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2021年10月17日 (日)

死にたくないなら(改訂)

殺されないことだ。/死にたくないなら殺されるな/だ。「殺人」の絶えた日はナイ。地球上で殺人の起きなかった日というのはナイ。互いに殺し合う戦場(戦争)というものを勘定に入れなくとも、私たちは殺される。此度、疫病と失政でヒトが殺されていくのを目の当たりにした。救えるべく命を放置される。守れるべき命を黙殺した。「医療崩壊」などCOVID-19において始まったのではナイことは以前に書いた。私たちは医療ガイドラインに記された統計において治療される。さらには、ワクチン接種の〈済・非済〉によっても少しずつ命を測量される。自身の生死を他者の設計(プログラム=システム)における統計データにとりこまれ管理されるのだ。そうして医師たちは、患者さま第一(というか、責任回避)で医師法なんて平気で逸脱し「私どもはadviceをしているだけで病と闘うのは患者のあなたです」と述べる。そうじゃナイだろ。自分でなんともならない病だからこそ医者に行くだべ。闘病が自助じゃ医療じゃナイでやしょ。と、ぼやくは患者ばかりなり。
/殺されない/というのは/生き残る/ということではナイ。積極的に/生き延びて死ぬ/ことだ。そうして、もちろん矛盾が生まれる。生き延びるためには殺してもよいのか、だ。自然には「食物連鎖」という生存、存続の摂理があるが、私たちはその摂理から逸脱して、殺される。
アルベール・カミュの述べた「不条理」と「反抗」については難解というより文学的に過ぎてまったく思想、哲学のcategoryを滑降しているので、ワカリニクイ。うんだべ、では、/簡単にいうとワカリヤスイ/のか。さてどうだろう。イエスだって簡単だけどワカリニクイことをいっている。マチウ・20じゃ「天国とは葡萄園と労働のようなものである」と、要するに天国における「平等」を簡単に説いているのだが、そらまあ、マルクス主義者からしてみりゃ「キリスト教」は阿片だ、なんていいたくもなるわな。しかし「簡単」のほうが簡単に決まっている。カミュ当人は友人とのバカ談話の中で「不条理というのはネ、つまり永遠の愛などというのはナイということさ。なんでならヒトは死ぬからネ」と、えらく簡単にまるでjokeのように不条理を説明している。簡単だが、ワカッタような気になるワケでもナイ。永遠でなくとも愛なんてあるのかどうか私は知らない。うーん、どうも不条理というのは簡単ではナイようだ。たぶん、私たちは「簡単ではナイ」ところを生きているらしい気がする。だから楽じゃネエんだ。むしろ、簡単を「単純」に置き換えると、なるほど、そのほうが理が納まる。単純なものほど簡単ではナイからなあ。では「不条理」という単純ではナイものと闘うための営為を彼はどう表現しているだろう。ハッキリとした名言、命題的文章はナイが、『ペスト』の中では、主人公のリウーは、えーと、おい冗談じゃねえな。高校生の頃か、そうか半世紀以上むかしか。何が冗談じゃねえのかというと、いまおもいだすとおもいだせないのだ『ペスト』、どんなハナシだったっけ。そういや、ネズミが最初に出てきたな。神父がヤケにクソだったな。地中海の水浴が気持ち良さそうだったな。ほいで、なんだったか。私は大慌て(でもナイけど、まあ副詞的にはそんな調子で)あらすじをネット検索して読んで、ああ、そうだった、そうだったよなあとホッとした。(リウーの妻の死については多感だった頃、これこそ不条理じゃねえのけとおもったワ)。
カミュは体躯はそれほどでもなかったが、Face photoを観るかぎり、イケメンだ。Tabloid的にいうと、サルトルは醜男だったから、その点でカミュをずいぶん憎々しくおもっていたらしい。とはいえ、サルトルにはボーボワールという都合のいい女性がいて、といってボーボワールを抱いていただけじゃナイ。ボーボワールに仲介させて、けっこう女子学生のつまみ食いはヤっていたと、これもtabloidだけども。ワワ、ハナシが逸れ過ぎたべな。
そうそう「反抗」だったよな。ぼんやりとした記憶では、リウー(たち)は医師だったから、出来るかぎりの医療に専念していただけで、「負け試合」とわかりきったペストとの闘いに決然とナンカした覚えはナイ。それが、彼らの「反抗」だったのだとおもう。それでペストに罹患したものが死んだとしても、リウーたちを責めることは出来ない。リウーたちも余計な悲嘆は排している。この「反抗」という闘いが何であるか。閉じられた街で何故、無辜な民が死なねばならないのか、問うても答えは出ない。そういうことを仏教では〈不問〉というが、リウーたちは仏教はもちろんのこと、キリスト教の信者でもナイ。カトリック(正統)でもクリスチャン(異端)でもナイのだ。罪も罰もナイのだ。そこには、ペストという生物との死活をかけてはいるものの「勝ち目の無い」簡単ではナイが単純な闘い、「反抗」が在るだけだ。負ければ死ぬことに寸分の異論もナイ。単純なものと闘うことほど難しいものはナイ。これじゃあ読者はついてこられないかなと、ついつい不安になったカミュは演劇、つまり戯曲で『カリギュラ』なんてのを書いてみる。なるほどワカリヤスイ。不条理の解説が高校演劇なみだ。とはいえ、こんなの舞台でヤル気にはナンネエ。
COVID-19は進化学的生存のためにいったん攻撃力(繁殖力)を休止したが、しかしその気配たるや文目も知れず泰然としている。ヒトはそれに簡単に単純な油断という立場をとっている。中には大喜びで居酒屋で久しぶりの一杯だ。いいのかねえ。いまに選挙の当選で万歳のかけ声があちこちでこだまするだろう。用心したほうがイイ。私たちは案外、こういうものに/殺される/のだ。万歳っ、COVID-19は終わった。/生き延びた/そうかねえ。未だCOVID-19は終わってはいない。油断するな。さて、出来るかねえ。
私たちはけして複雑なものに難解な闘いを挑むのではなく、簡単なものに単純に対峙しよう。闘う準備などしなくていい。どうせまた始まったらジタバタするだけなんだから。
/死にたくないなら殺されるな/は、その〈死〉が/殺される死/ではナイことを立証すべく、/自らを死に追いやるものへの「反抗」/に他ならない。あんなふうには死にたくナイ。こんなふうに殺されるのはゴメンだ。それで充分。死闘もよろしいかも知れないが、私は自分自身の納得と覚悟に見守られながら「単純」に自らの死を死にきることが出来ればヨシとおもう。南無自燈明。オレもアンタもこれはこれで弱者(貧者)の一灯なんだからな。

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