学があまりに釈迦のかんがえと似ているからかも知れない。/パンと水さえあればゼウスと幸福で勝つこともできる/といってのけたエピクロスだが、やっぱあれだな「パンと水」は必要なのだ。だからそれ以上は必要ではナイ。富や権力などもってのほか。カール・マルクスは革命後の世界の人間像にエピクロス的存在をimageしたらしいが、それもまたワカルってもんだ。スピノザくんの哲学(神)は哲学・神学業界では「神即自然的汎神論」と称され認識されている。近いよネ、エピクロス、スピノザ、釈迦の思想、思考。私が信心なくとも無神論者ではナイというのはこういうことだ。そうそう、老荘はちょっと手を出したが、諸星大二郎画伯の作品漁読でもうそれは充分だろうという気がしている。
さて、本論としては、/命題「鬱疾患は精神疾患ではナイ」/の続きを書こうとしたんだけど、またこんどにナリマスな。

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